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1. と、出会う
14 壊れた人形の夢
しおりを挟む「覚悟、しといてね」
ネルがそんな不穏なことを言い出したのは、馬車が観光地であるクウィンタベリーの街に辿り着き、窓から、ちょうど、ヴィクトリアグローブが見えてきた時だった。蝶や花、猫にクリケットなど、ヴィクトリア帝が好んだと言われるもののモチーフがたくさんついた青銅の柵。その奥に見えるのは、白い漆喰と濃い色の木を継いだ円形の壁で囲まれた、木造の円形劇場だった。
煉瓦造りの建物ばかりのシェラント女帝国で、この木造の劇場は、金属をも使わず、職人の技だけで組み立てられている、美しい劇場だという話だ。俺も話に聞いたことがあるだけで、実際に足を踏み入れるのは、はじめてのことだ。
少しだけ、どんな劇場なんだろうかと考えていた自分に、頭から冷や水を浴びせられたような気分だった。
(覚悟って………)
先週ベスィと対峙する前に、流石に怖がってもいい、と言われたことを思い出した。ネルの話しぶりから、この先には、先週のベスィの一件と、比べ物にならないほどの、悪意が、ある可能性が高いってことがわかる。でもネルは「怖がってもいい」とは、もう言わなかった。
多分、ネルにとって、そのレンツェルという吸血鬼は、最も倒したい存在で、一緒に行動している以上、それに俺がついて回るから、ということなんだろうか。朝の課長の言葉も、思い出された。
(暴走してしまうほど、、憎い敵……)
馬車が止まり、ネルが扉を開けて先に降りた。それから、俺のことを振り返り「いい?」と、尋ねた。なんだか、ネルからピリッとした威圧感が放たれていた。だけど、俺に、頷く以外の選択肢はなかった。
俺の頭が、小さく下に揺れるのを見て、ネルは俺の前を歩き始めた。十段ほどの煉瓦の階段を上ると、そこには木造の重厚な扉があった。あの扉を開ければ、中には、狂気と悪意が隠れているのかもしれない。
まだ、本当に、その吸血鬼が関わっているかどうかは、わからないのだ。
なんだか悪い夢みたいだ、と、ちょっと思った。
「……どうして、リズヴェールに来ちゃったんだろーな…」
扉の方を向いたネルの口から、小さく漏れた呟きは、『誰が』という主語が抜けていた。だから、それが、誰に向けられて発された言葉なのか、よく、わからなかった。
扉に手を掛け、軽く前に押したネルが、いつもの「はー」というため息をまたついた。振り返って、俺の顔をじっと見つめた。どういうことなのかわからずに、俺はただ、ネルのことを見つめ返した。そのまま、何を思ったのか、ネルは、俺の手をぐっと引き、俺の顔に自分の手を当て、目隠しをした。
また、冷たく柔らかい手に目元を覆われ、思い出したくもない先日の記憶が、呼び起こされそうになり、「何」と、不機嫌そうな声を出すことで、それを回避しようとした。
でも、ネルは、目隠しの手は外さずに、俺の横から、そっと、言った。
「目を開ければ、怖いことがあるかもしれない」
まるで、まじないのように言われたそれに、何のことだろう、と、ネルの手の中で、まつ毛が震えた。もしかしたら、もう一度、覚悟はできたかと、聞いているのかもしれない。ネルは続けた。
「それでも、───…s……目を開けないと、何も見えないから」
ネルが、一瞬、何か違うことを言いかけたように感じた。
でも、俺はよくわからなくて、とりあえず、こくんと頷いた。目の前にあった、ネルの手が、スッと退かされ、俺の前には、ネルが立っていた。どうやら劇場の中、舞台の部分の魔導灯がついているのか、ネルの後ろから光が差していた。
「舞台か……きっとあいつは、舞台の中心に、いたいんだろうな…」
心なしか俯いたネルの視線が、自然と背後にある劇場の中へと、俺の視線を促した。
そして、俺は誘われるように、足を踏み出した。
俺が足を進めるのを確認すると、カツンと、俺の前でネルの革靴が音を立てた。金の房の施された赤い重厚なカーテンが、徐々にゆるゆると上がって行くような幻覚が見えたような、そんな気がした。
前方から差す魔導灯の光が眩しくて、ふと目を細めた。
ネルに続いて劇場の中に、一歩踏み出した俺は、目の前に広がった光景に、ハッと息を飲んだ。
ドンドンと心臓が叩かれたように脈打った。
そこにあったのは、空から降ってくる、壊れた人形。
どうして壊れてしまったのか。どうしてここで壊れているのか。
俺は目の前の現状をすぐに把握できずに、ただただ呆然と立ち尽くした。
噂話で聞いていた、美しい木造の骨組みが、円形の天井に中央から張り巡らされていた。
二階建てをぶち抜いた天井は高かった。その天井の骨組みから、まっすぐ下に何本ものピアノ線が降るようにピンと落ち、椅子が、机が、服が、そして灯りのついたランプが鏤められたように、そのピアノ線の中腹に刺さっていた。明るく照らされた建物の中は、まるで人形の部屋を、子供がばら撒いてしまったみたいに、いろんなものが散らばっているように見えた。ピアノ線に突き刺さった無数の物は、刻を止めてしまったみたいにそこにあって、……幻想的だった。
でも、───
(これって……)
散りばめられた物の中で、一際異彩を放っていた壊れた人形。
天井の骨組みから伸びたピアノ線によって、まるで空を飛んでいるかのように、ふわりと地上に落ちてきそうな壊れた人形。
俺がそう思ったものは、―――生きていたはずの、人間の男性だった。
何本ものピアノ線に突き刺さった状態で、俺たちの頭上で止まっているのだ。
現実を飲み込めない俺の頭が、そんなことをぼんやりと考えた。
(…悪意…と、狂気……?)
悪意と言えば、悪意だし、狂気と言えば、狂気なのだろう。でも…なんだろう、と、思う。先週見た、ベスィの嘆きに比べると、すごく理知的な気がしたのだ。いや、殺人現場を見て、理知的というのは、おかしいのだろうけど。
壊れた人形は、無言で明日を見つめていた。
なにかを掴もうとしているようにも見える、その伸ばされた腕が、虚しく宙を切っていた。苦悶に寄せられた眉が生々しい。ピアノ線を伝い、滴り落ちて固まった液体が、その色が赤黒いことに気がついて、俺は言葉を失った。
劇場の魔導灯に照らされて、年季の入った木の床には、俺とネルの影が、長く長く伸びていた。
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