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2. と、暮らす

34 不穏な通達

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「昨日、吸血鬼に会ったんだよね?」

 しばらく呆然としていたネルに、コーヒーのカップを渡し、自分は、ボウルでコーヒーを啜った。角にある机の椅子に座ったネルと、向かい合うように、ベッドに腰掛けて、少し目線をあげると、「僕がそっちに座ってもいい?」とネルが尋ねるので、椅子が硬かったのかなと思いながら、場所を変わった。
 ネルがフレンチトーストを食べていた様子を思い出した。あの、美しい所作から考えれば、もしかすると、ネルは育ちがいいのかもしれないなと思ったのだ。木の椅子なんてありえないっていう感じなのかもしれない、と、自分の中で結論づける。
 そして、尋ねられたので、答えた。

「うん。会った。でも目隠ししてたから、顔を見たっていうわけでもないけど…」
「もう、絶対に近づかないでね」

 潜入捜査までしておいて、近づかないで、とはどういうことだろう。吸血鬼が危険なことなんて、ベスィ一人見たって明らかだ。そして、あの十二日のパレードのような真似も、俺は見た。頭がおかしい奴だってことくらい、ちゃんとわかっていた。
 それでも、その吸血鬼を倒さなくてはいけないのだから、近づくなというのは、やっぱりおかしいような気がした。

「───は?」
「危なかったって聞いた。噛まれてもおかしくない距離だったって。どうして、そんなことになったの?」

 そんなのは、俺が聞きたい。
 レンツェルが、全てのメイドに…あるいは、全ての黒髪のメイドに「かわいい」とか言って、近づくような輩であるというのなら、昨日の出来事の敗因は、俺の黒髪にあった。そして、まあ、あの嵐のような潜入と、チェルシーが突然消えてしまったことも、原因であるわけだった。

「そんな危険なことになるなんて、危機管理能力どうなってんの?」
「ハア??お前、状況も知らないで、そんなこと言われる筋合いないんだけど」
「ねえ、僕は聞いたんだけど。壁に挟まれて、顎掴まれて、キスされそうになってたんでしょ」
「ハア?!そ、そんなわけあるか!!───って、ん?」

 まさかチェルシーは、そうやって報告したんだろうか。顎を掴まれてキスをされそうになっているだなんて、そんなことがあるはずはなかった。だが、冷静になって考えてみたら、確かに、そう見えてしまった可能性もあったかもしれない、と、少し思った。
 あれは違うんだ、と、弁解しようと口を開いたら、先にネルに言われてしまった。

「ほら見ろ。あんな秘密結社みたいな場所のトップに、どうやったら、遭遇すんのかも意味がわかんないっていうのに、その上、遭遇したら、吸血鬼にベスィにされそうになってるとか、まじで、なんなの?どうやったらそうなんの?」
「ち、違う!!あれは、なんか、顔を…確認されてたっていうか…」
「顔?顎掴まれて??ねえ、そんなに簡単に吸血鬼をたぶらかせるならさ、もう、ソーマが色仕掛けして誘き出したら良くない?ああ、そうだよね。治癒してもらってるだけで、あんな簡単に気持ちよくなっちゃうんだもんね。もしかして、好みだった?色目使った?」
「なっな?!?!な、なんでそんなことまで言われないといけないんだよ!!!」

 い、色目?!と、俺の頭は大混乱状態にあった。
 一瞬、え、そんなことしたっけ?と、考えて、あ、確かに、最悪な状態を回避しようとして、惚れてるっぽい演技はしたけど…と、思ったが、それは、顔を確認された後だったと、思うのだ。確かに、危険だった。それは認めよう。俺も、正直、命の危険を感じた。だが!だが、しかし、───!こんな有りもしない誹謗中傷をされる筋合いは全くない。
 ぶちっと何かしらの血管が切れたような、そんな、気がした。

「じゃあさ、聞くけど。お前だって、───あんなに長く唾液垂らす必要あんの?!お前のその能力がなんなのかは知らないけど、あんな長くすることある?お前、何?他の人にも、たとえば、スパロウ課長とかとも!ああやってキスしてんの?」
「なっそ、そんなわけっ」
「お前も案外、気持ちよくなってんじゃないのか?いつも目隠しされるけど、本当は、気持ちくなってる自分の顔、隠してるだけだったりして」
「は、ハアー?!何勘違いしてんの。気持ち悪いんだけど」

 き…気持ち悪い?!と驚愕する。俺は、確かに、他の人間とキスしたことはないのだ。だから、あれが、どうなのかとか、普通はどうなのかとか、本当に、わからないのだ。でも、でも、と思う。
 それでもやっぱり、冷静になって考えれみれば、あんなにねっとり、口の中を舐め回される必要になんて、絶対にないと、思うのだ。だって、唾液を、体液を、飲み込むだけでいいんだったら、それこそ、あの吸血鬼みたいな乱暴なやり方だったって、大丈夫なはずなのだ。頭の中を、目まぐるしく、様々な思考が駆け抜けていった。
 そして、よくわからなくなった俺の口から出たのは、もはやただの文句だった。

「キス長ええんだよ!!」

 ぜえぜえ、はあはあ、と、お互いに座ったままだと言うのに、肩で呼吸をしながら、じっと睨み合っていた。
 しばらくそうしていたが、その不毛さに、馬鹿らしさに、そもそもどうして、こんな話になってるんだ…と、俺は頭を抱えて、うずくまった。
 そう、はじめは、吸血鬼の話だったはずなのだ。
 俺は頭を整理した。昨日遭遇した件を、チェルシーがネルとスパロウ課長に報告をしたんだ。それで、その危険性から、今日の潜入捜査がなくなって、朝、ネルがうちの前にいた。それで、今後の方針を聞くなり、潜入の結果を報告するなり、そういうことを、しなくてはいけないはずだったのだ。

(なんで…キスの話になってんだ……)

 恥ずかしくて、顔が赤くなっている自信があった。でも、ちらっと前を見てみたら、何故か、ネルも顔を押さえてうずくまっているのがわかり、お互い様か…という気にもなった。
 どこかでこの馬鹿らしいやり取りの終点を見つけなくてはならない。そう、思った時だった。
 未だ、顔を押さえてうずくまったままのネルが、「はー」といつものデフォルトのため息をつき、そして、心底嫌そうに宣った。

「まあ、とにかく。荷物まとめて。今日から、俺んちに引っ越し」
「───ハア???」

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