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1. と、出会う
02 はじまりの日
しおりを挟む「待って!」
街がどこか、浮き足立っているような、いつもよりもざわめているような、そんな、気がした。少し冷たい秋の風が、俺の横を吹き抜けて行った。
その日、メアリルボーンの飲食店を追い出され、なんとなく、とりあえず気持ちを落ち着かせようと、ハイランドパークに向かって歩いていた俺は、後ろからそう、呼び止められた。
しばらく働いていた飲食店を追い出された理由は、「気味が悪いから」。
いつだって、その理由で俺は、働き口を失う。田舎にいた時も、それで過ごしづらくなり、最近この帝都であるリズヴェールに出てきた矢先のことだった。それもこれも、あの【オカシナモノ】たちのせいだったが、それでも、それを口にすれば、さらに気味悪がられることは目に見えている。俺は口をつぐむしかなかった。
どうしてその「待って」という声に、振り返ったのかは、わからなかった。
ただ、その声が、どこか聞き覚えのあるような、少し鼻にかかった甘い声で、そして、その声が、すごく慌てているような気がしたから、いつもだったら、そんな声に気がつくこともないだろうに、俺は、ふと、振り返ってしまった。
それが全ての過ちの始まり、───…いや、俺にとっては、それが、全ての、始まりだった。
「はあはあ、よ、───よかった」
俺の目の前には、すごい勢いで走ってきた薄茶色の髪の男がいて、ぜえ、はあ、と、肩で息をしていた。中腰に身をかがめているため、男の顔は見えない。だが、こんなに必死に追いかけるほどの用事とは、一体なんだろう、と、俺は眉間に皺を寄せた。
「あ、あの。ごめんね、突然。僕は、シェラント警察の警務官なんだけど、その、───」
警務官、という言葉に、別に悪いことをした覚えはなかったが、ヒヤリと背筋が凍った。一瞬、頭の中に、食い逃げとか万引きとか、そんな安っぽい犯罪が浮かび、え、なんかしちゃってたっけ、と、全く的を得ない想像が頭をよぎった。
(いや!してないだろ…!)
よく考えてみたら、今の今まで飲食店で働いて、追い出されたばかりなのだ。犯罪に走る余裕はなかったはずだった。ええと、だから、シェラント警察が、俺を呼び止めて、一体何の用事だろうか、と、俺は顔を強ばらせて、その男の言葉の続きを待った。
「あのさ、もしかして、アレ見えてない?」
そう言って男が指を差したのは、先ほどまで俺の職場であった飲食店の、テラス席に座った、ソレ。俺は、男のその言葉に、ビクッと体を震わせた。
(どういうことだろう…)
俺には、男が指差したテラス席には、一人の若い長い髪の女性が座っているのが見えるのだ。つい先刻のことだった。何も考えずに、俺はうっかり、その女性にメニューを差し出し、「ご注文が決まり次第、お声がけください」と、話しかけてしまった。
それが引き金となり、それを見ていた飲食店の店主に、青ざめた顔で「もう、辞めて欲しい」と言われてしまったのだった。そして、ようやく気がついた。
あの女性も【オカシナモノ】だったということに。
よくよく見てみれば、その女性は、上半身だけしかなく、下半身は、まるで溶け出してしまったかのように蛸のような足が伸び、そして、テーブルの下に茶色い水たまりを作っていたのだった。
(またやってしまった……)
そう思った。
どうやら、俺には、普通の人間に見えない【オカシナモノ】が視えるようなのだ。それに気がつき始めたのは、姉が亡くなった後だった。
唯一の肉親である姉を亡くした悲しみに暮れる暇もなく、俺はその【オカシナモノ】に怯えながら生活することになった。他の人間には見えないことで、その苦しみを誰かに話すこともできず、というか、そもそも、俺の周りにはもう、誰もいなかったのだ。
昔は、友達と呼べる人間もちらほらいたような気もするが、姉を亡くした直後から、精神不安定で、幻覚まで見え出してしまった俺は、いつしか一人になっていた。
そして今、───、初めて、その【オカシナモノ】のことを、指摘された。
だが俺は、眉間に皺を寄せながら、その男をじっと見つめる。先程の飲食店での一件を聞いていただけの人間で、俺のことを騙そうとしているような輩かもしれない。なんのためにって聞かれると、それは想像もつかないけど。もしかしたら、交霊会とか、好きな輩かもしれないし、神の水とか売りたい奴かもしれないし、変な奴は、世の中に、たくさん溢れかえっているのだ。
ぜえぜえと、膝に手をついて、体で呼吸していた男が、ふと、顔をあげたのを見て、俺はびっくりして固まった。
(え…警務官って言ったよな…?!)
その男の、女好きしそうな華やかな顔つきに、驚いた。
だが、少し癖のある、薄茶色の髪を、何故そこにしたんだ?というような中途半端な位置で、どうしてそんなに雑なんだ?言いたくなるほど中途半端に縛り、エリザベス帝の庭である、この国を守る警察だというのに、シャツをだらしなく着崩し、そして、男は、へらっと笑った。
年齢は、二十台後半に見えるから、自分よりは少し、年上かもしれない。
その浮ついた外見に、彼の職業を思い、俺は疑うように目を向ける。だけど、───
(空色の目……きれいだな…)
ふと、そんなことを思ってしまった。
俺が動きを止めているのを見た男は、「あれ?あそこの、見えてるよね??」と、まるで、あのビル見えるよね、のような、ごくごく当たり前のことを言っているような雰囲気で、不思議そうに俺に尋ねてきた。
俺はまだ、男のことを怪しんでいた。半ば睨むような形で、じっと見つめた。男は、そんなこと、全く気にした様子もなく、続けた。
「あの足が蛸のアレだよ。見えてるでしょ?」
どうして男が、そんな確信めいた口調で、俺にそんなことを聞いてくるのかは、わからなかった。だが、俺の心に広がったのは、恐怖でも、疑心でもなく、姉を亡くして以来、はじめて感じた、───安堵だった。
「あ、あれが、見えるのか」
「やっぱり見えてるよね?さっき、あそこの店の会話、聞いてて」
「あれは、何なんだ!お、おま、あ…あ、あなたも見えるんですか」
俺の質問の答えは、男があの女性のことを、足が蛸のアレ、と言っている時点で、明白ではあったが、思わず、尋ねてしまった。どっどっど、と、心臓の音が、どんどん早く、大きくなっていく。
焦る俺とは対照的に、男は、顎に手をやりながら、「なんだかは、わかってないのか」と、のんびりと首を傾げた。そして、俺の質問に、答えることもなく、マイペースに言った。
「突然ごめんね。僕は、ネル・ハミルトン。シェラント警察、特殊警務課で働いてる」
俺はそんなことよりも、あの【オカシナモノ】のことが、知りたいんだよ、と、内心苛立ちながらも、サッと目の前に出されたシェラント警察の証である、帝国の紋章の入った銀時計に、少し怯んだ。警察相手に下手なことをしたくない、というのは、おそらく、全帝国民が思うところのはずだ。
どうか変なことにはならないでくれ、と、願う俺の期待も虚しく、それこそ、おそらく、全帝国民が、シェラント警察にぶち当たったとき、一番聞きたくない言葉を、ネルは、どこか意地悪そうな笑みを浮かべ、さらりと言ってのけた。
「じゃあ、ちょっと署まで一緒に来てもらおうか」
─────────は?
それが、俺、ソーマ・オルディスと、いけすかない警務官、ネル・ハミルトンとの出会いだった。
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