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二章 接吻
12 この昏く優しい淵の底で
しおりを挟む気を失って眠る娘の身体を、清潔な部屋着でくるむ。
白い頬は、ふっくらと柔らかく、いつまでも撫でていたい心地よさだ。
けれど全身に散る鬱血痕は、彼らの所行を突きつける。
華奢な身体を、痛々しいまでに苛まれた証。
自責の念に駆られてか、男が娘の額にふれるだけの口づけを落とす。
その口から、小さなつぶやきがこぼれた。
「だが、お前が言ったのだぞ?」
忘れもしない。
あの日──。
夕食の後だった。
妻は、食後の茶の用意で席を外していた。
──あの人、今日は帰ってこないんです。
帰りが遅くなっているだけだと思っていた。
給仕係は食事を取り分けていたくらいだから、使用人達さえそう思っていただろう。
今夜はひとりなの、と。
あのかぼそい声は、今もありありと耳に残っている。
どんなつもりでそれを言ったのか、彼女に糺したことはない。
今となっては、もはやどうでもいいとも思う。
だがそれでも、わきあがる感情をいまだに抑えられない。
望んだのでは、なかったのか。
抑えきれない無意識の発露だったのか。
ただの不用意な失言にすぎなかったのか。
あの夜、寝室を訪れた彼を見て、彼女は怯えた。
その瞬間、何もかも吹き飛んだ。
急いで羽織った部屋着の前をかき合わせる姿に、逆上した。
「ならばどうしてあんなことを言った?」
それは、封じた恋に狂った男の、身勝手な願望だったのか。
そもそも最初に心を封じたりしなければ、間に合っていれば、何かが違ったのか。
どこで何を選んでいればよかったのか。
殺した恋の上でおくる日常は、想像を絶する地獄だった。
病み疲れて、彼こそが壊れかけていた。
装ってのことだろうが本心だろうが、もはやかまいはしない。
拒むなら、それにふさわしい行為にするだけだ。
怒りがかきたてる嗜虐の炎に炙られるまま、ことさらに卑しめ辱めて犯し、嬲りぬいた。
それがまさか抱擁を返されるとは。
そうしておいて、また逃れようとするとは。
「お前もまた、ままならぬ心に引き裂かれた、か」
恋した男と、愛する伴侶と。
彼女には、選べなかった。
それ以上に、どちらかを捨てることができなかった。
何より彼女を追い詰めたのは、夫までもが闇に墜ちたことだろう。
「かわいそうに」
娘のなかで何かが音もなく崩れたのは、義父と夫に二人して抱かれたあの夜、彼らにみずから脚を開いたあのとき。
それでも、なおも完全には潰れなかった。
絶望の淵に墜ちてなお立ち上がろうとする彼女は美しかった。
だから壊しつづけた。
──二度と離さない。お前は私のものだ。
──いいえ、お義父さま。いいえ。
──そして私はお前のものだ。
──おじさま、もう私を解放して。
少しでも逃れようとするたびに、有無を言わさず抱き潰して。
──私、この家を出ます。
そう言ってのける強さと。
──壊して。めちゃくちゃにして。
そう望んでしまう弱さと。
そのどちらもが、悲しいほど愛おしく、狂おしいほど哀れだった。
「選べず、ゆくあてもないお前はもう、壊れるしかなかったのだな」
そもそも彼女に選択肢などなかったのだ。
もはや天涯孤独に等しい身の上で、この世のどこに逃げる先があったろう。
両親を幼くしてなくし、庇護者であった祖父母も他界してしまえば、なまじ大きな商家であったことも仇でしかなく。だからこそ、元は気長に構えていた彼の息子も、あのとき結婚を急いだのだ。
互いにわかっていながら、そこを暴くことだけはしなかったが。
「ならばもっと壊れるがよい」
ゆるく開いた小さな唇に、そっと口づける。
やわらかく食(は)み、離れては触れ。
触れるたび、鈴のなるような澄んだ声が、頭のなかに響いた。
──私の全てを、お前にやろう。
──いいえ、おじさま。もう戻れない。
──お前は私のものだ。
──いいえ、お義父さま。私はあの人の妻です。
──お前も本当は望んでいたのだろう?
──いいえ、お義父さま。私の恋したおじさまはもう……。
いくらでも逃げるがいい。
いいや、そのためにこそ逃げているのなら。
「壊してやるとも」
いくらでも、いつまでも。
この昏く優しい淵の底で。
「お前が望むならば、いくらでも。つかまえ、閉じ込めて、抱き潰すまでだ」
静かに落とされる誓いの接吻を、娘は知らない。
完
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