仲の悪い女子にシャツのボタンが外れていることを指摘したら、罵倒されて引きちぎったボタンを投げつけられた件。

あおば

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いつの間にか近くに座っている件。

ここは文芸部の部室かつ水族館。

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 小説が好きな人には納得してもらえると思うのだが、人間の感情と景色には密接な関係があるように描写されることはありがちだ。
 嬉しいとき、曇天から落ちる雨粒もキラキラと輝くように見えたり、悲しいとき、綺麗なお姉さんのショートパンツからすらりと伸びた脚もボソボソで不味そうなパンに見えたり。
 情景という言葉の通りに、この世界は感情によって異なる景色を見せてくる。

 もう一つの例として、ある高校の文芸部の男子生徒を挙げておこう。

 彼は夏休みの前まで、文芸部の部室を水族館の中のように感じていたそうだ。
 海底を模したかのように薄暗い館内、目の前には視界いっぱいに広がる水槽。
 アクリルガラスの巨大水槽の景色は美しくもあり、同時に畏怖を感じるほどの威圧感を放つ。
 さらに、水槽の中と対照的に薄暗い照明は、自分の矮小わいしょうさを不明瞭にするためのもの。
 ゆったりと水槽の中を泳ぐ生き物――ここでは獰猛どうもうなシャチとしよう――は、とらわれる自分を嘲笑っていて、怯える姿をたのしんでいる。
 彼は、安全であるはずの空間で、恐怖や不安に押し潰されそうになっていた。

 しかし、夏休みの初日に起きたある出来事によって、こちらと向こうをはっきりと分けていた重厚なガラスが粉々に砕け散る。
 流れ込んできた大量の水に溺れることもなく、彼の世界は広がりを見せたのだ。
 思っていたよりも部室の泳ぎ心地は良かったし、獰猛だと思っていたシャチは意外に人懐っこく、彼を傷つける意図など持っていなかった。
 加えて、ガラス越しに見る姿よりも、数段に可愛い。
 まあ、男子高校生というのは現金なもので、この日を境に、彼は部室に来ることが楽しくなった。

「――さっきから、なに? キモいんですけど」

 俺が見ていたことに気付いたのか、シャチがこちらを睨みながら牙を剥いてくる。
 普通の人間であれば、こんな手の届くところに”海のギャング”がいたら卒倒してしまうだろう。
 偉そうに語っているが、少し前までの俺は卒倒する側だった。

 しかし、いまの俺は、こいつの噛みつくフリがただの威嚇、あるいは求愛であることを知っている。

「ぇっ、いや、シャチって可愛いよな」

 自分で考えたことに自分で恥ずかしくなって、俺はしどろもどろに話題を振ってしまう。
 なんだよ、愛って……浮かれポンチか、俺は。

 罵倒したら脈絡のない話を投げ返されて、困惑したように首を傾げたのは御津代みつしろみつは。
 俺と同じで一年の文芸部員、ちなみにシャチではなく人間だ。
 いまは夏休みなのに、クーラーもない文芸部の部室に入り浸る物好きなやつ。
 まあ、俺も同じように部室に来ているから、人のことを言えないのだけれど。

「シャチね……あんた、あんな乱暴者のこと好きなの? 頭湧いてんじゃないの?」

 気を取り直したのか、御津代は傾げていた首を戻しながら俺を罵った。
 頭の後ろでひとつにくくった黒髪のしっぽが、さらりと横に流れる。
 まとまった髪の艶やかな漆黒がシャチに似ているなぁ、と頭をぎった。

「なんだよ、そこまで言うことねえだろ」

 正直シャチのことが特に好きというわけでも詳しいというわけでもないのだが、なんとなく刃向かってしまう。
 しかし、御津代様は下々の者の刃向かいに機嫌を損ねることもなく、不敵に微笑んだ。

「知らないみたいだから教えてあげる。いい? シャチはね、愛くるしいアザラシさんをボロ雑巾のように空中に放り投げたりもてあそんでから食べるの。これは子どもに狩りの仕方を教えているって説もあるけど、アザラシさんにとってはそんなの関係ないじゃない? あと、氷上で怯えるアザラシさんを数匹で取り囲んで、恐怖に耐えきれなくなって海に跳び込んだところを捕食するの。ねえ、あんた、アザラシさんの気持ちになってみなさいよ。どう? 悔しいでしょ? シャチが好きなんて口が裂けても言えないでしょ?」

「……お前がアザラシのことを好きなのは伝わった」

 矢継ぎ早に濃厚な自然界の厳しさを突きつけられて、俺は辟易へきえきとしながら返した。
 シャチってイルカと同じポジションだと思っていたけど、そんな残酷なやつだったのか。

「ただ、お前が言った狩りの仕方を教えるってのもそうだけど、シャチにだって事情があるんだろ? 人間の尺度で一方的に悪って決めつけるのもどうかと思うぞ」

 確かに人間界のルールでは、シャチはシリアルキラーの異常者だ。
 俺も、アザラシが可愛そうだとは思う。
 しかし、それは俺が人間で安全なところから高みの見物をしているから、そう思うに過ぎない。
 もし俺がシャチだったら、アザラシのことは美味しそうとしか思わないだろう。

「……ふん、まあ、あんたの言うことも一理あるけど、あたしがシャチを可愛いって思うことは絶対ないから」

 口をとがらせた御津代が、ぷいっと顔を背けながら言いきる。
 頭の後ろのポニーテールも、顔の動きに合わせてぷいっと跳ねた。

 あれ? なんだかいつもよりも御津代の髪がよく見える……気のせいか?

 少しの違和感は、あっという間に、御津代の透き通るような首筋に奪われて消えていく。

「うーん……実際に見てみたら可愛いと思うけどなぁ、白いところも黒いところもツヤツヤですべすべそうだし、撫でたいって思わせる力があるし」

 俺がシャチのことを褒めるのを、御津代は興味なさそうに横顔で聞いていた。
 しかし、ふと。

「ねえ、そんなに言うなら……その、ぇっと、水族館、行けばいいじゃない……?」

 窓に取り付けられたブラインドをすり抜けてきた西日によるものか、頬を赤らめた御津代が、上目遣いで睨みつけてくる。

 これは完全に関係のない余談なのだが、女の子が勇気を振り絞って男の子をデートに誘ったとしよう。
 恥ずかしさよりも、その男の子と遊びに行きたいという想いが上回ったのだろう。
 断られてしまったらどうしよう、不安で心臓が張り裂けそうな女の子。
 そんな女の子に対して、男の子が、ふざけた支離滅裂な断り文句を返したら?
 百年の恋すら冷めてしまっても、なんら不思議ではない。
 まあ、あくまで余談だが。

「ん? 水族館? いや、俺にとって、この部室が水族館だから」

 俺の言葉を聞いて、御津代の頭上に疑問符がポンと浮かぶ。
 そのきょとんとした顔に、おそらく俺もきょとんとした顔を返しているのだろう。

 御津代にしてみれば、俺がふざけたことを言って煽って怒らせて。
 水族館の話題をはぐらかそうとしていると思ったのかもしれない。
 まったく、そんなつもりはなかったのだけれど。

「……意味わかんないっ、死ねっ!」

「ぅぐはっ!」

 最近、御津代は”口撃こうげき”と同じぐらいに”拳撃こうげき”をしてくる頻度が増えている。
 我らが文芸部の部長が以前に、「ケンカするほど仲が良い」と教えてくれたことがあった。
 部長、俺は御津代と仲良くなっていると思っていいのでしょうか?

 頬にめり込む、御津代の暴力を感じる。
 この衝撃によって俺の頭が覚醒したのかは定かでないが、俺は不意に、先ほどの御津代の髪が見える違和感の原因に思い至った。

 いつもは、部室に置かれた長方形の大机の長辺の端、そこに向かい合う形で俺と御津代が座っている。
 しかし、いつの間にか、御津代は長辺の端から短辺、俗に言う”お誕生日席”に移動していたのだ。

 俺の近くに座りたかったのか、それともこうして殴りやすくするために近づいていたのか。
 薄れゆく意識の中で、俺は御津代の行動の理由を考えるのだった。

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