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番外編
彼方へ
しおりを挟む朽ち果てた場所なのに、独特の活気がある場所だ。このスラムには堕落と退廃の他にも、生活や人情が生きていた。かわいいものも無ければ綺麗でもない、雑多な街の一つ一つを、愛琉は気に入っていた。
幼少時代から言葉を交わしてきた馴染みの住人達、面倒を見てくれた商人達へ、愛琉は談笑混じりの挨拶をして周った。最後の挨拶、ではない。少し留守にするという報せの挨拶だ。そして今までの感謝を添えて。しかし泣いてくれる人さえ居たことに、愛琉の瞳も潤んでいた。ちょうど溶けかけの飴玉のように。それでも子どもの頃から張り付いたままの笑顔は消えない。この笑顔が、愛琉が持ち合わせてきた唯一の武器だった。愛琉の笑顔はスラムの花だと言われてきた。ピンク色の淡い服、すぐに色を変える長い髪。アントワネットの帽子のような派手な日傘、カラフルに光る靴のヒールに、手首のバングルライト。灰色のこの街を、鮮やかな光が照らすように、錆びた鉄に囲まれて、愛琉はいつも自分の好きな色を振り撒いてきた。
「本当に行くのか? 愛琉」
スラムの商人はごく真剣な顔で問う。世間的には強面な部類のその瞳を真っ直ぐに見つめ返しながら、愛琉は強く頷いた。
「そうか。お前も一人立ちの歳に――いや、お前はずっと一人で生きてきたようなものだな」
店主は少し寂しそうにそう言う。記憶の積み上がったヒビや埃の部屋の中で。しかし愛琉は首を振った。長いパステルの髪が揺れる。
「そんなことないよ! みんながあたしを育ててくれたんだもん。一人じゃなかったよ、ずっと」
「愛琉、」
「あたしね、本当は気付いてたの」
愛琉の微笑みは穏やかで、大切なことを伝えるために、ゆっくり言葉は紡がれた。
「お父さん、元締めだったんだよね。殺されちゃったんだよね、お母さんと一緒に」
「思い出したのか?」
「ううん。その時のことは、やっぱり覚えてない。でもずっとここで育ってきたんだもん。わかるよ」
「…そうか」
「だけどね、死んじゃったお父さんと、お母さんと、ここの皆があたしの家族だよ。あたしこのスラムが家族なの。ここを出るのは寂しいけど、」
「愛琉…」
「でも見てみたいの。他の星を。世界の在り方を。あの宇宙の中で」
愛琉の瞳に宿る宇宙が、確かな輝きで煌く。店主はそれを認めて、目を細め微笑う。
「行って来い愛琉。このスラムは俺達が維持していく。いつでも、帰ってこい」
「うん、ありがとう。―――お父さん。」
このスラムで自分を育ててくれた大人達が、父であり母だった。このスラムに育てられた。こんな荒んだコンクリ片の中で、厳しさと汚さだけでなく、愛や情も教えてくれた。この場所はホームだ。いつかまた、帰る場所。
店主の泣き顔を見ないように、飛ぶようにして馴染んだ店を出た。階段を降りる。靴音が響く。影から出れば、強い日差し。日傘を差す前に、愛琉は頭上に広がる青空を見上げた。太陽光線をいっぱいに浴びる。あの澄んだ空の向こう。このコンクリートの中から飛び立つ。この場所から、空へ。
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