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【第二晶 ~選びし者と選ばれし者~】
47 舞う
しおりを挟む「何処かに向かおうとしていた訳でもないが、こうも、あからさまに制限をかけられると叛きたくもなるか」
敢えて、アスはそう声に出す。
それは、視聞きしているであろう相手への一応のお伺いだった。
駄目なら早く言っておけとの念押しであり、それから、言うだけは言ったと、アス自身の思う義理は果たしたのだからと、おもむろに進行方向を傍らの流れへと向けた。
人の往来用に整えられた道筋を九十度に外れ、密やかな流れを描く水面へと対峙すると、霧の漂う湖にも川縁にも見えるその情景へとアスは躊躇いなく一歩を踏み出していた。
ちゃぷん、と五歩目にはブーツの底が未だ浅い水底へと沈む。
長旅に耐えられる丈夫な素材を用いられ、悪路でも問題がない様に、ちゃんとした加工の施されたブーツはその役目をしっかり果たし、中へと水が染み入って来る事はない。
それでも、想定される激しい雨までもは大丈夫だったとしても、ブーツはブーツであり、本当の水辺での作業には向かず、いずれ限界が来てしまうのは確かだろうと思われた。
少し考える様に、アスは一瞬だけ動きを止めて、だが直ぐに水の中から引き抜く足を水面へと乗せ直した。
ーリンッー
鈴に似た響きが、不思議な反響を以てアスの耳朶にではなく、脳髄へと直接音の波紋を広げる。
足を下ろした場所から波紋が広がり、広がり行く波紋が水面を密やかに細波立たせる。
ーリン、リン、リンー
硬い靴底が、厚い氷の面を削るかの様に音は高く澄んでいて、アスはその奏でる音の分だけ、水面へと静かな波紋を描き突き進んで行く。
ーリン、リン・・・ー
ー・・・トゥインー
音の響きの僅かな変化にアスは一度足を止める。
ぶつかり合って音を奏でるのではなく、弦を爪弾いて音を響かせる、そんな音色の揺れが霧けぶる冷たい空気へと沁み入り広がって行く。
いつの間にか鳥の囀りも、水のせせらぐ音も聞こえなくなっていた。
濃く薄く、流れ、立ち込める霧と、足下の水面へと描かれる波紋。いつの間にかアスの佇む場所から岸辺は何処にも見えなくなっている。
すぅっと息を深く吸って吐く。
アスは袖を通さずに羽織っていた小袖の袷を右手で纏めて持つと、三歩ステップを踏む様に駆けて、そして、跳んだ。
少し大きめの波紋を描いて降り立ち、今度はスキップするように二度三度と跳ねて、重ねて波紋を描く足場を起点に捻りをかけ、更に駆ける。
重くはないが、それでもそれなりの重さがある羽織を羽衣であるかのように柔らかく靡かせ、動きの緩急で鋭く翻す。
波紋を描く足運びは舞う様な動きを彩り、奏でられる響きが舞を導く。
いつの間にか、淡く微笑んでいたアスは、まるで一人遊びに耽る幼児であるかの様に無邪気でありながら、霧と睦み合う様に愛おしげな眼差しを何処かへと向け続けていた。
トゥイン、ティン、トゥンと、音は連なり、奏でられ、どれだけの時をそうしていたのか、その終わりは唐突だった。
不意に止まるアスの足。気が済んだとか、ただ疲れただけと言う訳ではないのは、何処か困った様なアス表情からも確かだろうと思われた。
跳び、水面へと下ろした右足が作る波紋の広がりに、キンッと音は奏でられ、けれど、その響きの変調にアスは気付いたのだった。
「間違えた、な」
あー、と、何とも言い難いと言った表情にアスは呟き苦笑する。
アスの脳裏には、ずっとこの青の集落にいると気付いた時に幻視した、水上で舞う乙女の姿があった。
それはかつて、この集落へと訪れた時に見た聖女であるガウリィルの舞う姿だった。
優美であり可憐さを残しながらも優雅に舞う、その姿を今の自身へと重ねて、アスは動いていたのだ。
ただの真似事でしかなく、けれど、ある意味の必然と言うべきか、アスは間違えた。
今は祭祀の最中ではなく、アスは巫女でもなければ聖女でもない。
それでも、やはり、駄目なものは駄目らしい。
霧がうねっていた。大気すらも渦巻くような流れはそれでも緩やかで、重く、這うように水面を流れ行く。
そうして、その霧の影にしてはあまりにも暗く、佇むアスの足下を黒い影が動いていた。
緩やか過ぎる動きに、始めはそれとは分からず、その一点だけの場面を見れば、水自体が暗く色付いたかの様に見えたかもしれない。けれど、少し上空からの俯瞰視点を得る事があったなら誰もが気付いた筈だった。
気付き、その存在を見ても認識出来たかどうかはまた別で、アスの足下、その水面の底を行く、あまりにも大きな生き物の存在に、もしかしたらその存在への理解を拒んだかもしれない。
それ程の相手の有り様に、アスは身動き一つ取る事なく、ただ佇み続けていた。
「おいで、・・・・・・」
唇の動きだけでアスは何事かを呟き、音にしなかった部分をそれでも聞き取ったかの様に、その存在は水底に在る状態から動きを見せた。
水面が盛り上がる。
水下から来た大き過ぎる質量に、アスの眼前にはちょっとした小山と滝が出現し、そうして、水流を割る様にして青銀の牙を持つ強大な口が口腔を晒した。
「寝惚けるにしても、私なんぞを食べたら後悔どころじゃ済まないぞ?」
呟き淡く笑むアスは、水面を蹴り、背後へと跳ぶ。
そうしても、見る事の出来ない相手の全容にその余りの大きさを思わずにはいられなくなる。
「無駄に肥大化している感じか?・・・ふやけた?」
首を傾げ、直後、衝撃があった。
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