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【第三晶~理に背きし者等の彷徨~】
65 今後を導けるのなら
しおりを挟む今回アスは意図的に“穴”を開け、そして広げた。
境界の壁に滲んだ水。
既にこちら側に押し寄せた分の掃除は終えていて、壁の補修も完了していた。
けれど、壁自体を取り替える訳にはいかなかった為に、痕跡は染みとして残っていた。
何時エッヘ·ウシュカの姿をしたあれに入りこまれたのかは分からない。
幾ら魔女の繋がりであったとしても、あの程度のものに入り込まれてしまうぐらいには自分がどうにもならなくなっている事態には溜め息を吐きたくなった。
そしてアスは直ぐに聞いていない筈の声を聞く事になる。
『もっとも、それなりに正しく現状を把握しているのに、その状態を溜め息一つで済ませた貴方に脱帽ですよ』
と、全く凄いどころか微塵も感心していないと分かるのに、素晴らしいまでの笑顔を付けて告げられた言葉の本気具合が、これでもかと分かってしまう釈然としない感。
今現在、それを実際に向けられた訳でも言われた訳でもないのに、けれど決してただの妄想では済まない圧を意識のない相手から感じるのは本当に何なのだろうかとアスは心内だけで慄いていた。
そして、その心内に収まりきらなかったもので、浮かべていた笑みが苦みを帯び、更に引き攣りを見せ始めた自覚に、アスは一度溜め息を吐く事で誤魔化しを入れ、そうして仕切り直しと口を開く。
「青の集落で接触して来た水生馬は“夢”が自らの繋がりとした存在と同一個体
接触したのは私の眠りの中で、うちの荒っぽい方がもう既に退けてしまっていたが、あの一度でもあそこまで入り込まれて接点を持ってしまえば、そこからは少し手順を踏めば点の様な染みでも“穴”へと転じる」
だから、今ここにこれが存在しているのは、アスがした事の結果だとそう説明する。
「境界はある意味脆いが、確かに在るもの。痕跡から破るにしても、隔てられて在るべきものに干渉するのだから、相応の代償が必要になる」
「反動も“蝕”が起きておかしくない程にある筈です」
「喚んだ時はそれ程でもなかった、と言うかこれがこちらの分も肩代わりしてくれた気がする」
言いながらアスが手の平で指し示す先にいるのは、勿論うねる触手である。
ーうね
意識が向けられた事に気付くのか、その一瞬、触手は今までの不規則な揺らめきとは異なる何らかの意思を感じさせる動きを思わせ蠢いた。
まるで、何か?とでも言うかの様に、アスの向けた手の平の先にいた触手の何本かが、アスを上から覗き込む様に動き行き、その先で否定とも肯定ともつかない上下運動を伴って揺らめいたのだ。
「は?」
「だがまぁ還す時は分からないからな、私は一度引き籠もる事にした」
見間違いを肯定してくれと言わんばかりの目を見張りながらの疑問符。
けれど、アスがその響きだけの懇願を受け入れる事はない。
「んん?」
「一度?」
驚き、不意打ちの様な虚を突かれ、恐らくは年単位でなかったであろう忙しない程の感情の動きにルシアとルカの反応が追いついていないのかもしれないがアスは配慮しなかった。
寧ろ押し切る算段をつけられないかと考えてもいる。
二人の反応を他所に、何でもないと言うように触手へと手を触ってみせれば、その意図を察するのか、触手は傾きをもとに戻し、先程までと同じ様に揺ら揺らうねうねと。
「半年だ」
「······そこが限界でしょうか」
ルシアへと向き直るアスの唐突な宣言。
対するルシアの一瞬の沈黙は浮かべた笑みの向こうに逡巡と黙考があったのかもしれない。
単に慣れていない衝撃から戻って来るまでに必要だった時間かもしれないが、その先の理解か諦めか、納得か譲歩か。ルシアが普段通りの綺麗な声音により紡ぐ答えから窺わせるものは何もなく、何の限界かも明言されないそれだけを応じて来た。
明言しないのは、口にしない事でそれを引き寄せない様にする為の細やかな抵抗。或いはただの共通認識であるが為の省きだったのかもしれない。
「全部、推測」
色々と呟くアスは思っていたが、結局はどう言う思いのものだったとしても、とルシアを、そしてルカへと眺め見る様な眼差しを向けていた。
アスもまたそこにこれ以上触れる事はなく、ただ必要と思う部分だけを擦り合わせて行く為だけに。
「半年でそこの雛を先代に渡り合えるか凌駕するレベルにまで育て上げて、北の大陸、終わりが始まるあの場所まで導け」
「先代とは金の勇者様のことですか?それともそこにいる黒の勇者様?」
「“星”が導いた前回ですら旅の行程に二年をかけたのに無茶苦茶ですね」
ルシアがミハエルを見て、ルキフェルへと目を向け首を傾げる。
続いてルカが呆れた様にも興味なさそうにも肩を竦めて見せた。
どうやら否はないらしいと、アスはその反応にのみ注視し、そして算段がつきそうだと密かに安堵の溜め息を吐いた。
「何がどう転ぶか、そもあの時にどう転がったのかを私は知らない」
「姉さんは失敗したから」
「そう、だが足りなかったのは確かだろうな······」
発言の言葉尻を途切れさせ、僅かに仰ぐ様に反らせた首で伏し目がちに細めたアスの双眸が見遣る北の空。
何をその瞳に映し、何を感じ様とするのか、茫洋と何も見る事のない双方にアスが訊くのは音無き響き。
「凍った時の式が完全に解けるまでの限界が半年だ」
「“氷”の標を戴きし凍れる刻の魔宝具」
「魔宝具とは名ばかりの呪」
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