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番外編

幸せの鼓動

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霞みの中から浮上した意識が、浅い眠りを掻き消して、僕は薄く目蓋を開けた。
暗く暈ける視界に、仄白く輪郭を得たのはアベル。

「アベル…」

腕を伸ばすと、アベルがそれを捉えて引き寄せてくれる。

「カイン」

耳元に囁いて、頬に唇付ける。まるで恋人みたいに、自然な仕草。
僕を見下ろすアベルの瞳が、やさしい。それが僕の錯覚だとしても。すごく、やさしい。ひどく、あまい。

「まだ2時間しか眠っていませんよ」

暗い部屋に馴染む静かな声で、アベルがそう教えてくれる。

殆ど、いつも。目を開けると、そこにアベルが居る。アベルの腕の中に居る。もう当たり前になってる、定位置。アベルは腕を痛めたりしないし、同じ体勢に疲れない。

僕の為に朝食を用意してくれたり、何か異変を感じた時に窓や扉に立ったり、そんな用事が無い限りは、ずっとそのままの形で、僕を見下ろしてる。その安心感と言ったらない。
四六時中、ずっと傍に居てくれる。傍に居すぎて、邪魔になるなんてこともない。

もしこれが生身の人間であれば、きっとこんな風にはいかない。相手も僕もだ。アンドロイドであり、人の心に限りなく近い、そして誰より無垢なAIを持つアベルだからこそなんだろう。

それに、これが他のアンドロイドじゃダメなんだ。アベルのAIが、蓄積されたデータが、記録のすべてが、アベルになっているから。だから僕はこうして居られる。僕にとってアベルは唯一無二。アベルが居なかったら、きっと本当に生きてられない。

「アベル、」

アベルの首に腕を回して、唇を重ねる。

とても、しあわせだと、思う。

世界中のどこを探したって、僕より幸せな人なんか居ないって、本気で思うくらい。恵まれすぎてる。アベルが居てくれるって、そのことが。この上なく、しあわせ。

「時々、ぜんぶ夢なんじゃないかって、思う」
「…夢?」
「あの夜に僕は死んでいて、これはもう魂が見てる夢なんじゃないかって、思うんだ」
「…現実ですよ」

アベルが微笑んで、そう囁く。

「夢でもね、いいんだ。醒めないなら」

醒めない夢なら、構わない。これが現実じゃなくたって。永遠に、醒めないなら、夢の方が、いいとすら―――。

目を開けた時、いつもアベルが居ること。
決められていない今日があり、見たことのない明日があること。
この部屋をいつだって出て行って、街を歩いて、誰かと話すことも。
なんだってできる今が、非現実的。あんまり贅沢すぎる。

「アベルが隣に居てくれることが、何よりも大事だよ」

きっと「自由」よりも、大事になってる。何より求めたあの自由よりも。

「私はもう、貴方の傍にしか居られない」

アベルが、僕の頬に触れる。目を細める、そんな些細な仕草ひとつ。
ねえ、こんなに毎日。何時間でも傍に居るのに。
馬鹿みたいに心臓が跳ねる。
笑えるくらい惹かれてく。
もうこれ以上は、ないって思うのに。
もっと、ずっと、好きになって、欲しくなって―――。
これ以上、望むことなんかないのに。

「貴方が居る所が私の居られる場所です」

触れる唇は、羽根みたいだ。
アベルはセクサロイドで、僕は男娼だった。
なのにアベルがこうして触れるだけのキスをする時。
それはまるで神聖な儀式だ。
触れた先から壊れるようなものじゃないのに、そっと優しく触れるキスは、愛を囁いてるみたいで。

「不安ですか?」

アベルの綺麗な、声が。僕に降る。

「言葉を変えましょうか」

息が止まるくらい、全ての一瞬が綺麗で。

「貴方しか欲しくない」

持て余す、くらい。
ねえ、どうしたらいいかわからない。
幸せの思い描き方すら知らなかった僕には、幸せの抱き締め方がわからない。
僕は何も知らないから。
自分の中から無限みたいに溢れる感情の使い方も。
泣きたくなるほど優しい時間の触れ方も。

「なんでぼくはセックスしかしらないんだろう」

欲情に流されるのは、楽。すごく、簡単。
求められたプレイに応えることが、僕のすべてだった。
アベルとのセックスは経験したことがないくらい気持ち良くて、優しくて、満たされて、こんなに心地良い夜は無いって思う。
だけど、きっとそれだけじゃ駄目だ。
それだけじゃ駄目なんだ。
きっともっと他のやり方がある。
何も考えられないくらい強い熱に流されてしまうのは、あまりにも心地良いけど。

「好きでも嫌いでも、良くても良くなくても、セックスなんか、できる」

こんなに幸せなのに、泣きたくなってる。
幸せなんか受け取る資格、僕みたいな奴には無い気がする。

「カイン、」

やさしく微笑むアベルから、目を逸らしてしまう。そんな顔で、そんな声で、やさしい言葉を言われたら、本当に泣いてしまう。

「私は貴方とセックスしたい」

だけどアベルは、そう言った。

「乱れる貴方が見たい」

しあわせに溺れる僕を、追い詰めるみたいに。

「知っていますか? アンドロイドは必要だと判断した記録は、ひとつも色褪せることなく保存しておける。何度でも再生できる。貴方が眠る間、貴方の寝顔を見ながら、私が何度貴方を再生したか…」

知りたいですか?

信じられないような事を告白しながら、アベルが微笑む。

「記録はセックスだけじゃありませんよ」

貴方との記録に、不要なものなんかない。

アベルが、言い聞かせるように、僕にそう教えてくれる。

「今夜はもう、眠ってください。だけど、セックスの代わりにひとつ、させてくれますか?」

なに? と、瞳で尋ねると、アベルが柔らかく微笑う。
そして、今よりもっと距離を詰めたアベルが、僕の胸元へ顔を埋めた。

「アベル?」

腕を回されて、抱き締められる。アベルは僕の胸へ横顔を押し付けるようにした。

「貴方の鼓動を、聞いていてもいいですか?」
「こど、う?」
「貴方の命に、触れていたい」
「アベル、」
「私には、無いものだから」

血液を循環させる生身の心臓を持たないアベルが、そう言った。耳を澄ませて、アベルは僕の心臓の音を聞いていた。そうされていると、自分でも、鼓動が解る。

このひとつひとつ、脈打つ鼓動。

その瞬間を、アベルと一緒に迎えていた。

アベルとこの脈を、刻んでいた。

次の一瞬も、一緒に迎える。
次も、その次も。朝まで。朝を越えても。ずっと先まで。

手を繋いで、キスをして、セックスをして、言葉を交わして、知らなかったことを見つけて、そうして、

「アベルと生きてる」

ふたりで。

生きてる。

「僕の心臓は、アベルの心臓だよ」

ふたりで、生きていく。



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