28 / 92
1. と、出会う
28 傘の中
しおりを挟むそう言ったネルの表情が、なんだか、憂いを帯びていて、雨のせいかもしれないけど、なんだか色っぽく見えて、どきっと心臓が跳ねた。そして、言われた言葉の意味を、頭が理解して、かああっと顔に熱が集まる。
そのまま固まっていたら、そっと頬に手を当てられ、ぐっと手を引き寄せられた。思わず、俺の傘が後ろに転がる。人通りの少ない場所にある停留所の近くだ。細い路地を通ってるところだったし、周りに、人はいなかった。
あっという間に、ネルの傘の中に隠されて、気づけば、すぐ目の前に、ネルの華やかな顔があった。その流れるような仕草に、驚いて、でもどうにかして止めなくちゃと思って、叫んだ。
「ちょ、ちょっと!いいって!」
「……どうして?」
肩に傘をかけたネルが、頬に当てた手の親指で、俺の頬を擦った。反対の手は、ぎゅっと握られ、いつの間にか、指が絡まっていた。どっどっどっど、と、心臓が、爆音で鳴り響いていた。そのネルの仕草は、まるで、誘ってるみたいで、一体なんで、こんなことになってしまってるんだ?!と、俺の頭の中も、心の音も、楽隊の演奏並の大騒ぎだった。
ネルがいつも通りのにやにやした顔で尋ねた。
「もしかして、気持ちよくなっちゃうから?」
「っっそ、そんなわけないだろ!」
そう叫んで、どうにかネルから距離を取ろうと、ぐいぐい胸を押すけど、ネルはびくともしなかった。この前も思ったけど、一体どうしてこんなに力が強いんだ、と思う。必死に抵抗してたのに、耳元に近づいてきたネルが、いつものちょっと鼻にかかった甘い声で言う。
「どうかな。この前は、随分と…気持ちよさそうだったから」
「~~~っっ」
耳に、ネルの息がかかって、びくっと体が震えてしまう。いつの間にか、掴まれてた手ごと、腰を引き寄せられ、それは、否応なしに、前回こんなことになってしまった時の、俺の記憶を呼び起こした。自分が、この前、どんなことになってしまったのかを思い出し、恥ずかしくて、恥ずかしくて、どこかに逃げ出してしまいたい。またあんなことになってしまったら、きっと、もっとネルに揶揄われてしまうに違いなかった。
───でも。
何故か、突然、ぎゅうっと抱きしめられた。そして、───
「ソーマ…」
耳元で、そっと、名前を呼ばれた。
なんでだろう。なんでかはわからないけど、でも、何故か、切ない声だと、そう、思った。
まるで、もう離したくないみたいに、ぎゅうっと強く抱きしめられて、意味がわからなくて、混乱した。こんな時間に、酒が入ってるわけはないだろうし、この前の俺みたいに、寝ぼけてるなんてこともないはずだし、女の格好してるから、間違えてるって言うほど、おかしなことはないだろう。というか、現に俺の名前を呼んでいるのだ。おかしなことを考えているのは、どちらかと言うと、俺の方だった。
(───え?え??)
ふわっとネルの爽やかな香りが広がって、どうしたって、この前のことを思い出してしまって、ネルの胸を押していたはずの指が、不安げに震えた。随分、長い間抱きしめられていたような気がしたけど、俺は混乱してたから、もしかしたら、一瞬だったのかもしれない。ネルの手が緩んだかと思うと、目の前にある、空色の瞳。そして、───。
「あっ まッ」
待って、と言おうとした言葉ごと、ネルに飲み込まれてしまった。ん!と、思わず口にした俺に構わず、ゆっくりと、口の中を蹂躙された。舌先で優しく撫でられ、上顎を擦られ、熱い息が漏れた。や、やだ!また揶揄われる、と、焦っているのに、まるで、体は、ネルのことを待ち望んでいたような、喜んでいるような、変な感覚。
力が抜け、だんだんと、思考も、体も、ネルに支配されていく。
「んっ っは…」
濡れた声が、雨の音と混じって、耳に届いて、震えた。
とろっとしてしまった目で、ネルのことを見たら、また、片手で目隠しをされてしまった。
(また…目隠し…)
ぼうっとしてきた頭で、なんとなく、視界を奪われると、余計に、ネルの舌を生々しく感じてしまう気がした。じゅっと舌を吸われれて、びくっと体が跳ねた。このまま、もっと、もっと絡まったら、どうなるんだろう、なんて、そんなことを考え始めた時、───視界が開けて、ネルの体が離れた。うっかり、また気持ちよくなりかかっていたことに気がつき、ハッとする。
もはや涙目ではあったが、とにかく精一杯の文句を口にした。
「な、なんでこんな…!」
「頭痛いって言ってたからだよ。治ったでしょ」
「だ、だからって!そもそも!お前のその能力は一体なんなんだよ!治癒なのか?!こんな、こんなこと…し、しなくていい!」
「……ソーマは、すぐ気持ちよくなっちゃうもんね」
にやにや笑いながら、図星を指されて、ぐっと唇を噛みしめた。
だって、だって、と、心の中で言い訳をする。ネルの能力のなんたるかは、俺の知るところではないのだ。だけど、だけど、たとえ治療だとして、それでも、あんな風に、口の中を舐められたら、誰だって…!と、思うのだ。
「違う!治療だって言うなら、こんな風にする必要なんてないだろ!よくわかんないけど、唾液でどうにかなるって言うなら、そ、それだけ渡してくれても!唾液が治癒の効果があるのか?!」
言いながら、それはそれで、おかしいということは、わかっていた。頭痛がして、はいどうぞ、と、ネルに唾液を渡されて、それを舐める自分を想像したら、なんだか違う気がした。でも、だからと言って、どうしたらいいかなんて、想像もつかなかった。
ネルは言った。
「唾液っていうか…まあ、体液だけど、血とかは飲みたくないでしょ?それに、ほら、雰囲気作りって大事かなって。女の子って、そういう自分だけが愛されてるみたいなの、好きだから。って、あー…ソーマはそんなこと知らないか」
「なっ!なっ?!う、うるさい!!余計なお世話だ!」
この細い道を抜ければ、もう停留所なのだ。俺は、傘を拾って、ネルから逃げるように、停留所に向かって走り出した。最寄りの停留所は、家のすぐ目の前だから、乗る前に傘を返さなくちゃと思っていたことなんて、すっかり忘れていた。そのまま、ちょうど向こうから来た乗合馬車に乗って、俺は、その場を後にした。
乗合馬車の窓から、ちらっと一度だけ振り返ったら、いつも通りのヘラヘラした笑顔で、ネルが手を振っているのが見えて、すぐに顔を背けた。そして、思う。
(もう…なんっ!ほんとに、何なんだよ!!)
しばらく悶々として、それから、呆然として、自分の最寄りの停留所が近くなった頃、ようやく、気がついたのだった。
「───あっ!傘。これ……」
返すのを忘れた。
10
お気に入りに追加
254
あなたにおすすめの小説
【完結】別れ……ますよね?
325号室の住人
BL
☆全3話、完結済
僕の恋人は、テレビドラマに数多く出演する俳優を生業としている。
ある朝、テレビから流れてきたニュースに、僕は恋人との別れを決意した。
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語
紅林
BL
『桜田門学院高等学校』
日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ
しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ
そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
年上の恋人は優しい上司
木野葉ゆる
BL
小さな賃貸専門の不動産屋さんに勤める俺の恋人は、年上で優しい上司。
仕事のこととか、日常のこととか、デートのこととか、日記代わりに綴るSS連作。
基本は受け視点(一人称)です。
一日一花BL企画 参加作品も含まれています。
表紙は松下リサ様(@risa_m1012)に描いて頂きました!!ありがとうございます!!!!
完結済みにいたしました。
6月13日、同人誌を発売しました。
美貌の騎士候補生は、愛する人を快楽漬けにして飼い慣らす〜僕から逃げないで愛させて〜
飛鷹
BL
騎士養成学校に在席しているパスティには秘密がある。
でも、それを誰かに言うつもりはなく、目的を達成したら静かに自国に戻るつもりだった。
しかし美貌の騎士候補生に捕まり、快楽漬けにされ、甘く喘がされてしまう。
秘密を抱えたまま、パスティは幸せになれるのか。
美貌の騎士候補生のカーディアスは何を考えてパスティに付きまとうのか……。
秘密を抱えた二人が幸せになるまでのお話。
求職令嬢は恋愛禁止な竜騎士団に、子竜守メイドとして採用されました。
待鳥園子
恋愛
グレンジャー伯爵令嬢ウェンディは父が友人に裏切られ、社交界デビューを目前にして無一文になってしまった。
父は異国へと一人出稼ぎに行ってしまい、行く宛てのない姉を心配する弟を安心させるために、以前邸で働いていた竜騎士を頼ることに。
彼が働くアレイスター竜騎士団は『恋愛禁止』という厳格な規則があり、そのため若い女性は働いていない。しかし、ウェンディは竜力を持つ貴族の血を引く女性にしかなれないという『子竜守』として特別に採用されることになり……。
子竜守として働くことになった没落貴族令嬢が、不器用だけどとても優しい団長と恋愛禁止な竜騎士団で働くために秘密の契約結婚をすることなってしまう、ほのぼの子竜育てありな可愛い恋物語。
※完結まで毎日更新です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる