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【第三晶~理に背きし者等の彷徨~】

57 襲げ······?

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 夢現に微睡み、二度目のルカとの会話からどれだけの時間が経過したのだろうか。
 重い身体、変わる事のない倦怠感と霞がかる思考。
 シャラ、シャラと耳朶を擽る繊細な響きだけが、時たま曖昧なアスの意識へと刺激を与えていた。

 それだけの、それだけでしかなかった緩やかで穏やかな時間はその瞬間、唐突に終わりを迎えた。

 感じたのは気配にも満たない、けれど明確な空気の動き。
 アスは反射的に柔らかな反発のベッドの上を転がり、右手を着いたタイミングに合わせて流れる様な動きで身体を引き寄せ、次動作で起き上がる事の出来る体勢にまで整えた。

ーシャラッー

 繊細な音色はそのままに、僅かに響かせる音域を高くして鎖が鳴る。
 その瞬間に掬われる様にして支えのない場所を踏まされた右足と、結果として崩された体勢。
 左足の枷に繋がる鎖を引っ張られたのだとそれだけでも分かる現状に、アスは動く身体の反射反応に任せて右足を振り抜いた。

 寝転んだままの不自由な体勢だったが、仰向けから俯せへと勢いをつけた身体の捻りをも加えたそれなりの一撃だった。
 ない手応えに、けれど牽制にはなったのか気配が僅かに退く。
 その隙きに起き上がるべく空振った足でそのまま反動付け体勢を整え様として、だが再び、けれど先程よりも遥かに強く引かれる鎖にアスはベッドへと叩き付けられる様にして引き倒されてしまう。

「チェック」
「ほぼほぼチェックメイトだろう。それとも仕留める意思がないって、有り難い意思表示か?」

 次の一手で仕留められるとの宣言を落ち着いた女性の声にされ、けれど現状の自分の状態が仕留められているのと何が違うのだとアスはただ問う。

 襲撃者の左膝がアスの右大腿を適確に捕え、右膝が腹へと体重をかけていると言うなかなかに苦しい状態で、それでも声が出ない訳ではないのだからと告げてみた言葉だった。
 視界に入っている、荒事とは無縁に見えるしなやかな指。その左手に巻く様にして握られた細い鎖が繋がる先はベッドの柱であり、アスの左足へとつけられた枷。
 動かす余裕がない長さぬまで鎖は引かれ、そもそもがそれ以上に首筋へと突き付けられているものが、アスの行動を封じていた。

 喋る喉の動きだけで、アスの皮膚には鋭い痛みが走るのだ。裂けてはいないと思いたいが、明らかに刃物を突きつけられている。
 両手は自由だったが、命を握られここまでされてしまえばアスには動く自由がないも同然だった。

「この首輪邪魔です。狙うべきところを狙えないと、魔女様に無用の傷を付けてしまいます」

 声は何処となく可愛らしさすらも感じるが、やはり落ち着いた響きをしていた。

 アスに視界に揺れる、黒銀色。
 向き合った女性の目もとまでを覆う薄い黒灰色のベールが、受ける光の反射で繊細な銀紗を散らす。
 これだけの距離にまで近付いて、ようやくアスは、ベールの向こうに相手の瞳の濃淡揺らめく紫色を垣間見た。
 ゆったりとした黒い滑らかな生地が陰影の加減で見せる濃紫色。修道女が纏うスカプラリオの下に清楚なワンピースを着込んだ服装で、自らの上に乗る襲撃者の姿にアスは記憶にある一つの名前を呼ぶ。

「レイリア、だったか」

 その名前を口にした瞬間、いつかと同じ、ただお手本の様に美しい笑みがその唇に描いていた弧を深めた。
 とても綺麗な、形式的なだけの笑み。それをここで深めて見せる事にどんな意味があると言うのだろうかとアスは思う。

「覚えていただいていたようで恐悦至極にございます、魔女様」

 常盤ときわの魔女の領域でフェイと訪れた時忘れの教会。そこで邂逅し魔女教の司祭を名乗った女性、その女性が今アスへと馬乗りになっているレイリアだった。

「魔女様と、敬う言葉を使う割に、この扱いなのか?」
「それにしても魔女様に首輪を着けるなど、とても許される事ではありませんのに」
「殺す気で来たお前は、許されるのか?」
「私が魔女様を害する等、そんな怖ろしい事等、する筈がございませんわ」
「会話が成立していない、訳でもないのか」

 良く分からないなとアスは思う。
 アスへの所業をはぐらかそうとしているのとは違うのだろう。だが、突き付けられたものの存在を言及してみせれば脈絡なく首輪の存在へと憤慨する様子を見せ、この襲撃の意図を問い掛けた時には、そもそも殺すどころか危害を加えに来たという事実そのものを否定された。
 けれど、と眇め見る眼差しにアスは思う。
 レイリアは言ったのだ、
 する、しないはレイリアの意志による行動の結果でしかない。つまり、レイリアがもしアスを害すると意志を持ったならそれが可能であると言う事だった。

「まぁ、現状のこれだしなぁ」

 これとは突きつけられている刃物の存在を指しての事。レイリアがチェックを宣言した通り、レイリアがその気になれば事実それは叶うのだ。

「やはり他人事のようにおっしゃるのですね」
「いや、そこまで危機管理能力が死んでいる訳ないだろう?」

 抑え込まれ、身動きを制限された状態で急所である頸筋へと突き付けられた凶刃。
 レイリアが邪魔だと言った様に、獲物を仕留める時に狙うべき急所は首に嵌められたリングがピタリと覆ってしまっていて手を出せないのだろうが、首輪の幅がそう太く作られていないが為に、リングの素材が覆う場所以外の上下の何処を狙おうと問題なく致命傷を与えられるだろう。

「既に一昼夜になります」
「ん?」

 また話しが飛んだように思った。

「神の子たる子等が刃を交わし始めてから経った時間ですわ」
「勇者?」
「嘗ての人の子は勇者足り得た時に、人である己を失い神の子として生まれ直す。
魔女様方がそうである様に、勇者様もまたこの世を形作る摂理ことわりの上で特別な位置付けを持つのです」
「勇者について教会が教える定義なんかは今は良いんだが、子等と言うのは誰と誰だ?」

 子等と、複数形だったのだ。
 勇者と呼ばれる存在がそう何人もいる筈がない。
 聞かなくても分かっている事をそれでもアスが聞いてしまうのは、ない希望をそれでも信じたく思ってしまったからだった。

「堕ちた黒き黎明たる先代と未だ目覚め得ぬ暁の子である今代ですわ」

 嫣然と口もとだけで笑うレイリアが告げる。
 その内容にやはり世界は無情だとアスは嘆息するのだった。


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