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1. と、出会う

31 後ろ

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「さっき、僕の部屋にいたのは、───お前?」

 そう、後ろから声をかけられて、ビクウッと肩が震えるのを止めることは、できなかった。
 あの後、───二人が浴室に消えたタイミングで、そっと俺たちは、廊下へと抜け出した。流石に、覗き見はまずかっただろ!と、チェルシーに話しかけようとした瞬間、何かを見つけたようなチェルシーは「ごめん、すぐ戻る」と言って、ネルみたいな、風のような速さで、廊下を曲がって行ってしまった。その場に取り残された俺は、どうしたものかと、とにかくメイド長のところへ戻ろうと、踵を返した時だった。
 今の今まで、聞いていた声に、───に、そう尋ねられて、俺は固まった。

「っっ!?……い、いえ。ただ、廊下の、そ、掃除を…」
「ふうん。僕の部屋の前は、しなくていいって、聞かなかった?新入りかな」

 後ろから、そっと首筋を撫でられ、肝が冷えた。
 メイド長は、そんなこと言っていなかった。それどころか、寝室の中までも掃除するようにと、そう、聞いていたのだ。だからもしかすると、レンツェルが嘘をついて、反応を見ている可能性もあるのだ。ていうか風呂は?!どうなってるんだ?!と、混乱した頭のまま、自然と、逃げるように壁際に寄ってしまい、すぐ様、それが、間違いだったと気づく。なぜか、壁を向いて立った俺は、両側を、すらりとした長い腕で、挟まれていたのだ。壁と、手に阻まれて、身動きひとつできない。

(……まずい!!)

 一応、廊下にいた体を装ってみたものの、明らかにレンツェルは、俺のことを疑っていた。レンツェルの体液一つで、俺は死んでしまうのだ。この状況は、拳銃を心臓に突きつけられているのと、なんら、変わりはなかった。
 レンツェルが、遊ぶような声色で言った。

「黒髪の子、かわいいよね。僕は、好きだよ」

 俺の髪型は、もちろんショートだが、チェルシーの持っていた変装用の魔導具で、無理やり、小さく一つ結びになるようになっていた。その、ちょこんと、しっぽのように出ている部分に、何かが触れている感覚があるのだ。俺は、ちらっと、自分の両側に目をやる。二つ、手がある。もしも、俺が気がつかなかっただけで、吸血鬼に手が三本あるというわけではないのならば、俺の髪に触れているのは、多分、レンツェルの顔の一部なのだ。

「あれ、震えてるの?」

 スッと右手を掬われて、背筋が凍る。そのまま指を絡められ、一緒に壁につかれた。いつの間にか、左手までもが掬われてしまい、俺は、もはや壁に貼りつけになっているような、そんな、状態だった。
 吐き出された息が、ふわっと髪にかかる。

 俺の、すぐ、後ろにいるのは、吸血鬼なのだ。

 あの唇に噛まれてしまえば、俺はもう…死んで…ベスィになってしまう。どっどっどっと心臓が爆音で鳴り響いていた。まずい、まずい、と、思うけど、一体何をどうすればいいのかがわからずに、ただ、身を固くした。その様子は、やっぱり不自然だったのか、尋ねられてしまった。

「……あれ、もしかして、知ってる?僕のこと」
「い、いえ。で、でも!もしかして、フリティラリア様…ですか…?」
「ふふ。だとしたら、この状況は、大変?」
「……た、大変です…あの…掃除のことは、すみません。でもっその、お部屋の掃除もと言われてっ」

 よくわからないが、とにかく、嘘を重ねないことが大事だと思った。メイド長に言われたことも、今の状況についても、とにかく、正直に伝えようと、そう思った。若干、涙目になりながらも、意を決して、少しだけ、振り返った。
 目の前には、やっぱり、さっきの目隠しの男がいた。近くで見ると、目を覆っている紫色のひらひらした布には、繊細な刺繍がされていることに気がついた。でも、透けているわけではないのだ。一体、どうやって周りを見ているんだろう、と、不思議に思う。
 俺より、ちょっと背が高い。
 ビクビクしている俺が面白いのか、どうやって見ているのかは知らないけど、レンツェルの顔は、じっと見つめるように俺の顔を向いていた。そして、驚いたような顔をして、口を開いた。

「……あれ?お前、その顔……」
「え?」

 ぐいっと顎を掴まれて、観察するように、顔を見られた。
 真剣な雰囲気。だけど、俺はそれどころじゃなかった。数センチ先に、吸血鬼の、唇があった。恐ろしくて、恐ろしくて、震えてしまいそうで、必死に、本当に女のメイドだったらどういう対応になるかってことを、頭の中で考える。
 雇い主…金持ちで、地位もある、雇い主。
 見た感じ、年寄りでもない、ちょっとかっこいい雰囲気の、雇い主、───に、壁と体に挟まれて、顎を掴まれているのだ。
 普通の、田舎から出てきた女は、どうするんだろう。はじめは、戸惑って、怒られることに怯える。でも、きっと、大丈夫。だって、目の前にいるのは、きっと、地位も金も持ってる、しかも、慈善事業に取り組んでいるという、人望のある雇い主。きっと、その後は、───姉さんの恋愛小説であったはずだ。メイドと主人!あったはずだった。

「あ、あの…っ……」

 できるだけ、かわいい女の子が目の前にいることを頭に浮かべる。
 そして、その女の子に、迫られているのを想像する。必死だった。目の前の人に、恋をしてるみたいな顔を作り、頬よ赤くなれ…!と思ったとき、つい最近、というか、つい昨日、自分が望みもしてないのに、頬を染めてしまったことを思い出し、あまりの恥ずかしさに、ぼっと顔に熱が集まった。

(ふ、不本意……!!!だが、都合はいい!!)

 くっと身を斬る思いで、自分の顔の熱さに、内心感動する。
 姉さんには悪いなと思う。でも、多分、この状況で、恋でもしているかのように、頬を染める女なら、きっと、───

「!……ああ、ごめん。女性にこんなことを、するべきではなかったよね…」

 普通の男なら、きっと、身を引く。吸血鬼を、普通の男として数えていいのかも、よくわからない。何をしようとしているのか、何を確認しようとしてたのかも、何もわからないけど、それでも、そのままその行為を続行しようとはしないだろうと思った。
 そう言いながら、レンツェルは、そっと俺の手を離してくれた。ほっと胸を撫で下ろしそうになるのを、ぐっと堪えて、えっというような、若干のがっかり感を、出すことに集中した。

「前にどこかで見た気がしたから…」

 なんだか最近、そんな言葉を聞いたような気がして、ん?と首を傾げていた時、ちょうど曲がり角から出てきたチェルシーが、驚いた声で叫んだ。

「ソフィア!!」
「え、あっ…はい!」
「す、すみません!この子が何か粗相を致しましたでしょうか?!」

 チェルシーは明らかに、通常よりも大きな声で、そう叫びながら、レンツェルと俺に向かって小走りで走ってきた。多分、他の、普通の人間がいるのなら、この声が届けばいいと思って、そうしているんだろうと思った。多分、まずいと思っているはずだった。だから、俺は、ギリギリと痛む胃を感じながらも、先ほどの、恋するメイドを続行する決意をした。

「あ、あの、フリティラリア様が…」

 頬を染めながら、ちょっと嬉しそうに、報告しようと声をかけ、チェルシーは、ただひたすら大きな声で謝りながら、急いでその場から退散したのだった。だから、俺たちを無言で見送っていたレンツェルが、呟いていた言葉など、俺たちが知る由もなかった。

「──────ソフィア?」


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