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その一 怪し(あやかし)の森

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森の中を空海と田村麻呂が歩いている。
山の麓であり、気温が2度は違う。木々が生い茂り、陽を遮っている。
それでも暑い。この暑い中を1時間近くも田村麻呂と空海は歩き回っているのだ。
蝉の大合唱が響く。
ミーン ミーン ミーン
ミーン ミーン ミーン
ジリ ジリ ジリ ジー
ジリ ジリ ジー ジー
蝉の声がより一層の暑さを感じさせる。
無言で歩いていた空海が足を止め、田村麻呂に顔を向けた。
「どうした、空海!何か分かったか?」
「・・・・田村麻呂、駄目だ。何とかなるかと思ったが何ともならん。この森はあまりにも大きい。出直そう。もう少しこの森について調べてからでなければ何もできん。それが分かった」
「何だと!それでは今までの苦労は、全くの無駄ではないか!今まで俺を歩きまわしておいて、それはないだろう!『密の正統なる後継者』とはそんなものなのか?」
田村麻呂が口を尖らせた。
「無駄ではないさ。この『森の大きさ』、『下調べが必要なこと』。それが分かった。これは収穫であり無駄ではない」
「空海よ、それを世間では『へ理屈』というのだ。知っているか?」
「『へ理屈』ではない!俺は二つのことを知ったのだ。これは大きな収穫だ」
「へ理屈を言うな!」
「へ理屈ではない!」
空海と田村麻呂の無意味な「へ理屈」問答はしばらく繰り返された。
「これはこれは。このような森の中で何をしておられますか?」
「へ理屈」問答で言い争っている二人の前に、一人の男が現れた。「木こり」のようである。
「俺は知らなかったことを二つも知ることが出来たのだ。それをこの男は『へ理屈』だと言う。お主はどう思われる?」
突然現れた見知らぬ木こりに空海は真顔で問いかけてくる。
「・・・・何のことでございましょう?何の事やら見当もつきませぬが・・・」
「木こり」は戸惑うしかない。
「いや気にせんでくれ。少しばかりこの森の中を歩いていただけだ。もう帰るところなのだ」
田村麻呂は戸惑う木こりに優しく声をかけた。
「・・・・そうでございますか。安心いたしました。この森の周りでは最近、『神隠し』が起きているとか、物騒な噂が出ております。まあ実際はそんなことないのでしょうが、気をつけるに越したことはございませんからな。陽の高きうちにお帰りになった方がよろしいでしょう」
「そうしよう。親切すまぬな」
田村麻呂の声は周りをほっとさせる優しさがある。木こりも気を許したのだろう、汗が滴り落ちている田村麻呂に小ぶりの竹筒を差し出した。
「たいそうな汗でございますな。これは、この先の川で汲んだ水でございます。よろしければお飲みくだされ。この様に暑い日には、ただの水が一番うまいものです。思いのほか冷とうございますぞ」
竹筒には水滴が浮かんでおり、確かに冷えていそうだ。田村麻呂の喉仏がごくりと動いた。
「すまぬな。動き回されていてな、のどが渇いておったのだ。頂戴してもよいのか?」
「どうぞどうぞ、お坊様もよろしければお飲みください」
木こりはそう言うと、懐からもう一本の竹筒を出し、空海と田村麻呂の二人にそれぞれ渡した。
「杣夫(そまふ=木こりのこと)殿、かたじけない。代わりにこれを差し上げましょう」
空海はそう言うと懐に手を入れ右のこぶしを木こりに差し出した。
「そんな、何もいりませぬ。そんなつもりは毛頭ございませぬ」
空海の右こぶしを木こりに近づけた。
「いや大したものではないのだ。どうか受け取られよ」
空海はこぶしを広げた。「炎の塊」が現れた。何と空海はその「炎の塊」を木こりの顔をめがけ投げつけたのだ。
「ピギーッ」
木こりは奇怪な叫び声をあげ、顔を両の手のひらで覆い、大きく後方に
飛びずさった。
「空海、何をする!」
田村麻呂が怒号をあげた。
「田村麻呂、気をつけろ。こいつは人ではないぞ!」
「何だと!」
田村麻呂は木こりに目を向けた。
木こりは左右の手で顔を隠している。その隙間から小さな赤い光が見て取れた。目だ。憎悪に燃える目が空海と田村麻呂をにらんでいる。
「正体を現せ。現わせねば更に炎を投げつけるぞ!」
「グワーッ」
空海が右のこぶしを固めたその瞬間、木こりは奇声を上げ、突風の如く空海に向かい、両腕を大きく広げ跳躍してきた。その動き、到底人のものではない。
空海の右手のひらに、炎を塊が出現した。しかし、木こりの動きは恐ろしく速い。炎を投げつける前に、木こりは空海の顔面を切り裂いてしまうだろう。
突然、空海の前に大きな黒い影が現れ、銀光が走った!
「ギャー」
そう叫び声をあげた木こりの体は、二つになって地面に転がっている。腰から上と腰から下に。
空海の前には田村麻呂が立っている。その右手に血がしたたり落ちる太刀が握られていた。
獣のごとき木こりよりもはるかに早く、動き、一閃し両断したのだ。
「むっ、何だこれは!」
息切れ一つしていない田村麻呂の顔がゆがんだ。
両断された木こりの体がみるみると縮まり、茶色の毛の塊となっていったのだ。
「恐らく狸の類だろう。木こりに化け、俺たちを食らおうとでもしたのか・・・。俺たちに飲ませようとした竹筒の中身もどうせろくなものではない。こいつの小便あたりだろうよ」
「「何!」
田村麻呂は手にしていた竹筒に目をやり、大慌てで投げ捨てた。竹筒からは茶色い液体が流れだし異臭が放たれている。
「空海、お前、木こりが怪しいといつから知っていたのだ?」
「知ってはおらん。だが俺たちはこの森にずいぶんといるが、木こりが切ったような木は一本もなかった。木こりの身なりはしておるが、手には斧も持っておらん。最初から怪しいとは思っていたさ。まあ獣の類とは思わなかったがな。お前が小便を飲んだら可哀そうだから、炎を投げてやったのだ。感謝しろよ」
「俺はお前が襲われる前に、たたっ切ってやったのだ。お前こそ俺に感謝しろ」
「俺が先にお前を助けたのだ。まずはお前が先に礼を言え」
「俺はお前の命を救ったのだぞ。重さが違うだろう」
言い争いが再び始まろうとした時、空海は右手を軽く上げ、田村麻呂を制した。
「・・・田村麻呂、おかしいぞ。何か感じやしないか?蝉の鳴き声が聞こえぬ」
田村麻呂は目を細め、耳をそばだてた。
「本当だ。しかも妙な具合に木々が動いている。風は吹いてはおらぬのにな」

ザワ ザワ ザワ ザワ
ギシ ギシ ギシ ギシ
ザワ ザワ ギシ ギシ

森中の木々の枝が揺れ動き、音が鳴っている。いや、まるで森が笑い声を立てているようにも聞こえる。

ザワ ザワ ザワ
フフ フフフ フフ
フフ フフ
アハハッ アハハ!

「・・・田村麻呂、これはまずいぞ!走れ!逃げるぞ!」
「おい走るって、どこを走るんだ?俺たちは見知らぬ森の中にいるのだぞ」
「心配するな。俺は目ぼしい木の枝に布を結び付けておいたのだ。その布めがけて走っていけば、この森から出られる。さあ行くぞ!」
空海はそういうや、一人駆け出した。
田村麻呂は自分が両断した狸の死骸を一瞬見つめ、太刀を鞘におさめると、空海の後を追い走り出した。
「田村麻呂、これはどうやら『神隠し』などではなさそうだな。思っていた以上に剣呑だぞ」
空海は走りながら、自分の後ろに続く田村麻呂を振り返ることもなく、まっすぐに前を向いたまま声をかけた。
空海の目がキラキラと輝いている。口元にはかすかな笑みをたたえている。
「おい空海、お前楽しんでないか?声が弾んでるぞ!」
田村麻呂は走りながら、前を行く空海の背中に声をかけた。
「お前は楽しくないのか?田村麻呂。この世は不可思議な事ばかりではないか!何と面白いのだろうなぁ!あははははっ。ははははは」
呪いの森に笑い声が響き渡る。
空海が高らかに笑っている。
空海は目を輝かせ、哄笑し森を疾走していく。
        
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