密教僧・空海 魔都平安を疾る

その三 ファースト・コンタクト

十二

真夏の夜。昼間はあれほどに、自己を顕示していた陽もしばらく前に、西の山々に姿を隠し、世は凛とした空気に包まれている。
静寂である。誰もが夢の中にいる。昼間の疲れをいやし、明日への活力を蓄えるために。
鳥たちも、虫たちも寝ている。
庭の草木は静かに風に揺れている。
だが、橘屋敷の縁に座る者だけは起きていた。知草である。知草は気が気でないのだ。だいたい、この位の時間に嘉智子夫人は悪夢を見て、知草の名を叫ぶ。そして空海の動きがどうにも気になっているのだ。
キャアアアアアアアアアッ
夫人の悲鳴が聞こえた。
ああいつも通りだ！
夫人は同じ夢を見たのだ。次は知草の名前を呼ぶだろう。
知草が立ち上がろうとした時、足音がした。廊下をすごい勢いで走る足音。こちらに近づいて来る。
ダダダダダダダッ
空海である。空海が走り込んできたのだ。
「お、和尚様。なぜここへ？」
「知草殿、人を集めてくれ。術師を捕まえる」
空海は叫びながら、知草の横を走り抜け、そのまま夫人の寝所に入っていく。
「和尚様、空海様、そこは夫人様の御寝所ですっ。入ってはなりませんっ」
空海は知草の声を無視し、寝所に走り込む。
化け物がいた。
長い毛に覆われた巨大な三つ目の化け物がいた。
部屋の隅で怯え震え、座り込む夫人の前で大きな口を開けている。
「オン・マユラ・キランデイ・ソワカ」
孔雀明王呪である。全ての悪鬼を打ち払う真言である。空海は孔雀明王呪を唱えながら、左右の手のひらを巨大な化け物に突き入れた。空海を光が包み込む。
「滅っ」
巨大な化け物が四散する。
「空海様っ！これは夢、それとも現（うつつ）？どちらなのっ！」
夫人が叫び声をあげる。
「夫人様、これは現の事にございます。鬼は夫人様の夢の中に現れたのではないのです。本当に鬼はいたのです」
「えっ、それはどういうことです。一体何が起きているのですっ！」
「しーっ、お静かに」
空海は口に人差し指をあて、周囲に目を走らせる。右・左・天井・床・・・。
耳をすませる。
トン
気配がした。
本当にわずかな気配。
例えるなら、蜘蛛の巣が風でたわんだような、花びらが一つ地面に落ちたような、あるかないかの些細な変化。
それを空海はつかんだ。
「下だっ。この床の下に術師が潜んでいるっ」
空海は叫びながら、寝所を飛び出し、縁から庭に飛び降りた。
「知草殿！人はどこにいるっ。術師が床下から逃げ出すぞ！ここで捕まえなければ、夫人様の悪夢は終わらないっ」
「和尚様、そうおっしゃっても、この真夜中、そうそう人は集まりませぬっ」
「何ですとっ！逃げられてしまう！あっ、あそこだ」
空海は１０ｍほど先を指さした。身を屈めた黒い影が疾走している。周りには誰もいない。
空海はその影に向かい走り出す。しかし間に合う距離では到底ない。
空海の顔に焦りが浮かぶ。
その時である。黒い影が突如として消えた。
「何だ！どうしたのだ？」
戸惑う空海に向かい、大きな影がゆっくりと近づいて来た。
空海は、身構えた。
ドサッ
何かが空海の前に投げ落とされた。
「『待て』と言っても、止まらないものですから。殴り倒した。空海殿、こいつが術師なのですか？」
「あんたは！」
大きな影が姿を現した。
田村麻呂である。