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その二 不動明王呪

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 境内に不動明王像が置かれている。大人の腰ほどの高さのある台座に座し、後背に燃えあがる炎を背負っている。左手に三鈷剣(三鈷杵を柄にした剣。三鈷杵とは3つの爪を持つ密教の法具)、右手に羂索(けんさく=悪を縛り上げる投げ縄のようなもの)を持っている。両目をカッと見開き、上唇が下唇を噛み、2本の両牙が下に突き出ている。
 その不動明王像の前に木を積み上げた護摩壇が作られている。護摩とはインド系宗教の火を用いる儀式である「ホーマ」からきたものである。木を組んだ護摩壇に供物を投げ入れたり、護摩木と呼ばれる木を投げ入れたりして燃やしていくのである。
護摩木は人々の煩悩を表し、不動明王の炎でその煩悩を浄化するという意味がある。
護摩壇の前に空海が座る場が設けられている。周りには多くの貴族や富裕者が、従者をしたがえ床几に座っている。
空海が護摩壇の前に進む。後ろに十人ほどの僧侶を従えて。
空海がこぶしを握り締め、両手を突き上げた。その両手を開くと、中から火球が現れた。空海はその火球を護摩壇に投げ入れる。
めらめらと燃え上がり、炎の柱が何本も立ち上がる。
「おおっ」
「これは、これは」
周囲から歓声とどよめきが上がる。空海は護摩壇に次々と火球を投げ入れながら経を唱えていく。僧侶たちも空海に合わせ経を唱える。何とも力強く荘厳な光景だ。見ている者たちは、その場の雰囲気にたちまちに飲み込まれていった。
空海は立ち上がり、観客(?)たちに向かい、声を張り上げた。
「不動明王の火は浄化の炎にございます。病魔・悪鬼を退散させるもの。さあ、皆様もう少し、こちらに、この空海のそばにおいでませ」
多くの貴族たちが、空海のそばに集まりだした。
すると、一人の僧侶が桶を取り出し、その中の水を空海と集まった人々のまわりの地面に撒き始めた。
たちまちに、空海を中心とした水の線による「いびつな円」が描かれた。
怪訝な顔をする貴族たちを尻目に、空海は合掌し、小声で経を唱え始める。
唱え終わった空海が手を広げると、小さな火球が生まれていた。それを水で引かれた線に落とした。
「おおっ、これは何たることぞ!」
「水が燃えておる!水に火がついたぞ!」
「なぜじゃ?なぜ水が燃える!」
先ほどの歓声・どよめきとは比較とならないほどの驚きの声が上がった。
空海たちのまわりに引かれた水の線が一斉にメラメラと炎をあげたのである。
2cmほどの高さとなった炎の円が空海と観客たちを囲む形となった。
炎の円の中にいる人々は、驚きと不思議さ、そして恐怖でちょっとしたパニック
状態となっている。
超えようと思えば、超えられる高さだが、誰も飛び越えようとはしない。声をあげ戸惑うばかりである。
「皆様、ご安心ください!これなるは不動明王の炎にございますぞ!この炎の内側におられる方々は、不動明王により浄化されたのです」
そう言うと空海は合掌し、再び経を唱え始めた。空海に合わせて、僧侶たちも経を唱え始める。
「おおっ」
「何と!何と有難き事」
貴族たちが声をあげ、急いで目を閉じ、合掌し、一心に祈りだす。涙を流し、経をとなる者もいる。
「なるほどな、こうやって多くの大壇那(おおだんな=布施を行う人という意味)を得たというわけか。あざといことだな、空海」
田村麻呂は心の中で呟いた。
その時、田村麻呂は近づいてくる人の気配を感じた。
「空海様ーっ。和尚様ーっ。どうかお助けください」
一人の男が、大声を出しながら走り込んできたのである。
その男は、炎の円のすぐ近くまで来ると、「ドサッ」と両膝をつき空海に、何度も何度も頭を下げながら、手を合わせる。
「何事にございます?まずはお立ち下さい。わたくしにできる事なら、何でもいたしましょう」
空海が例によって、よそ行きの声を出す。
「お助けください、空海様。私の家が妖物に奪われたのです。その「物の怪」が言うのです。『空海を連れてこい』と。どうかお助けください。どうかお助けくだされっ。私には、もう空海様しか頼れる方はいないのです」
男はそこまで言うと、突っ伏して大声で泣き始めた。
「『空海を連れてこい』と・・・・。承知致しました。どの様な妖物か分かりませぬが、全てをこの空海にお任せください」
空海は優しさに満ちた顔で、突っ伏している男に語りかけた。
「おおーっ」
炎の円の中、円の外、いや寺に集まったすべての人々の大歓声が上がった。
大興奮に包まれた中、空海は静かに目を閉じ合掌している。
得意満面の顔で。
たった一人、この光景を冷めた目で見ている。
田村麻呂である。
「物の怪まで持ち出したか、空海。これはやりすぎというものだ」
心の中で、田村麻呂は再びそう呟いたのであった。

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