密教僧・空海 魔都平安を疾る

カズ

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その三 ファースト・コンタクト

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「ようこそおいで下さいました、和尚様。和尚様のお噂は、かねがね聞いておりました」
一人の女性が屋敷の一室で空海に挨拶をする。
三十代の半ばあたりであろうか、体全体が少し丸みを帯びてはいるものの、上品で美しい。名は田口三千媛(たぐちのみちひめ)。橘家の当主・橘氏公の義母であり、実質的に今の橘一族を統括している女性だ。
「噂ですか。なりほど・・・。私の事を三千媛様に話した者は、つつがなくやっておりますか?」
「はい、元気でやっておりますよ。ですが、今の生活に満足はしておらぬ様子。唐が恋しくてならぬようですね。唐というよりも、空海和尚様が恋しくてならぬのかもしれませんが」
「逸勢(はやなり)という男はそういう男なのです。常に何かに不満なのですよ。そして何に不満なのかが、あいつ自身にもよく分からないのです。あの男は、自分自身に一番不満なのでしょう」
「逸勢」。
「橘逸勢(たちばなのはやなり)」である。
空海・嵯峨天皇と並び、後に「三筆」と評される書の達人であり。空海とともに遣唐使として唐に渡り、空海とともに帰国した。
 唐の人々さえ、その書の才を称賛した。が、中国語を解することがなかなか出来ず、留学したものの、学問を進めることはほとんど出来なかった。
 そのようなことで、官吏としての出世は遠のいている。
逸勢は、三千媛の夫・清友の弟である入居(いりい)の子である。三千媛にとっては、甥にあたる。
三千媛は甥である逸勢から、空海の事を様々に聞いたのであろう。
「その通りにございますよ。和尚様はよく逸勢殿の事がお分かりになりますね。あの者は『唐に戻りたい』と口癖のように繰り返しておりますよ。和尚様はそうは思われないのですか?」
「そう思わぬと言ったら噓になるでしょう。私は唐にいるべきであったのかもしれません。・・・ところで、三千媛様は、私にどの様な御用があるのでしょうか?」
唐の事について、考えるのは今の空海にはつらかった。「戻りたい」と思ってもどうする事も出来ない事なのだから。
「これは大変申し訳ない事でございました。お呼びだてしながら、余計な事ばかりお話しておりました。失礼をお許しください」
三千媛は自分のうかつさを詫びた。
そこで大きく息を吸い込み、口を開いた。
「和尚様、どうかお助け下さい。嘉智子夫人(かちこふじん)様をお守りください。夫人様は、今そのお命を狙われているのです」
空海は目を細め、三千媛の顔を見つめたのである。
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