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【第二晶 ~選びし者と選ばれし者~】
73 望んだもの
しおりを挟む左手の剣を突き出し、口腔内から上顎を貫く。
痛覚があったとしても、細身の針がチクッと突き刺さったレベルのダメージとも言えない不快感しか与えられていないであろう、その程度の影響。
単純な、そして絶対的な体躯の差を思わせ、けれど、次の瞬間に澱みの蛇龍がアスを食らわんと顎を閉じるその直前に蛇龍の上顎から顔の3分の一程が爆散した。
パシャパシャ、ぼちゃん、ばちゃん。粘性ある塊が降り注ぎ、ぶつかる澱んだ水面に飛沫を上げる。
けれど、そのまま沈むかに見えた澱みの塊は水面を滑り、不気味に佇立したままの胴へと集うと、爆散した断面を不定形に蠢めかせ、そして、何事もなかったかの様に砕いた筈の頭部は再生を遂るのだった。
(アレを真似るだけあって、その性質も受け継いだか)
台座へと片膝をついたまま浅い呼吸を繰り返す。
頭痛が酷かったが、それとはまた別の理由で頭が痛いと思った。
「アス!お願いだから退いて!」
遠く、近く、声の距離感が掴み難いのは聴覚にまで影響が出ているからだろうか。
それでも、自分へと向けられる必死の懇願が聞こえない筈はないのだが・・・
(聞かない。今は、アレをどうにかする事だけを考える)
聞こえてはいても、それを聞くかどうかは別の話。
立ち込める黒い霧の濃淡の中、時々崩れる輪郭に、蛇龍の表面が不鮮明に波打つ。どろりと溶け落ち、その端から直ぐ様集まる澱みで再生を続ける様子。
先程の一撃が効いていない訳ではない。意味はちゃんとあった。そうアスは考える。
見た目的な再生は終えても、未だ完全ではないのか、澱みの蛇龍に動きはない。
霞む視界にも集中しなければと見据える澱みの集まりに、アスはただ思考を巡らせる。
(アレを象るなら基本の性質は水。なら、凍らせて、砕いて焼き払う、それで終わり・・・出来るな?あと一回で良い。たった一回、余裕だろう?)
纏まりつつある考えに、アスは血に染まった口角を上げて、敢えて悠然と笑ってみせる。
こんな事、大した事ではないと言うように。
「アス、僕が戦うから!」
(守らないといけない、勇者でなくなったなら、あの子が戦う必要なんてなくて、ただ居合わせてしまったのを、使ったのは私なのだから、だから、これ以上は駄目だ)
揺れる声音、強い口調での言葉。
ルキフェルもまた、先程から訴えを繰り返し、剣を振るっている。
「ねえ!アス!!」
(ここが、最後でも構わない・・・)
震える足を叱咤し、立ち上がるべく力を込める。
身体は燃える様に熱いのに、氷の芯でも通っているかの様に凍てついている。痛いのは頭で、苦しいのは呼吸。朦朧とする意識に自身を省みて、そして、切り捨てて行った。
その果てにアスの想いだけは残されていた。
(急がないとな・・・)
汗で取り落としそうになる剣を強く握り直す。
感覚は既に曖昧で、それでも握ったその感触にしか縋る術がないと言わんばかりに、強く強く握り締める。
剣の切っ先を蛇龍の頭部の付け根辺りへ向けようと腕を伸ばし、そして・・・ー
「アスティ!」
そう間近で呼ばれる事にはっとする。
次の瞬間には伸ばそうとした腕ごと背後から強い力で抱きすくめられ、その束縛から逃れる力は既にアスにはなかった。
「なんだ?・・・放せ」
何が起きたのか鈍った思考では判断出来ず、けれど動けない事に、その原因を朧気に理解して、曖昧な意識にも解放を望む。
(アレが何時動き出すか分からない。そうだ、壊さないと、アレは良くないもの、急がなければ・・・)
藻掻いて、なのに、自分を捕まえる腕の力が緩む事はなくて動けない。
「ルキ・・・、ルキフェル、放して」
「アスだめだ」
「どうして?大丈夫、ルキは何もしなくて良い、ここにいて?直ぐに終わらせるから」
傾げる小首に、意識の不明瞭さが何処か幼い口調に出始めていたが、アスにそれを自覚する余裕はなかった。
急がなければと、空回る思考では、既にルキフェルへと気を回す事も出来ず、何故行かせてくれないのか、どうして自分は今留め置かれているのか、ただ焦燥感に苛まれた想いの中で困惑だけがある。
「ルキ、大丈夫。ね?だから少しだけ手を放して」
拙く、説得とも言えない言葉を重ねた。自分で逃れられないのなら、そうする他ないのだから。
「アス・・・っ、ふざけるな!!」
突然怒鳴られて、アスは見張る目を瞬かせた。
「僕はずっと伝えてきた。一緒にいたいって、そばにいさせて欲しいって」
「・・・・・・」
怒っているのだと思った。けれど、その口調と声音はどうして、悲しそうに痛みを堪えて聞こえるのだろうか。
「アスに逢いたいって願った。逢えて、そばにいたいって望んだ・・・アスが生きてここにいてくれないのなら、俺の存在に意味なんてない」
また“僕”と“俺”が混在しているなと、そんな事をなんとなく考えていた。
「ルキフェル、・・・お前は、もう勇者ではない。そう自覚があるのだろう?」
「関係ないだろ!勇者でなくても、アスを守りたい、そう望んだ!」
言い聞かせる様に告げるアスの声音には酷く静かな響きがあった。
対するルキフェルの声はただ真摯であり、この問答に意味はないと分かっているのに、アスは細波立つ自身の心内に、気が付けば口を開いていた。
「お前は、お前だけは、“私”を優先してはいけなかった」
「アス?」
「私もまた覚えてはいない、それでも“私”ならまず間違いなく、その約束を告げた筈だ」
「・・・・・・」
違えられ、意味を失った約束。
破棄をされる事すらもなく、ただ果たされなかったと言う事実だけが、失われた記憶の底に横たわっている。
「“勇者”は聖女を伴い、災禍と相対する。それは選ばれし者としての意義。その過程で、人を救うのは良い。それが教会の示した在り方なのだから。でも、だからこそ、あの時、あの瞬間に“私”を選んではいけなかった」
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