月白色の叙情詩~銀礫の魔女が綴るもの~

羽月明香

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【第三晶~理に背きし者等の彷徨~】

51 ルシア

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「おはよう、ございます」
「······」

 内耳に沁み入り脳を侵蝕するそれは、福音の音であり、甘露の響きがあった。
 寝起きに浮上しつつあった意識へと強制的に齎される絶対的な多幸感を前にしては、個としての自我の有り様はあまりに脆弱で、囚われた者は為す術もなくただ酔いしれるのみに。
 そうして認識するに至る、目の前のたったひとりの存在。

「おはよう、ございます」
「······」

 口にされる先程と同じ言葉。
 近付いて来ていると気付くその一挙一動は、指先が描く軌跡や喋る口の動きすら見る者の視線を釘付けにし、けれど、直視する事は烏滸がましいのだと目を伏せたくなる程の神聖な空気を身の内から醸し出している。
 その存在を美女と言ってしまう表現すらも生温く、寧ろ絶対的に足りていない表現力に陳腐さすらも覚えかねない女性が柔らかく微笑んでいた。

「おはよう、ございます」
「······」

 三度目繰り返された言葉が、もしかしなくても自分に向けられているのだとアスはここに来てようやく理解した。
 理解して同時にこの言葉が、アスによる応えを得られない限り続くものだとも気付いてしまった。

 けれど、齎される幸福感をアスが享受する事はない。
 それが“幸せ”なのだと本能の部分から理解していても、手を伸ばして与えられるままに溺れてしまう事が出来ない。
 だから、ある意味、気付いてからのアスの対応は早かった。
 おはようございますと挨拶をされているのだから、今のアスにとっての応えるべきは一つなのだと、酷く率直な思考を
する。

「おやすみなさい」

 淡々と、抑揚に欠けた声で一言を告げた。
 素直で愚にもつかない考えを全面に押し出す。そして、目を開いたと言う事実すら忘れた様に、再び目を閉じるのだった。

 本当はおやすみと言う言葉すら口にはしたくなかったアスだが、応えなければ終わらないと分かってしまったが為の苦肉の一言だったのだ。
 それを相手にも分からせる素っ気なさと、率直さの声音と行動。
 アスはそんな自らの対応に満足していた。相手に寝ていたいと言う自らの意思を伝えた上で、返事を返したと言う尊重の意図も持たせたこれ以上ない程の出来だと。
 後は、相手の追及の及ばない場所、つまりは目くるめく眠りの世界へと旅立つ逃げ出すだけで事は済む。
 その筈だった。

 けれど逃げ切れなかった。 

「ルカが、キスしたいって」
「意味が分からない」

 おはようございますとの挨拶を聞いた時も思ったが、一息で言えるであろう言葉を吃っている訳でもないのに何故か途切れ途切れで告げてくる。
 その喋り方で述べられた新たな内容に、アスは諦めた様に再び目を開いた。
 そして首だけを擡げ、呟きとして答えた後に相手を視界へと入れる。
 予想していたよりも近い位置、ベッドのシーツに触れるか触れないかのそんな位置に木漏れ日の光を紡いで来たかの様な、柔らかく波打つ金糸の髪が広がり、寝起きの目にも優しかった。

「何か親愛でないキスがどうのこうのって聞いたか」

 自分で言って、顔を顰めてしまう。良い悪いでなく発言したままにただ意味が分からないのだ。

 それはこの部屋で最初に目を覚ました時の話だった。
 夢現で、やはり目覚めを拒否していたアスの耳へとルカにより吹き込まれた言葉がそうだったのだ。

「アスティエラ、星たる翼を冠する、私達の妹」
「その名前は、勇者が私に定めたもの。お前達の妹としての名ではないよ」

 打てば鳴る鐘の音の様に、間髪入れずの応答だった。
 仕種は対照的に緩やかで、悠然と重ねた両の腕を、自らの顎の下に引き寄せる。
 アスとしては俯せの体勢のままで顔を上げ続ける、その為の姿勢を取ったに過ぎなかった。
 億劫そうで気怠そうな様子と眼差しに、けれど否定を告げたアスその言葉には明確な否定がある。それだけだった。

「最初の歌い手たる、母様の子供、私達の大切な妹、私光でありル·シル光繋ぎ廻るサーカム·アーク光の子=ルシア·シアは問う。貴方は何?」

 思考を溶かし、意識を酔わせる。
 聞く声に、注がれる眼差しに、ただただ溢れんばかりの多幸感を享受させられる。

 傾げる小首、零れ落ちる金糸の髪は神秘的でありながら何処か幻惑する様に。
 促されていると、その仕種に答えへの焦燥を煽られ、刹那に口を開く事を求められていると知る。
 沈黙は当然に許されず、偽る事は考える事すらも禁忌であり大罪であるとその金眼こそが宣下する。

 けれど、アスはただ思う。ルカに似てきたなとそれだけを。

「いや、ルカがシャロンに似てきたのか」

 思考の先を声に出してしまった瞬間、ほんの僅かに、ルシア・シアを名乗った女性は目を見張らせた。

「始まりの歌い手、聖女シャロン・リュシールの四人の娘。それから教会の把握していなかった血筋の先
ルカはシャロンを直接的には知らない同然だから、ルカがシャロンに似ているのなら、その姉であるルシアの影響だろう」
「ルカが、似ているのは、私でなく貴方では?」
「私はシャロンとは似ていないよ、そも姉だ妹だとお前達は言うが、私はシャロンの子ではない」

 アスの何でもない事を告げる様な言葉にルシアの瞳が揺れる。
 何を思うのかその感情を読み取る事は難しく、また敢えて追及しようとも思わない。

「血筋的にも継承の過程でも私とは繋がらない。ただ知っているそれだけ」



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