ハシャドゥーラの蓮

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「なぜ報告しなかったんだ?」

どうやらあの男はヘマをしたらしい。無線には処刑の指示もトラブルの報告も入っていない。無事に街を出てはいるはずだ。しかし巡回を終えた時、俺達は次のシフトのメンバーに通達を受けた。アグーリャが溜まり場にしているクラブのVIP席に呼び出しを食ったのだ。

ディスペルソのヘッドを張るようになって久しいアグーリャは、居るだけで周囲を威圧する事の出来る男だ。簡単に他人の体の一部を吹っ飛ばす癖があるので、周りの人間はいつも怯えている。

「問題を起こす人物では無いと判断したので」

俺は面倒に思いながら、派手な柄シャツを着て偉そうに座っているアグーリャに適当な返事をした。アグーリャや取り巻きの幹部に、武器を持ち出す様子は無い。

せいぜい説教だなと踏んでいたが、俺はこの男が嫌いなので正直、撃ち殺したいと思っている。ずっと狙っているが、やはりギャングの頭などやる男に隙は無く、未だチャンスは巡って来ない。

「なるほど。だがカメラを持った人間には警戒しろと言ってあるよな。此処へ連れてくる義務があると知らなかったか?」

「ええ、まったく。次回からは気を付けます」

無表情に言い切った俺に、アグーリャよりも幹部連中が眉根を寄せた。最もアグーリャはサングラスをしているので、その表情は解らない。

「シグラ」

俺では無くシグラを呼びつける所が、コイツを嫌う理由の大半を占めている。

シグラは数歩前へ出て、テーブルを挟んでソファのアグーリャと向き合った。

次に何を言い出すか予測の付かないアグーリャの口が動くまでに、丸腰にされている俺は武器になる物を探してテーブルを一瞥し、取り巻きの配置を確認した。

「顔を、」

軽く身を乗り出したアグーリャが、指先を曲げてシグラへ言った。

一瞬なにを意味するか解らず、俺もシグラも反応が遅れた。アグーリャの視線がシグラから背後の幹部へ移った。

それを受けて幹部の男の一人はシグラの腕を後ろ手に拘束するように掴むと、力任せにテーブルに押さえ付けた。

並んでいた果物や灰皿が飛び散り、グラスが倒れて割れる音が響く。

その物音に乗じて俺は反射的に手にした酒瓶をテーブルの角で叩き割っていた。

「シグラ。お前の甘ったるいやり方ってのは俺は好きじゃねえんだよ。カミロは実行部隊の牙だったはずだ。それが今じゃお前に骨抜きの処刑人だ。なあ、カミロ?」

アグーリャはテーブルに押さえ付けられたシグラの顎を取り、俺を見ずにそう言った。
俺が割れた瓶をその頭に向けている事など、確認しなくても解っている。そういう男だ。

「目を瞑ってやっているのは俺がお前を気に入ってるからだシグラ。お前のやり方じゃない。お前自身だ」

アグーリャはシグラの顎を掴んだまま、唇を撫でた親指を口内へ突っ込んだ。口を無理やり開かされても、シグラは睨みもしない。その感情を切った物言わぬ口へもう片方の手を伸ばし、アグーリャはシグラの舌を指先で摘んで軽く引っ張った。

「シグラを離せ」

俺は割れて尖った瓶の先でアグーリャのサングラスを弾き飛ばした。その時に、アグーリャの米神に傷が付き、浅黒い肌に血が一筋伝う。

俺の後頭部には銃が突き付けられていた。どうせ脅しだ。俺もアグーリャも、これが茶番だと認識している。それでも俺の怒りや嫌悪は紛れもなく本物で、殺意は内臓を焼いていた。 

「けどなぁシグラ。あまり勝手をされると俺の立場が無くなっちまうよなぁ。次は見せしめが必要になる」
「……ッ……!」

アグーリャの指先が、シグラの舌を撫でる。シグラが吐き気を耐えているのが解った。

「シグラ、ここに穴を開けるのはどうだ? お前に似合うダイヤを入れてやるよ」

米神を傷付けた瓶は今、アグーリャの頸動脈に触れていたが、俺の頭の後ろで引き金に手を掛ける気配がしている。

俺がこのまま首を引き裂くのと、どちらが早いかは背後に立つ男の意向ひとつだ。

アグーリャを殺したいと思っている幹部が多いのは知っている。それでも行動に移す奴は居ない。俺にアグーリャを殺させて、次に俺を殺せば組織は乗っ取れる。それでもきっと、そんな度胸のある奴は居ないのだ。

「カミロ。おまえいつもその面で居ろよ。腑抜けてんなら実行部隊に戻すぞ」

アグーリャが、シグラを解放した。

そして瓶を持つ俺の手を掴み、真っ直ぐに視線を絡めて言った。俺を睨む目の強さは、人を殺す事にも命を狙われる事にも慣れきった人間のそれで、次元の違う所で生きてきた事を示している。

威圧するアグーリャの気迫と言葉に、俺の脳が騒めく。背筋を這い上がる冷たさが意識をスパークさせ、心臓は血を氷に変えたようだった。

感覚を無くした俺の手を握るアグーリャの指を、腸詰のように切り落としてやりたい。この男に詰まった汚い内臓や血肉を残らずドブへ流してやるにはどうすればいいか、俺の脳は自分の想像に眩んでいた。

「殺してやる」

口から勝手に漏れ出た声で、自分が笑っている事に遅れて気が付いた。

「お前の本性はそこにある。生き残りたきゃせいぜい忘れない事だな」

殺意を、買われてここに居る。

俺は何が何でも生き残る方を選ぶ人間だ。誰かを殺しても。

生きていたいからではない。
シグラの傍に居たいからだ。

失いたくない今がある。俺の中に巣くう執着の種が、幼い子供の独占欲を食い潰し始めている。失う事を知り過ぎた脳が、どんな手を使っても障害を取り除こうと俺を生かして殺意を育てている。

アグーリャは吹っ掛けたのだ。

組織に必要な俺を育てて首輪を締める為に。
アグーリャはシグラを殺せる。殺さないのは利用価値が高いからだ。俺を従わせるだけじゃない。シグラを見せしめにしようと仄めかすのは、組織の中にシグラを仲間以上の目で見ている奴等が居ると知っているからだ。シグラを餌にも人質にもしている。

シグラが処刑人を続けて神聖化されていく事も、アグーリャの狙いの一つだったのかもしれない。シグラへの庇護欲も罪悪感も、悍ましい欲望も、巧く使えば組織の武器になる。シグラを気に入っているというのは、そういう意味だ。

「いつか後悔する事になる」

俺の言葉の意味は、おそらく正しくアグーリャに届いたはずだ。アグーリャは口端を上げて笑うと、手を翳して俺とシグラの拘束を解かせた。

「従うか従わないかを選ぶのは、お前等の自由だ」

選ぶ自由など無い。
アグーリャの言葉の意味は、逃げられないって事だ。

逃げ出せば家族を殺される可能性すらある。選択肢など無い。

俺は割れた瓶を力任せにアグーリャの足元へ転がした。破片が砕け散る様が無様だ。今は、どうする事も出来ない。






クラブの出入り口で、取り上げられていた武器が戻ってくる。一番殺したい男を殺し損なっている銃を、ホルスターに仕舞う。余程の武装でなければ、引き返してもアグーリャの所へ辿り着けすらしない。あの男を殺すなら、道程はあまりに険しい。

扉を閉めると、DJが回していたレゲエが遮断され、一気に静寂が戻ってきた。 

口元を袖で押さえて立ち竦んでいるシグラの肩を引き寄せて、歩き出した。微かに俺の肩へ頭を擦り寄せたシグラを、抱き締めたいと、強く思う。

それを呑み込み、クラブのエントランスで屯している連中の気配を背に感じながら歩いた。一番近い路地へ入り、階段を登る。

人気ない暗がりで立ち止まり、俺は今度こそシグラを両腕の中へ閉じ込めた。

「カミロ……」

護れなくてごめん、と。言いたくなった。
けれど、シグラは護られたいなんて思ってない。

シグラは俺に、なにも望まない。
だから、俺も呑み込むしか無かった。見当違いに謝るわけにはいかなかった。
俺の無力さも、悔しさも、自分のものだ。シグラの為に感じているわけじゃない。俺が勝手にシグラを護りたいだけだ。

これを噛み締めて、生きるしかない。強くなるしかない。

シグラの手が、俺の背に回る。その手が震えていた。頬に触れたシグラの濡れた髪からウイスキーや果実の匂いがしていた。未だ乾かないシャツが、シグラの肌に纏い付いている。

「どこも、怪我してないか?」

耳元へ囁くと、シグラが俺の胸に顔を埋めて頷く。

そっと身を離して、シグラの顔を覗き込んだ。シグラの瞳に憔悴の色が滲んでいる。シグラの顎を取り、問い掛けた。

「痛くなかった?」
「……平気だ」

シグラの色素の薄い硝子のような瞳と、視線が繋がった。悔しさと遣る瀬無さと怒りに、シグラへ向かう名前の解らない感情が混じって複雑に絡み合う。呼び方も境界も見つけられない感情が、俺の呼吸を圧迫していた。

「見せて、」

アグーリャの好きにされていた口元へ指でそっと触れる。シグラは、薄く唇を開いた。

そこへ吸い寄せられるように、俺はシグラの唇を自分の唇で塞いでいた。シグラは拒まない。唇を開いたまま、俺の舌を迎え入れる。あまりに自然に絡んだ舌は、溶けるように粘膜を混ぜ合わせ、麻薬のように脳を痺れさせた。

シグラの手が、俺の背から解けてしまいそうに引っ掛かっている。顔の角度を変えて唇へ追い縋ったのは、シグラの方だった。俺はシグラの腰を抱いて唇付けを深めながら、側の壁へ片手を付く。一歩下がったシグラが壁に背を預けようとした時、シグラの腰を撫で上げてしまった。

「ん、ぅッ……」

シグラが鼻に掛かった声を漏らし、身体を震わせた。俺は我に返って唇を離し、熱を孕んだ吐息を溢した。

「シグラ……」

溜息のように呼び掛けると、濡れた瞳でシグラが俺を見上げる。あまりに近い距離は呼吸さえ触れ合うようで、理性を乗っ取ろうとしている熱を散らす為に、俺は一度だけ目蓋を閉じて息を整えた。

「やっぱり……俺はイカれてる。とても正常まともじゃない」

このキスも、シグラへの熱も、アグーリャへの強い憎しみと、それを何処かで愉しみ暴走しそうになる昏い殺意も。全部、可笑しい。呼吸も血流も、得体の知れない感情と連動して、俺の理性を置き去りに身体を乗っ取ろうとしてるみたいだ。 

「カミロ、俺は正常なんて知らないよ」

シグラは、俺の頬に手を触れた。

「そんな目に見えない基準なんか、どうだっていい事だろ。起こる事が全てだ。それをやり過ごすしか、出来ないんだから」

シグラはこうして、現実に起こる全ての事を、受け入れてしまう。

「シグラ、」

俺は都合良く貪っていないだろうか。軽蔑も拒絶も扱うことの無い、シグラの性質を。

「お前の事をいつか食い殺してしまうかもしれない」

正気を見失う日が来るのが、怖かった。

「いいな、それ」

シグラは、怯えも嫌悪もなく、微笑った。

「俺の事はカミロが殺してくれよ」

シグラの両手が、俺の頬に触れている。
熱の冷めない視線を絡めて、シグラが祈るように俺を見つめる。

「救済者の呪いから、お前が解放してくれ」

約束のようにもう一度繋いだ唇は、誓いのキスだった。呪いに呪いで立ち向かうような、こんなやり方しか見つけられない。

人を殺し続ける運命の銃を握った俺達は、全うな生き方も死に方も出来ないだろう。

溶けた死体の流れるドブ川の淵で、一体どんな愛や生を語れるって言うんだろう。

あのジャーナリストは、本当に、なにも解ってない。

俺達はここから何処へも行けない。何処へも逃げられやしない。
泥の中で掴めるものを探しながら、ずっと足掻いている。





薄暗い迷路みたいな路地を抜けて、俺達は家へ向かう。俺達の帰るしかない場所へ。

生ゴミの腐った臭いのするゴミ捨て場の側や、細く流れるドブ川沿いを、シグラはいつも通りの脚取りで歩いていた。

時折、目が合うと、シグラは明るさと優しさのちょうど真ん中にあるような瞳で、小さく微笑み掛けた。

それが俺を安心させる為であっても、シグラ自身を奮い立たせる為のものであっても、どうしようもなく遣り切れない気持ちを抱えて、俺は隣を歩いていた。


階段を降りて大通りに出ると、黒猫が歩いていた。シグラの脚取りや背中と何処か似ている。猫はやがて嬉しそうな鳴き声をひとつ上げて、駆け出した。

黒猫が見つけたのは俺達もよく知る店の彫り師で、彼は座り込んで足元へじゃれつく猫の額を指先で撫でていた。

「セファ、」
「お、シグラ。カミロ。帰りか? お疲れ」
「そっちもな」
「その猫、セファの飼い猫?」
「まさか。物乞いルートなだけだよ」

セファはそう言って笑い、冷蔵庫から生魚の切り身を取り出して猫に食わせてやった。 わざわざ餌を用意してやっているのか、分けてやっているのかは判らないが、顔面ピアスに刺青の男は、優しい表情をしていた。

魚を食べ終わった黒猫をシグラが抱き上げ、小さな命を大切そうに撫でている。

タトゥースタジオの店頭に、彫り師と処刑の救済者が座り込んで黒猫を撫でているのは妙に平和な風景だった。

けれど猫も俺達も、明日どうなっているのか判らないから、今日を生きていられるのかもしれない。

誰かが欠けていく風景を、時になにか別のもので埋めようとしながら、日々をやり過ごしている。自分なりの今日を生きる方法に、正解も間違いも無い。

「じゃあ、また」

セファと黒猫に挨拶して、穏やかな顔をしたシグラが背を向けた。

その背を追おうとした時、セファが一言呟いた。

「シグラ、なんかあった?」

事情を話すわけにもいかない俺の無言を肯定と察したセファが、歩き出したシグラの背を見つめていた。その瞳に、深い感情が滲み出している。

「俺はこういう立場だから誰かに肩入れするわけにはいかねぇけどさ」

セファが、少しだけ哀しそうに眉根を寄せた。 

「シグラの生き方は、あれは辛いだろ」

静かに落ちた声に、セファの優しさの本音が溢れている。

「お前、見失うなよ」
「え……」 

セファの瞳が流れ、俺を見る。 

「シグラの事も、お前自身も」
「……迷ってるように見えた?」 

苦笑しながらそう問えば、セファは首を振る。

「いや。ただの俺の希望だよ。お前等には潰されずに居て欲しいってな」
「どう言う意味だよ、それ」

俺は笑ってみせたけど、セファの言いたい事は解る。セファが俺達を特別扱いしてくれている事は、俺達もよく解っている。

「カミロ、お前は強いよ。自覚を持て」

セファは俺の心臓の上へ軽く拳をぶつけた。そこには、セファが刺れた薔薇を貫くタガーの刺青が入っている。

俺の中で渦巻く全ては、未だ輪郭を曖昧にしたままだ。それがいつか、明確に剣の形を持つのなら、俺は迷わずその柄を掴む。そんな気がしていた。俺は、武器を取るのを躊躇った事が無い。

シグラが、俺を振り返って脚を止めた。
俺はセファと拳を合わせて別れ、シグラの隣へ立った。家までは、あと少しだ。





やがて斜面に見えてきた俺達の家の前には、ノエが居た。固い石造りの階段に座って、ノエは夜の入り口で本を読んでいた。家の灯りと太陽の残滓を頼りに、ノエはかつてシグラの物だった本を真剣に見つめている。

「ノエ、」

俺が呼び掛けると、ノエは瞬時に顔を上げて、俺達を見た。嬉しそうに笑い、すぐに本を閉じて駆けてくる。

「カミロ、シグラ、おかえり!」
「ただいま」
「こんなとこで読んだら目が悪くなるぞ」
「うん。でも、待ってた」
「俺達を?」

ノエが頷いて、大きな目で俺達を見上げる。
座って視線を合わせると、ノエの小さな手を握った。

なんで生まれてきてしまったんだろう。
なんで子供は生まれてこなけりゃならなかったんだろう。

この手が大人になる前に、ノエはきっと誰かを殺す。 

「俺より賢くなれよ、ノエ」

誰かを殺しても、殺さなくても、俺より賢く生き延びるといい。ノエは俺には似ていないから、きっと大丈夫だと思いたい。

シグラがよく、文字や数を教えている。この街では、学校に行ける奴は一握りだ。金がある奴とか、伝がある奴とか。うちにそんなものはない。

シグラは子供の頃から、本や教科書を読んできた。今もよく本を読んでいる。

ハシャドゥーラの丘の下の、マーケットにあるゴミ捨て場からまともな物を調達してきて、道で売ってる物売りがいる。シグラはそこで買っているのだ。

なぜ本を読むか訊いた事がある。
「スラムで育ってない奴が何をまともな情報だと思って生きてるのか知りたいのさ」
シグラはそう言った。

俺はシグラほど文字が読めないから、本の内容をシグラに訊いていた。俺はそうして、読めない言葉をシグラの声で覚えてきた。

シグラには到底及ばない俺の言葉の持ち合わせでは、自分の中身の整理すら覚束無い。その分を、勘や力で補ってきた。俺に学があれば、生き方も性格も違ったのかもしれない。

ノエには違う生き方をさせてやりたいと思うけれど、俺達は檻の中で生きている。この実情を変えるだけの力なんか、俺にあるだろうか。俺は俺の身に付けた方法で、この街の現実とやり合っていくしかない。ノエに将来という言葉を教えてやれる日が来るように。
  
  
  
  
  
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