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しおりを挟むその日は夜からのシフトで、俺は出勤時刻までシグラとセファの店に来ていた。
セファは刺青スタジオを経営している彫り師だ。俺も数年前から世話になっている。シグラが刺れているのはディスペルソのメンバーの証ひとつだけだが、これを描いたのもセファだ。
シグラの手には、中心に六芒星の入った蜘蛛の巣が張られている。
ディスペルソのシンボルである蜘蛛の巣でさえあればデザインや場所は自由なので、俺は耳の裏に刺れている。
他の刺青も全て、俺の身体に描かれたものはセファの手によるものだ。
「で、そいつxDKの理念を刺れてぇっつうんだけど、大っぴらに出していいもんでもねぇから解りにくいようにヒンディー語で刺れるって」
「ヒンディー語」
「デッサン見せられて、その通りに刺れたの俺は」
セファの最近あった話を聴きながら、俺達は出して貰ったステラビールを飲んでいた。刺青やピアスだらけのセファはこの緑の瓶がよく似合う。
どこにでもあるビールだが、なんとなく俺達は、この瓶といえばセファを連想してしまう。店に来るといつも出してくれるので、イメージが付いてしまったのだ。
「そしたら三日後に違うじゃねえかとイチャモン付けられて。スペルミスだっつーんだけど、いつも俺、仕上がりの写真撮ってるだろ? デッサンもこっちで複製してるから確認したわけ。まあ合ってるのよ、どう見ても。間違ってんならお前が間違って書いて来てんだよって」
「セファが間違えるとかねぇわ」
「命懸けだからなぁ……」
セファの顧客はギャングのメンバーが殆どだ。消えない刺青はミスが許されるような簡単な仕事ではない。
「フザけるなと。俺もキレちまってスマホに怒鳴っちまったんだよな」
「セファそういうとこあるよな」
「無理もない」
俺達はこれまでも、セファが殴り合いの喧嘩をしたり、クレーマーの車に火を点けるなどの応酬をしている事を知っている。普段は温厚だが、基本的にやられたらやり返すタイプだ。
「けど、その日の夜に行った店でバイクのパーツ持ってかれて、シートにヒンディー語でなんか書かれて」
「は?」
「面倒な奴に当たったもんだな……」
この地区で、セファに絡む奴は居ない。
チーム専属に就かないセファは、みかじめ料も支払っていないが、その腕の良さと守秘義務の徹底により中立を保っている。
今回のような重要度の低い話であれば俺達に世間話程度に他のチームの人間の話を漏らす事もあるが、幹部連中の話であれば笑い話ひとつ漏らしはしない。
中立を貫くセファをどこかのチームが引き入れれば、派手な抗争に発展する事になる。
新参から古参まで顧客に持つセファの情報網は強い。スカウトの多いセファを敵に取られるわけには行かないのだ。
そして身体に一生物の墨を刺れるというのは、刺れる方にとっても刺れられる方にとっても強い信頼の意味を持つ事が多く、墨を刺れてくれたセファを攻撃したくないと思う人間は少なくない。
「まあでもそこは俺だから、そいつの家くらい訊いてなくてもすぐ解るじゃん。深夜に行って壁という壁にヒンディー語の罵倒を描いて、持てる全ての香に火を点けて窓から投げ込んだよね」
「死ぬ」
「地味に凄そう」
「いやぁ俺がギャングだったらガンジスに沈めてたよマジで」
一体どんな煙と匂いが立ち込めたのか、少し気になる。
「バイクは?」
「xDKの幹部に連絡して事情話して、パーツ買い戻して貰ったよぉ」
「おぉ、流石。彫り師待遇」
「当たり前だよねぇ。何年ここでやってると思ってんだって話だよ。新参に好き勝手されちゃたまんないよ」
「俺もやりたかったなソレ」
「香爆弾?」
「楽しそう」
「俺は誰も巻き込めねえから孤独だわぁ。来て欲しかったもん。一人でヒンディー語壁に描いてるの寂しかったわぁ」
「呪術師かよ」
ギャングに入らない代わりに誰とも連めないセファは、哀しそうに俯く。
確かに、夜中に一人でグラフィティを描く防毒マスクのセファを思い浮かべると、ギャングから見ても怪しすぎる。
顔面のピアスや刺青に似合わず、辛そうにステラを飲んで見せるセファに笑いながら、俺達は自宅以上に寛いでいた。
同じ年頃の男しかいない空間というのは気楽だ。それに、内装も居心地良く感じていた。
レンガとコンクリートで固められた壁は、緑に塗り潰されてグラフィティが描かれていた。
セファ自身のものと、知り合いの描いたものとが混ざっているらしいが、どれもクオリティが高く目に楽しい。
刺青を刺れる用がなくても、暇な時間に通り掛かるとセファが招いてくれるので、俺達はすっかり気軽に居つくようになった。
「スマホ鳴ってね?」
「俺じゃないな」
「俺だわ」
俺はポケットから取り出したスマホのディスプレイを見て、応答をタップした。
『悪いなカミロ。もうすぐ交替だろ? 早く上がっていいから今からシグラとパラディーソに行ってくれ』
回線が繋がるとすぐに、申し訳なさそうな声がスマホから聞こえてきた。
「了解。何があった」
『不正があったんだ。ディーラーのブラスが身内サービスしてたんだと』
「あぁ、アイツうさんくせぇもんな」
『やっと尻尾を掴んだって所だな。ブラスは今夜もシフトに入ってる。連中も来るはずだ』
「すぐに行く」
俺が通話を切ると、ビールの残りを飲み干したシグラが瓶を置いた。
「場所は?」
「パラディーソだと」
俺も空になった瓶を置くと、セファに挨拶した。
「いつも有難う、セファ」
「ああ、気を付けてな。処刑人兄弟」
「父と子と精霊の御名において!」
見送るセファの言葉に有名なカルト映画の台詞で応えて、俺達は笑いながらセファの店を出た。
一歩外に出ると、昼間はピンクやオレンジの壁が派手なストリートも、迫る夜闇の気配にくすんでいた。
坂を下りながら遠くまで見渡すと、立ち並ぶ四角い家々の窓が灯りで浮かび上がっているのが見える。
俺は駐車されたバイクの並ぶパラディーソへの路を歩きながら、シグラに状況を説明した。
セファの店からパラディーソまではすぐ近くだ。比較的、道路の広い繁華街で、同じ通りの延長線上にある。
街灯と店明かりに照らされる路地を行き、ネオンが目を引く看板の前で立ち止まる。
シグラと一度視線を交わし、俺達は酒場を装った闇カジノ、パラディーソへ入店した。
ブラス以外の従業員達はもう事情を知っているだろう。俺達はいつも通り様子見に来た体で従業員に目で挨拶し、酒場の店内を通り抜け、バックヤードの扉へ向かった。
そこに配置されている従業員が、預かっていたらしいトランシーバーやマシンガンなどを寄越した。巡回に出る時の俺達のセットだ。
俺とシグラがそれを身に付けると、従業員は壁のカーテンを上げ、現れた扉を開いた。
途端に酒場の明るい喧騒が遠のき、少し空気の違う騒めきが俺達を出迎えた。賭場は今夜も盛況だ。
一先ず俺達は、カウンターのバーテンに声を掛けた。
「来てるか?」
「ちょうど貴方達が来る前に。もうテーブルへ立ってますよ」
バーテンはビジネスライクな微笑みを崩さず、流れるような所作でカクテルを作って俺達の前へ置いた。
「仕事前の景気付けに」
バーテンに微笑み掛けられ、俺達は出されたカクテルを飲みながら店内へ視線を巡らせる。
仕事前の配慮か、アルコールは殆ど感じられないが、仄かな甘みと冷たさが喉を冷やして心地良い。
しかしゆっくりしている暇も無い。
盛況な店内でも、ディーラーであるブラスの姿はすぐに見つかった。
「あっちも来たな」
シグラに軽く袖を掴まれ促された方を見ると、女連れが二組、ブラスのテーブルへ向かって行った。
柄シャツを着たアクセサリーの派手な男二人が、おそらく今回の対象だろう。確認のためバーテンに視線を向けると、彼は小さく頷いた。
「ブラスは俺が」
シグラがそう言って歩き出す。俺達はそれぞれ人混みに紛れて対象の背後を目指した。
香水や化粧の匂いが混ざる客の間を縫って歩きながら、ホルスターの銃に手を掛ける。俺とシグラの動きに合わせて、配置されている店の用心棒も動いたのが解った。
ターゲットの背に辿り着くと、俺は周りの客に見えないように自分の身で隠しながら、腰の辺りに銃口を押し付けた。
「訊きたい事がある。裏へお越し頂いても?」
笑い掛けると、男が身を竦める。隣の男にはバウンサーが銃口を当てていた。
正面のブラスも同じ状況に居る事は表情から明白だった。背後にはシグラが居るはずだ。
しかしブラスは焦ったのか、ディープグリーンのテーブルに手を掛けると力任せにひっくり返した。
「あークソ。面倒くせぇな」
赤や黒のチップや、アルコールの入ったグラスが飛び散る中、思わず漏れた呟きは、急な物音とシグラの銃声に驚いた客達の悲鳴に掻き消された。
混乱に乗じて俺の銃を叩き落とそうとした男の手を避け、俺は男を蹴り倒す。ついでにバウンサーと闘り合っていた隣の男の後頭部を銃のマガジンで殴ったが、その隙に倒れていた男が逃げ出した。
「あ! おい根性ねえな!」
その男を追いかけようとすると、バウンサーがもう一人の男に床へ叩きつけられ気を失ってしまった。
結局二人を追う事になった俺は走り出さずに銃を構え、逃げる男の脚を狙って撃ち込んだ。命中したのを確認すると、シグラを振り返る。
「ブラスは任せろ。そっちを頼む」
シグラは床に転がるブラスに跨り、首へリボルバーを押し当てたまま俺にそう言った。
店の電話で応援要請を出すカウンターのバーテンを確認し、俺は残りの一人を追いかけた。
逃げ出す客を容赦なく殴り付けながら押し除け、店を出る。
男が路地の階段を上がろうとするのが見えた。
この街は隠れる場所が多い。見失ったら終わりだ。間に合うか?
俺は肩に掛けていたライフルを下ろし、照準を合わせて引き金を引いた。男が転ぶように倒れる。
「やべぇ。死んだか?」
撃ち所を考える余裕が無かった。弾は肩か背中に命中したはずだ。致命傷になったかもしれない。俺は道路を渡ると、店と店の間にある住宅地へ通ずる階段を上がり、倒れた男の元へ駆け寄った。見ると、やはり弾は肩に当たっていた。
「おい、まだ死ぬなよ」
念のため銃を構えながら男を蹴って裏返すと、浅い呼吸を繰り返し意識を失いそうになっているのが解る。俺は空いている手で無線に通信を入れた。
「パラディーソ前の階段だ。ブラスの連れは捕らえた。侍らせてた女は逃したぞ。どうする? 死にかけてるが不正程度で処刑もないだろう」
『それなんだが、さっき追加でネタが上がってきた。パラディーソの客に外部の薬を売って儲けてたらしい。ブラスは賭けの不正と麻薬売買の黙認で二重に稼いでたってわけだ』
「ならブラスは処分だな。残りの二人はどうする」
『所属カルテルが知りたい。こっちで拷問に掛ける。お前はシグラの方へ戻っていい』
話しながらパラディーソの方へ視線をやると、数人がこちらに向かって来ているのが見えた。俺は暫くその場で待ち、応援に来たメンバーに男の処理を任せ、すぐに踵を返した。
パラディーソに戻ると、閑散とした荒れた店内にシグラの姿は無かった。
「シグラは?」
店にも組織の応援が何人か来ていたので、俺は処理に当たっているメンバーに尋ねた。
「仕事中だから誰も近付けるなと」
「どこだ」
「裏の物置だよ。護衛は付けてある、心配すんな」
男はそう言ったが、俺は銃を持ったまま急いでバックヤードの物置へ向かった。処刑は基本的に俺と二人で行っている。殺す前の時間を重んじるシグラは自分の意向を邪魔する者を寄せ付けたがらない。
「カミロ、お疲れ」
「どけ」
狭い通路には護衛を任されたメンバーが立っていた。呑気な挨拶を一蹴し、押し除ける。
別にシグラはカポエイラが得意な筋肉野郎でもなければドラマのヒーローのような特殊能力者でもない。物音が無ければ無事とは限らない。
俺は組織のこういう雑なところに辟易している。危機管理能力がザルすぎるのだ。
俺は死に行く男と仕事に専念しているはずのシグラの空気を壊さないよう、慎重に扉を開けた。
「本当にお前、こんな事が望みなのか……」
珍しく歯切れの悪いシグラの声が聞こえる。俺は部屋に入ると、静かに開けた扉を閉めた。
いくつもある棚の隙間から、シグラとブラスの姿が垣間見える。声を掛けるタイミングが難しい。俺は問題があればすぐに攻撃できるよう、ブラスの方へ銃口を向けようとした。
しかし、様子がおかしい。シグラとブラスの距離が近過ぎる。いくら狭いとはいえ、あれほど近付く必要はないはずだ。迂闊に撃てば返り血など避けられる距離ではない。それに、この位置からではシグラに当たりかねない。
「最期の願いだぜ? これ以上のものはない。冥土の土産には充分すぎる」
「だが……」
「シグラ、命を救ってくれとまでは言わないさ。頼むよ」
シグラのやり方に付け込んだような、卑しい言い方だ。ブラスが、シグラの横へ手を付いた。そして銃を持っている方のシグラの手を、棚へ押し付ける。シグラは抵抗しないが、顔を背けた。ブラスが曝された首筋へ、顔を寄せる。
なんだ、何をしてる?
ブラスがシグラの首筋へ、唇を這わせたのを見て、俺の心臓が跳ねた。それ以上耐えきれずに気配を殺すのを止め、通路を足早に歩いて二人の元へ姿を現した。
「何してる」
そう問い掛けた時、シグラが俺の名を呟き、目を丸くして此方を見つめた。銃口を向けられたブラスは両手を上げ、シグラから距離を取る。
そして見えたシグラの姿は、シャツが肌蹴て白い肌が露出していた。
急激に、頭に血が昇るのを感じた。
血液が沸騰し、裏腹に頭の芯は冷えていくような感覚があり、俺は引き金を引いてしまわないように必死に腕を支えていた。
「おい、邪魔するなよカミロ。合意の上だぜ」
「合意だと……?」
「いや、違う。カミロ、これは……」
「ブラス、お前の最期の望みってのを俺にも聞かせてくれよ」
胸元のシャツを掴んだシグラが、眉根を寄せて言葉を選んでいる。それを待ってやれるほど、俺には余裕がなかった。ブラスは軽薄な笑みを浮かべたまま答えた。
「見て分からないか? ヤらせてくれって頼んだんだよ」
悪びれもせずに、ブラスは言う。
「下衆野郎……殺してやる」
「おいなんだよカミロ! お前だって分かるだろ? 男の最期の望みなんかこれに勝るものがあるかよ」
「んな奴は、テメェが最初で最後だ」
「潔癖ぶるな。お前だってシグラを好きにしてるんだろ?」
「なんだと……?」
「惚けるなよ。シグラを抱きたい奴ならいくらでも居るんだ。お前だけの物にするなんて贅沢が過ぎるだろ」
ブラスが下卑た嗤い方をする。神経を逆撫でする声や表情に、俺の中にドス黒い淀みが溜まっていく。身体に収まっている臓器が急激に重く疎ましくなっていくような、吐き気に似た感覚。
「シグラ、お前なら都市へ行って金持ちと寝れば良い生活が出来るようになるぜ。こんなスラムに居る事はない。なんなら、俺が連れてってやるよ。一緒に逃げないか?」
「……巫山戯るなよ」
ブラスがシグラの顎に手を掛けて上向かせる。シグラはブラスを睨み付けて憎々しげに言葉を吐いた。
「飛んだ邪魔が入っちまったよな。こんな終わり方で死ぬのは俺が可哀想だろ? 救済者のシグラ様?」
シグラの唇を親指で辿ったブラスの頭を、俺は反射的に撃ち抜いた。
ブラスは呆気なく倒れ込み、人形のように呼吸を止めた。
シグラは横から勝手に殺してしまった俺を非難する事はなく、死んだブラスを一瞥しただけだった。
「カミロ……」
「どうしてそこまで献身的なんだよ」
「献身的、」
俯いたシグラに向かって吐き出した言葉は、感情に振り回されて理性を失くしていた。みっともないと解っていても、言葉は勝手に口から出ていってしまう。俺の言葉を反芻したシグラの気持ちを考える事が出来ない。ブレーキの利かなくなったバイクに乗っているように。
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「違うな、カミロ。俺のこれは自己満足だよ。処刑対象を利用してるんだ」
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「シグラ、それは……償いなのか? エリへの」
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重い沈黙のあと、俺に視線を向け、もう一度口を開いた。
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殺し続けた感情の遺言のように、言葉は揺らめいて、消えた。
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シグラの感情はいつも微かで、俺はそれを取り落としてしまわないように、ずっと慎重に見つめていたつもりだった。けれど、急に目前に散ったシグラの心の破片に、俺は戸惑っていた。シグラの傷はまだ血を流したままなのだ。
俺はどうなんだろう。俺は、シグラに付き合う形でこの仕事に就いた。だけど、これがエリへの償いだと、俺自身が思っていたんじゃないか。シグラのやり方に便乗して。
間違って生まれた、とシグラは言った。
シグラの母親は、在留していた他国の男にレイプされてシグラを身篭り、頼る宛てがなくこのスラムに流れてきた、身寄りのない不幸な人だった。
シグラを産む前から病気で、シグラを産んだ時に死んだ。
俺はそれを母親に聞いて知っているが、シグラに話した事は無い。
シグラは全てを知っているんだろうか?
シグラが負っているものは、きっとエリの事だけじゃない。生まれも運命も、この街で育ったことも、なにもかもがシグラの鎖になっている気がした。
でなければ、どうして、あんな男に触れさせてもいいなんて思える。
俺は、シグラが何を考えていたとしても、シグラにあんな浅ましい欲望を向ける男が許せなかった。シグラに触れていい人間はこの世にいないとすら思った。
けど、俺が、俺自身が触れたいと思った事が無いと言い切れるだろうか。
俺はあの男と違うか? 本当に?
俺以外に触らせるなと、少しも思わなかったと言えるか?
知らずにいた自分自身の奥底の声を、突き付けられたような気がした。シグラが誰かの欲の対象になっているという事が、耐えられない。それに比例して、自分自身が急激に汚い生き物に成り下がったような気がした。
◆
俺はあの後シフト通りの仕事に戻ったが、シグラは他のメンバーとシフトを交代していた。
処刑の仕事はもう起きなかった。代わりに拠点の一つで見張りをした。
裏口から顔の無い遺体が運び出されるのを見て、それが俺の捕まえた男だと解った。カルテルにバレないよう、身元不明の男になった遺体は、どこかに放られる。
気分の悪い夜だった。
シグラは家に居るだろうか。これ以上悪い事が起こらないよう願いながら、俺は残りの仕事を慣れない男とこなした。
勤務が終わったのは夜明け前で、空が焼け始めているのが路地の隙間から見えた。
俺は家の近くの見晴らしの良い階段を帰り道に選び、遠回りになるそのルートを歩いた。
斜面を登ったり降りたりしながら、夜の間に起こった事を整理して呑み込もうとしていた。
けど、簡単じゃない。俺は物事をよく考えるのは苦手だ。文字や言葉に詳しくない。殆どシグラが使う言葉を、俺も覚えてきただけだ。だから自分の事を説明するのは、とても難しい。
シグラの事を解りたいけど、自分の事すらよく解らない。
俺がもし、外の人間が言う教育ってものを受けていたら、もっと違ったんだろうか。
もしも、なんて言葉。葬った数だけ墓標を立てたのなら、きっとこの街は十字架で埋まってしまう。
このスラムで生まれた瞬間から死んでいったその言葉が、亡霊のように剥がれた壁に染み付いている。銃弾に穴を開けられて、磔になっている。ここはそういう所だ。
振り切れない思考を連れて狭い路地の暗がりから出た時、目当ての階段に繋がる踊り場に、朝焼けを背にしたシグラが立っていた。
「シグラ……」
聞こえるはずの無い零れ落ちた声を、まるで聞き届けたようにシグラが俺を見る。思わず立ち止まっていた俺に向けた視線を、ゆっくりと、また朝焼けへ戻す。その一瞬に、時間が留まったような錯覚があった。
俺はシグラの方へ、一歩ずつ近付いていく。距離を詰めていく度に、俺に纏い付いていたものが剥がれ落ちていく気がした。
忙しなく頭を騒がせていた様々な理性と感情と、足りない言葉が静かになって、俺の中身は冷えていく。
シグラの、隣に立つ。
この場所で、幼い頃から、シグラと何度も空を見た。朝と夕に焼けていく赤を、曖昧に溶ける紫を、澄み渡る青と、闇に変わる紺青を。
たくさんの感情と時間を共有しながら、俺達が言葉にした事は、あまりにも少ない。俺達の間に言葉なんか必要ないと、俺は思っていた。けれど、言葉にしなければ解らない事もあるのだと気が付いた。
「誰かを救えるとは思ってないんだ」
ぽつりと呟いたシグラは、昇る太陽を見つめていた。色素の薄いシグラの髪や頬が、朝焼けの色に染まっている。
言葉を使うのは、シグラの方がずっと上手い。俺よりも喋らない分だけ、シグラはたくさんの言葉や感情を溜め込んできたんだろう。
「死にたくないと言う人間を、俺は殺すんだから」
シグラの輪郭が、朝日に燃やされている。救済者と呼ばれる、人殺し。随分と皮肉な通称を貰ってしまった。
「それでも、人が死ぬのに、あんなやり方が正しいとは思えない。俺の手が届くなら、見ないふりはもうしたくない」
俺達には、なんの力も無かった。
銃を扱うのに慣れていても、何人殺しても、組織に囲われた無力な子供だった。
知りたくないような凄惨な殺され方を、俺達はこの街で何度も教えられた。
「償いなんて、意味がない。エリは死んだ。それは変わらない。何をしたって、もう届かない。変えられる現実しか、変えられない。そうだろう?」
シグラの瞳が朝日を反射して、泣いているように見えた。シグラの表情は変わらないのに、哀しみにも怒りにも似ているように見えるのは、朝焼けのせいだろうか。
「そうだな」
いつからか、シグラの示す在り方が、勝手な俺の感情の行き先になっていたのかもしれない。きっと蜘蛛の巣に囚われたシグラの手が、俺よりも現実を受け止めてきた。
「俺も、そう思うよ」
失いたくないと、ずっと思ってきたのは、失っていく世界だと知っていたからだ。
シグラがどれだけ俺にとって大きな存在なのか、どんな意味を持ってそう感じていたのか、俺はやっとこの夜に思い至った。自分の中の全てを理解するには、まだ時間が掛かるんだとしても。
「シグラ。俺はお前を、誰かに触れさせたくない」
俺が男だから、内蔵された独占欲でそう思うのだとしても、それだけじゃない。シグラの選んだ在り方を、護りたいと思ってきたのも本当の事だ。
シグラは感情を捨てているわけでも、他人よりタフなわけでもない。
いろいろなものを呑み込んで、やっと立っている。
その手で、重い引き金を引いている意味を知らない誰かに、無遠慮に触れさせていいようなものじゃない。
「なにも正当化する気はない。これは俺の我儘だ」
シグラのやり方が間違っているとは思わない。けれど、
「お前は自分の身さえ捧げてしまうほど、自分に価値が無いと思ってるんじゃないか」
シグラの瞳が揺らいだ。言われたくない言葉だったかもしれない。それでも、伝えたい感情があった。
「俺はお前を誰かにくれてやる気はない。死者にだって渡さない。そう思うのは、シグラが俺にとって何よりも価値があるからだ」
太陽が昇って行く。燃える光の塊は、海の水平線から離れようとしていた。光の道を陸まで繋いで。
「それだけは知っていてくれ」
俺が伝えたかった、たった一つのことは、シグラに正しく届いたろうか。
海風の中でシグラが微かに瞳を綻ばせたのを、その答えだと思いたい。
明けた夜を見送って、俺達は朝日の中で階段を一緒に降りた。幼い頃と同じように。
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