196 / 214
【第三晶~理に背きし者等の彷徨~】
51 ルシア
しおりを挟む「おはよう、ございます」
「······」
内耳に沁み入り脳を侵蝕するそれは、福音の音であり、甘露の響きがあった。
寝起きに浮上しつつあった意識へと強制的に齎される絶対的な多幸感を前にしては、個としての自我の有り様はあまりに脆弱で、囚われた者は為す術もなくただ酔いしれるのみに。
そうして認識するに至る、目の前のたったひとりの存在。
「おはよう、ございます」
「······」
口にされる先程と同じ言葉。
近付いて来ていると気付くその一挙一動は、指先が描く軌跡や喋る口の動きすら見る者の視線を釘付けにし、けれど、直視する事は烏滸がましいのだと目を伏せたくなる程の神聖な空気を身の内から醸し出している。
その存在を美女と言ってしまう表現すらも生温く、寧ろ絶対的に足りていない表現力に陳腐さすらも覚えかねない女性が柔らかく微笑んでいた。
「おはよう、ございます」
「······」
三度目繰り返された言葉が、もしかしなくても自分に向けられているのだとアスはここに来てようやく理解した。
理解して同時にこの言葉が、アスによる応えを得られない限り続くものだとも気付いてしまった。
けれど、齎される幸福感をアスが享受する事はない。
それが“幸せ”なのだと本能の部分から理解していても、手を伸ばして与えられるままに溺れてしまう事が出来ない。
だから、ある意味、気付いてからのアスの対応は早かった。
おはようございますと挨拶をされているのだから、今のアスにとっての応えるべきは一つなのだと、酷く率直な思考を
する。
「おやすみなさい」
淡々と、抑揚に欠けた声で一言を告げた。
素直で愚にもつかない考えを全面に押し出す。そして、目を開いたと言う事実すら忘れた様に、再び目を閉じるのだった。
本当はおやすみと言う言葉すら口にはしたくなかったアスだが、応えなければ終わらないと分かってしまったが為の苦肉の一言だったのだ。
それを相手にも分からせる素っ気なさと、率直さの声音と行動。
アスはそんな自らの対応に満足していた。相手に寝ていたいと言う自らの意思を伝えた上で、返事を返したと言う尊重の意図も持たせたこれ以上ない程の出来だと。
後は、相手の追及の及ばない場所、つまりは目くるめく眠りの世界へと旅立つだけで事は済む。
その筈だった。
けれど逃げ切れなかった。
「ルカが、キスしたいって」
「意味が分からない」
おはようございますとの挨拶を聞いた時も思ったが、一息で言えるであろう言葉を吃っている訳でもないのに何故か途切れ途切れで告げてくる。
その喋り方で述べられた新たな内容に、アスは諦めた様に再び目を開いた。
そして首だけを擡げ、呟きとして答えた後に相手を視界へと入れる。
予想していたよりも近い位置、ベッドのシーツに触れるか触れないかのそんな位置に木漏れ日の光を紡いで来たかの様な、柔らかく波打つ金糸の髪が広がり、寝起きの目にも優しかった。
「何か親愛でないキスがどうのこうのって聞いたか」
自分で言って、顔を顰めてしまう。良い悪いでなく発言したままにただ意味が分からないのだ。
それはこの部屋で最初に目を覚ました時の話だった。
夢現で、やはり目覚めを拒否していたアスの耳へとルカにより吹き込まれた言葉がそうだったのだ。
「アスティエラ、星たる翼を冠する、私達の妹」
「その名前は、勇者が私に定めたもの。お前達の妹としての名ではないよ」
打てば鳴る鐘の音の様に、間髪入れずの応答だった。
仕種は対照的に緩やかで、悠然と重ねた両の腕を、自らの顎の下に引き寄せる。
アスとしては俯せの体勢のままで顔を上げ続ける、その為の姿勢を取ったに過ぎなかった。
億劫そうで気怠そうな様子と眼差しに、けれど否定を告げたアスその言葉には明確な否定がある。それだけだった。
「最初の歌い手たる、母様の子供、私達の大切な妹、私光であり光繋ぎ廻る光の子は問う。貴方は何?」
思考を溶かし、意識を酔わせる。
聞く声に、注がれる眼差しに、ただただ溢れんばかりの多幸感を享受させられる。
傾げる小首、零れ落ちる金糸の髪は神秘的でありながら何処か幻惑する様に。
促されていると、その仕種に答えへの焦燥を煽られ、刹那に口を開く事を求められていると知る。
沈黙は当然に許されず、偽る事は考える事すらも禁忌であり大罪であるとその金眼こそが宣下する。
けれど、アスはただ思う。ルカに似てきたなとそれだけを。
「いや、ルカがシャロンに似てきたのか」
思考の先を声に出してしまった瞬間、ほんの僅かに、ルシア・シアを名乗った女性は目を見張らせた。
「始まりの歌い手、聖女シャロン・リュシールの四人の娘。それから教会の把握していなかった血筋の先
ルカはシャロンを直接的には知らない同然だから、ルカがシャロンに似ているのなら、その姉であるルシアの影響だろう」
「ルカが、似ているのは、私でなく貴方では?」
「私はシャロンとは似ていないよ、そも姉だ妹だとお前達は言うが、私はシャロンの子ではない」
アスの何でもない事を告げる様な言葉にルシアの瞳が揺れる。
何を思うのかその感情を読み取る事は難しく、また敢えて追及しようとも思わない。
「血筋的にも継承の過程でも私とは繋がらない。ただ知っているそれだけ」
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

魅了が解けた貴男から私へ
砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。
彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。
そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。
しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。
男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。
元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。
しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。
三話完結です。

冤罪をかけられた上に婚約破棄されたので、こんな国出て行ってやります
真理亜
恋愛
「そうですか。では出て行きます」
婚約者である王太子のイーサンから謝罪を要求され、従わないなら国外追放だと脅された公爵令嬢のアイリスは、平然とこう言い放った。
そもそもが冤罪を着せられた上、婚約破棄までされた相手に敬意を表す必要など無いし、そんな王太子が治める国に未練などなかったからだ。
脅しが空振りに終わったイーサンは狼狽えるが、最早後の祭りだった。なんと娘可愛さに公爵自身もまた爵位を返上して国を出ると言い出したのだ。
王国のTOPに位置する公爵家が無くなるなどあってはならないことだ。イーサンは慌てて引き止めるがもう遅かった。


隠された第四皇女
山田ランチ
ファンタジー
ギルベアト帝国。
帝国では忌み嫌われる魔女達が集う娼館で働くウィノラは、魔女の中でも稀有な癒やしの力を持っていた。ある時、皇宮から内密に呼び出しがかかり、赴いた先に居たのは三度目の出産で今にも命尽きそうな第二側妃のリナだった。しかし癒やしの力を使って助けたリナからは何故か拒絶されてしまう。逃げるように皇宮を出る途中、ライナーという貴族男性に助けてもらう。それから3年後、とある命令を受けてウィノラは再び皇宮に赴く事になる。
皇帝の命令で魔女を捕らえる動きが活発になっていく中、エミル王国との戦争が勃発。そしてウィノラが娼館に隠された秘密が明らかとなっていく。
ヒュー娼館の人々
ウィノラ(娼館で育った第四皇女)
アデリータ(女将、ウィノラの育ての親)
マイノ(アデリータの弟で護衛長)
ディアンヌ、ロラ(娼婦)
デルマ、イリーゼ(高級娼婦)
皇宮の人々
ライナー・フックス(公爵家嫡男)
バラード・クラウゼ(伯爵、ライナーの友人、デルマの恋人)
ルシャード・ツーファール(ギルベアト皇帝)
ガリオン・ツーファール(第一皇子、アイテル軍団の第一師団団長)
リーヴィス・ツーファール(第三皇子、騎士団所属)
オーティス・ツーファール(第四皇子、幻の皇女の弟)
エデル・ツーファール(第五皇子、幻の皇女の弟)
セリア・エミル(第二皇女、現エミル王国王妃)
ローデリカ・ツーファール(第三皇女、ガリオンの妹、死亡)
幻の皇女(第四皇女、死産?)
アナイス・ツーファール(第五皇女、ライナーの婚約者候補)
ロタリオ(ライナーの従者)
ウィリアム(伯爵家三男、アイテル軍団の第一師団副団長)
レナード・ハーン(子爵令息)
リナ(第二側妃、幻の皇女の母。魔女)
ローザ(リナの侍女、魔女)
※フェッチ
力ある魔女の力が具現化したもの。その形は様々で魔女の性格や能力によって変化する。生き物のように視えていても力が形を成したもの。魔女が死亡、もしくは能力を失った時点で消滅する。
ある程度の力がある者達にしかフェッチは視えず、それ以外では気配や感覚でのみ感じる者もいる。

とある元令嬢の選択
こうじ
ファンタジー
アメリアは1年前まで公爵令嬢であり王太子の婚約者だった。しかし、ある日を境に一変した。今の彼女は小さな村で暮らすただの平民だ。そして、それは彼女が自ら下した選択であり結果だった。彼女は言う『今が1番幸せ』だ、と。何故貴族としての幸せよりも平民としての暮らしを決断したのか。そこには彼女しかわからない悩みがあった……。

このやってられない世界で
みなせ
ファンタジー
筋肉馬鹿にビンタをくらって、前世を思い出した。
悪役令嬢・キーラになったらしいけど、
そのフラグは初っ端に折れてしまった。
主人公のヒロインをそっちのけの、
よく分からなくなった乙女ゲームの世界で、
王子様に捕まってしまったキーラは
楽しく生き残ることができるのか。
私は心を捨てました 〜「お前なんかどうでもいい」と言ったあなた、どうして今更なのですか?〜
月橋りら
恋愛
私に婚約の打診をしてきたのは、ルイス・フォン・ラグリー侯爵子息。
だが、彼には幼い頃から大切に想う少女がいたーー。
「お前なんかどうでもいい」 そうあなたが言ったから。
私は心を捨てたのに。
あなたはいきなり許しを乞うてきた。
そして優しくしてくるようになった。
ーー私が想いを捨てた後で。
どうして今更なのですかーー。
*この小説はカクヨム様、エブリスタ様でも連載しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる