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【第三晶~理に背きし者等の彷徨~】
59 呪歌を編む2
しおりを挟む視界に落ち行く鮮紅色。
寝具自体が淡い色合いで纏められていた為、その色彩は一層鮮烈に映った。
一応の配慮として右腕はベッドの上から突き出している。
自らの手首へと、レイリアから拝借した件のナイフでアス自身が生じさせた裂傷は決して浅くはなく、傷口から溢れた血液は直ぐ様次の一滴となり床へと向けて落下して行った。
床の素材が何だったのかは知らないが、絨毯等は敷かれていないらしくぴちゃ、ぴちゃんと水音が跳ねる音がしている。
一滴、また一滴と滴りゆくアス自身の鮮血。
何時の間にかベッドから降り、その傍らへと立つレイリアはただ黙ってアスが出血する様を見ていた。
何を言うでもなく、そして距離が出来てしまった事でベール向こうに隠された表情は分からず、けれど止めて来る素振りがないのでアスはレイリアの存在を気にしない事にした。
時を待つのはほんの数分だろう。
その間の沈黙にアスが何と気もなしに思うのは、かつてともに旅をした相手の事だった。
今この場にあの面々がいたならどんな反応をしただろうかとそんな事を漠然と考える。
(旅の初期頃なら完全に無視か、聖女殿を思って眉ぐらい潜めただろうが、最後の方になると気配を察知された段階で刃物が手の中から消えていただろうな)
侍従殿の前で正座し、懇々と圧のある説教をされるアスがいた。
(一応はこちらの意思を汲んではくれるが、剣聖殿だと事が済んだら即効応急手当をされて、何故行動を起こしたのか、それしか方法はなかったのか、ならば事前に一言あって然るべきでは?云々)
ひたすらに、雄々しき赤みある金髪様の前で誠心誠意の謝罪をするまで諭されるアスがいた。
因みにこの場合、口だけの謝罪は絶対に受け入れて貰えない。
(聖女殿は心根が綺麗だから、こちらを無言で見て涙を流す訳だ)
弁明一つ口に出来ず、ただ芽生えさせられた罪悪感に打ちのめされるアスがいる。
謝罪を許されず、その場での反省も認められず。ただ後悔だけを突き付けられるのだ。
そして、こうなった場合の更なる苦難は、聖女殿を泣かせてしまったなら、まず間違いなく追加で前述二人の対応が加わって来る事にある。
後悔で打ちのめされているところへの説教と説法でひたすらに削られ行く精神。彼等が納得を示し、全てが過ぎ去った後には灰も残らないだろう。
アスに自覚はなかったが、こう想定出来てしまっている段階で今の自身の行動が不味いものだと理解してはいるのだ。
だからこそ現状考えてしまっているとも言えて、そして推移してゆく思考に彼の姿が朧気に浮かんで来る。
嘗ての旅の仲間は四人。侍従殿、剣聖殿、聖女殿、その三人の反応から、残りの一人にも考えが及んで行くのは自然な流れだった。
······そして、勇者は、
意識の向くまま勇者の対応を思おうとして、そこで気付く頃合いにアスは自身の出血へと改めて目を向ける。
勢いを保ったまま出血は続いていた。
それなりに深く傷付けた事もそうだが、押さえる事のないままの患部を心臓より低い位置で維持する事で、より一層血が止まり難い状態にしている。
そうして視線を辿らせて行った先、床の血溜まりが十センチ近くに広がった頃、アスは徐ろに口を開いた。
ー微睡みの夢を喰らうもの 覚め得ぬ眠りへの使者よー
アスにしては低い声音で、詠う様に節を付けて何かへと向けて呼び掛ける様。
その瞬間、床に広がった血溜まりが、鳴動し脈打つように平たく孤を描いていた表面を波打たせる。
その様子を見るともなしに見遣り、アスは続きを紡ぐべく更に深く息を吸い込んだ。
ー泡沫に 深く深く落ち行く者の誘いをー
ー此方と彼方の狭間に在りし 遠き約束の記憶へと繋ぐ路ー
ー変わり得ぬ血脈を代償に 代わり得ぬ命脈を対価へと奉じー
ー捧ぎて喚ばう ······来よー
これはアスとって一種の賭けでもある手段だった。
部屋と言うこの空間。天蓋に囲われたベッド。首に付けられた環。
その全てが、外界を隔てたこの場へとアスを止め、あらゆる力を封じ、上げる聲すらも奪っていた。
今のアスには足を繋ぐ鎖すら絶つ力もなく、テイマーとして繋がりを持っている筈の誰かへと届かせる聲も発する事が出来ないでいる。
だからこその手段であり、それが現状へと繋がっていた。
「この感じは呪術に近い······?血に縛られた古き約定ですらなく、もっと原始的で術式の安全性など考えられていない」
レイリアが何事かを呟いていたが気にしている場合ではなかった。
血は媒体であり供物。
自らの血を媒体にしてアスを囚える場へと僅かなりとも干渉を果たし、結果として繋がった何処かを感じた。
その何処かへと向け更に捧げた供物としての側面へと応えてくれるものを喚ぶ。
アスがしたのはそれだけの事。
そして今、何かがこの場へと来ようとしているのが感じられるのだ。
干渉出来たと行っても、その繋りは恐らく髪の毛一本にも満たない直に切れて然るべき路。
その路を辿り、アスのもとまで来てくれる何者か、そしてこられるだけの力を有した存在。
その相手をアスは今から御さなければいけないのだ。
「応えたものが善きものとは限らない、善きものとて意思の疎通が叶うとも限りません。
成功させたことはさすが魔女様と言わざるを得ませんが、やはり無茶を思うのは、私が凡庸所以なのでしょう」
赤い血は血溜まりと化した状態では上手く光が反射せず、黒が鮮やかな射干玉の色合いにも見えていた。
艷やかな闇色の水溜りが小さく描く波紋は何処か粘性を帯びて見え、未だ落ち続ける鮮血の赤い雫をぬちゃりと音立てて飲み込んだ。
「賭けは賭けだが、そう悪い賭けではないよ」
「そう、なのですか?」
「駄目だった時は確実に巻き込む事になると思うがな」
「魔女様にお供出来るのでしたら大変光栄なことにございますわ」
「ここで賭けに敗れるような輩はお前の思う魔女様の定義から外れそうだがな」
視線をレイリアに向ける事なく続けた会話。
こう言った命を賭けた状況でも問題なく打開して行くのが魔女なのだろうと思っていそうだと考えたが為の発言だった。
けれど、レイリアはその発言に否を告げる。
「死ねないのが魔女様だと承知しております。ですから、命を懸ける様な賭けの勝ち負けに意味を見出す事そのものには意味がありませんの」
笑みを感じる声音には感情の響きが欠けている。
ここに来て、出会った頃のレイリアの反応が戻って来ていた。
では何を思うのかと、けれど差し迫った現状にアスがその疑問を口にする時間は残されていないのだった。
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