88 / 214
【第二晶 ~選びし者と選ばれし者~】
30 アス改め
しおりを挟むカイの左前足の付け根付近から胸にかけて、そこにはアスによってつけられた裂傷が口を開けていた。筈だった。
同じ時にアスが負った傷に気を取られ、今の今までルキフェルは気付いていなかったのだが、カイに生じた傷、そこからは一滴の血も流れてはいなかったのだ。
傷が血も出ない程度の浅さと言う訳ではない。ある筈の毛皮の防御をものともせず、ぱっくりと開いた傷口は、ルキフェルの片手の手の平を大きく開いた時の親指から小指の先までの距離よりも広く、それなりの深手である事を窺わせる。
けれど、胸と言う位置的にも本来ならばそれなりの出血を伴っていたであろうその患部が、今、夥しい量の血液の代わりに、ぬらりと暗く艶めいているのをルキフェルが見ていた。
血か溜まっている訳でも、変色した内臓が見えている訳でもなく、けれど、何処かそんな色合いを想起させる、そんな生理的な気分の悪さを感じさせる何かがそこにあるようだった。
「眷属の蛇、それも幼体だな・・・ホント、どれだけ余裕をかましたらこんなのにイイようにされるんだかな、なあ月代の?」
口もとに刻む不敵な笑みとは異なり、鼻を鳴らし細める双眸にカイを見る様は面白くなさげだった。
「は、・・・お前、自身の命を危険に晒して、主の命令よりも優先させて、なお失うワケだ」
一転して、それは哀れむような響きを帯びた声音のもとに発せられた。
けれど、カイを見据えるその赤い瞳は何処までも冷たく厳しく、凍てついた峻厳さがあり、そして、アスであり、アスでは有り得ない“誰か”は、嗤った。
残像すら見えるか見えないか、静から動へその一瞬にも満たない刹那の挙動に、カイの胸から僅かばかりの赤黒い鮮血の飛沫が散り、そして、アスの姿をした“誰か”は、そのしなやかな指を持つ少女の手には似つかわしくないものを手にしていた。
「・・・うん?」
怪訝そうに傾げる首と瞬かせる赤い双眸。
けれど、びちっびちっと掴まれた状態で蠢くそれに、その場にいる者の視線が集まっていた。
その生き物を例えるなら蛇と言うよりも蛭だろうか。赤黒い表皮はぬらぬらとした光を纏い、一見して目も口もないが故にどちらが頭かも分からない細長くも、はち切れんばかりに太っていると分かる胴体。
キーキーと、何処から発せられているものなのか、甲高く耳障りな鳴き声とおぼしきものが、のたうつ動きに合わせて聞こえていた。
その嫌がる様な鳴き声の原因は、二十センチ程のぬらつく胴体の中程を鷲掴みにする手だろう。
掴まれた場所からシューシューと白煙を上げ、びちびちと激しく蠢く様は死に物狂いで拘束から逃れんとしているかのようだったのだ。
「表皮から分泌される粘液に、痛みの感覚を鈍らせるとか、幻惑するだとか、魔力を高めさせる為の興奮作用とか、まあ色々あるワケだ」
「上手く使えば良い薬が作れそうですね」
白煙と一緒に生じ始めた臭気に顔を顰めながら、フェイはニーズヘッグの幼体と言う生き物を繁々と眺め、そう発言した。
「ん?飼育するにはむかないが、欲しいならやるぞ?」
「いえ、私の手にはあまりそうなので、いりません」
「可愛くも格好良くもないしな、コイツ」
何の溜め息なのか、眺め見る赤い瞳から興味なさげに呟く様子。そして、ニーズヘッグの幼体の全身が一瞬にして炎に包まれた。
見張る目にやや仰け反るフェイは、悪戯が成功したかのように可笑げに弧を描いた口もとを見る。
「煉狗の魔女」
そんな笑みへとフェイが告げると、手の中に残った僅かばかりの塵か灰のようなものを払う仕種のままの、虚を突かれたように瞬く赤い双眸と目が合った。
「違うようですね、ですと、緋燕?朱架?それとも、蓮戯か赤鵞になりますか?」
「ああ、何だ、いやどれも違う。たぶんイイ線はいっているんだろうが、あとアタシからは名乗れない」
「応えることは出来る、そういった制約ですか」
フェイは会話から情報を的確に拾い集めているようだった。
くくっと喉を鳴らし、フェイを見る愉しげな笑みから、けれど、その感情を窺い見る事が難しいのは、それがアスの顔をしているからだろう。
「アキって呼ばれてるな、今は。ココがアタシのギリギリで、ついでに、コイツもそろそろマズイ感じだな」
アスではなくアキだと名乗ると、アキは見据える赤い眸に虚ろな双方で佇むカイを見ていた。
カイの胸にあった裂傷は、今、そこにいたニーズヘッグの幼体が引き摺り出されたが為に、ぽっかりと暗い空洞を晒し、そこから流れ出た僅かばかりの血が周囲の毛並みを赤く染め始めている。
「アキ、ですか」
「そ、でだな、なんでコイツこんなちんまくなってる?」
「小さく?」
「今はアス?か、上手く距離感が取れなくて、無駄な怪我をさせた」
忸怩たると言った表情は、カイの身を案じていると言うよりも、自分の技術で予想外の傷を負わせたと言う事に向いているようだった。
そう言えばとフェイが思い出すのは、カイの身体から、ニーズヘッグの幼体を素手で引き摺り出したアキが浮かべていた怪訝そうな表情だ。
素手でと言う衝撃に忘れかけていたが、あの時の反応の理由にフェイは小さくなっていると言ったアキの言葉から答えを察した。
「アスティエラだ」
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説

冤罪をかけられた上に婚約破棄されたので、こんな国出て行ってやります
真理亜
恋愛
「そうですか。では出て行きます」
婚約者である王太子のイーサンから謝罪を要求され、従わないなら国外追放だと脅された公爵令嬢のアイリスは、平然とこう言い放った。
そもそもが冤罪を着せられた上、婚約破棄までされた相手に敬意を表す必要など無いし、そんな王太子が治める国に未練などなかったからだ。
脅しが空振りに終わったイーサンは狼狽えるが、最早後の祭りだった。なんと娘可愛さに公爵自身もまた爵位を返上して国を出ると言い出したのだ。
王国のTOPに位置する公爵家が無くなるなどあってはならないことだ。イーサンは慌てて引き止めるがもう遅かった。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

魅了が解けた貴男から私へ
砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。
彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。
そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。
しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。
男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。
元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。
しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。
三話完結です。


婚約破棄?一体何のお話ですか?
リヴァルナ
ファンタジー
なんだかざまぁ(?)系が書きたかったので書いてみました。
エルバルド学園卒業記念パーティー。
それも終わりに近付いた頃、ある事件が起こる…
※エブリスタさんでも投稿しています

隠された第四皇女
山田ランチ
ファンタジー
ギルベアト帝国。
帝国では忌み嫌われる魔女達が集う娼館で働くウィノラは、魔女の中でも稀有な癒やしの力を持っていた。ある時、皇宮から内密に呼び出しがかかり、赴いた先に居たのは三度目の出産で今にも命尽きそうな第二側妃のリナだった。しかし癒やしの力を使って助けたリナからは何故か拒絶されてしまう。逃げるように皇宮を出る途中、ライナーという貴族男性に助けてもらう。それから3年後、とある命令を受けてウィノラは再び皇宮に赴く事になる。
皇帝の命令で魔女を捕らえる動きが活発になっていく中、エミル王国との戦争が勃発。そしてウィノラが娼館に隠された秘密が明らかとなっていく。
ヒュー娼館の人々
ウィノラ(娼館で育った第四皇女)
アデリータ(女将、ウィノラの育ての親)
マイノ(アデリータの弟で護衛長)
ディアンヌ、ロラ(娼婦)
デルマ、イリーゼ(高級娼婦)
皇宮の人々
ライナー・フックス(公爵家嫡男)
バラード・クラウゼ(伯爵、ライナーの友人、デルマの恋人)
ルシャード・ツーファール(ギルベアト皇帝)
ガリオン・ツーファール(第一皇子、アイテル軍団の第一師団団長)
リーヴィス・ツーファール(第三皇子、騎士団所属)
オーティス・ツーファール(第四皇子、幻の皇女の弟)
エデル・ツーファール(第五皇子、幻の皇女の弟)
セリア・エミル(第二皇女、現エミル王国王妃)
ローデリカ・ツーファール(第三皇女、ガリオンの妹、死亡)
幻の皇女(第四皇女、死産?)
アナイス・ツーファール(第五皇女、ライナーの婚約者候補)
ロタリオ(ライナーの従者)
ウィリアム(伯爵家三男、アイテル軍団の第一師団副団長)
レナード・ハーン(子爵令息)
リナ(第二側妃、幻の皇女の母。魔女)
ローザ(リナの侍女、魔女)
※フェッチ
力ある魔女の力が具現化したもの。その形は様々で魔女の性格や能力によって変化する。生き物のように視えていても力が形を成したもの。魔女が死亡、もしくは能力を失った時点で消滅する。
ある程度の力がある者達にしかフェッチは視えず、それ以外では気配や感覚でのみ感じる者もいる。
記憶喪失になった嫌われ悪女は心を入れ替える事にした
結城芙由奈@コミカライズ発売中
ファンタジー
池で溺れて死にかけた私は意識を取り戻した時、全ての記憶を失っていた。それと同時に自分が周囲の人々から陰で悪女と呼ばれ、嫌われている事を知る。どうせ記憶喪失になったなら今から心を入れ替えて生きていこう。そして私はさらに衝撃の事実を知る事になる―。

とある元令嬢の選択
こうじ
ファンタジー
アメリアは1年前まで公爵令嬢であり王太子の婚約者だった。しかし、ある日を境に一変した。今の彼女は小さな村で暮らすただの平民だ。そして、それは彼女が自ら下した選択であり結果だった。彼女は言う『今が1番幸せ』だ、と。何故貴族としての幸せよりも平民としての暮らしを決断したのか。そこには彼女しかわからない悩みがあった……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる