月白色の叙情詩~銀礫の魔女が綴るもの~

羽月明香

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【第二晶 ~選びし者と選ばれし者~】

10 涙への対処

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 それはある意味不思議な、けれど息を飲む光景だった。
 アスの左目から流れ、頬を伝った雫。けれど、右目が映すのは、虚無とも見紛う程の、無感動なうろの如き空虚さだったからだ。
 感情を映さないのは同じなのに、左目から静かに溢された雫は、受ける光をただ反し、硬質的な瞳を神秘的な光で彩っている。

「・・・・・・」
「・・・アス」

 アスを見詰めるルキフェルとフェイ。
 アスはルキフェルの姿をその瞳に映していて、けれど、見ているようで見てはいない、そんな目をしていた。
 それは、ルキフェルを通して他の誰かを見て、その思いを向けている目であり、だからこそ、そんな瞳を向けられたルキフェルは口を開く事が出来なくなっていたのだ。
 だから、そう呼ぶ名前に声をかけたのはフェイだった。
 呼ばれ、はっとしたように瞬かせた双眸に、アスの睫毛が雫を散らし、繊細な光を弾く。
 動き出したかのように感じた空気の流れに、ルキフェルとフェイがそれとなく安堵の吐息を吐こうとした時、それは起きた。

 表情を欠けさせたまま小首を傾げるアスの仕種。
 そうして、僅かに持ち上げた左手にフェイもルキフェルも光る何かを見ていた。
 怜悧で無機質な刹那の閃き。アスが左手に持ったそれを、躊躇いなく振り下ろす先にはアス自身の右手の掌があった。

 パシッと乾いた音が室内に響いた。
 アスのあまりにも自然な動きに、そして理解出来ない行動に、咄嗟に動く事が出来たフェイは、動揺をおくびにも出さなかったが、それでも何も感じていない訳ではないのだろう。

 振り下ろす、その動きを止めるようにフェイによって握られたアスの左手の手首。
 ルキフェルが息を呑む気配。ようやくルキフェルもをはっきりと認識したらしかった。
 発する言葉もなく、細めたフェイの双眸が見据えるアスの手には長さが十五センチ程の細身のナイフが握られていたのだ。

 読めない感情に、それでも普段浮かべている笑みすらも消したフェイの表情こそが、その内心を如実に表しているようにアスは感じていた。
 現状はアスが自分自身の右手にナイフを突き刺そうとしていたようにしか見えず、事実その通りだったのだから。
 
「・・・何を、しようとしたのですか?」

 一部始終の見ていたままを正確に捉えていただろうに、それでもフェイはその問いを発した。

「煩わしいから」

 だから一言、アスはそう答えた。

「貴方にとって“それ”はそんなに認めがたいものでしたか?」

 一瞥するナイフへとフェイは問い、戻す視線の先へとアスの眼差しを捉えていた。
 見られたアスの感情を映す事のない瞳。見返すフェイの双方へとアスはそんな自身の眼差しを見付けていた。
 何も言わないアスへと向けて、フェイは更に言葉を重ねて来る。

「それとも、貴方の捨て去りたいものが、それだったのですか?」

 表情なく問いを重ねられ、僅かに傾げる首に、そしてアスは苦笑へと表情を崩した。

「フェイに怒られるような行動だったんだな、これは、・・・すまない」

 答えを探すように間を空け、フェイからの反応は得られなかったが、それでもとアスの告げた謝罪にフェイは目を眇める。そんなフェイの様子をアスは困ったように見返していた。
 腕を掴んでいるフェイの手には、最初に行動を止めた時のような力は既に入っておらず、振り払う等しなくても、促せば放してくれるだろうとは思った。けれど、アスはされるがままに、ただフェイの反応を待っていた。
 そうして、長くも短くもないような時間をしばらくそのままで過ごし、不意にフェイは掴んでいたアスの腕を解放した。そして、アスが瞬きをしたその次の瞬間には、フェイの姿はもといた場所、テーブルを挟んだアスの向かいの席へと移動してしまっていた。

「・・・捨て去りたいと思えるなら、差し出された白い雛芥子パパヴェアを拒んだりはしなかったな」

 淡く笑み、アスはフェイへとそう告げる。
 そうして、同時にひらひらと振って見せる両手には既にナイフは持たれてはいなかった。

 ここに来る前に、アスがカイにより差し出された白い雛芥子パパヴェアの花。あれを受け入れて、忘れる事に縋っていれば、確かに今のような醜態を晒してしまうような事はなかったのだろうとアスは思った。

「認め難いってのは少しあるかもしれないが、やっぱり違っていて、だから、さっきのは本当に煩わしい、邪魔だなって思ったから。考えないといけない事が多いのに、感情が妨げる。追いやろうとしたんだ」
「痛みによる特定の思考の鈍化と鋭敏化。あるいはもっと単純に、引き摺られかけた感情へと強制的にストップをかけた感じでしょうかね」

 先程までの、抑え込まれたかのような感情の余韻すらも感じさせる事なく、フェイは通常モードとも言える柔らかな表情でお茶を啜っていた。
 本当に何時淹れて来たのか、フェイの手には白い湯気を燻らせるお茶のカップがあったのだ。

「それが近いか、悪かったな未熟で。だから、やっぱりすまなかった」

 そんなフェイの様子に目を瞬かせ、新たな苦笑へと変えながらも、アスはもう一度謝罪の言葉を伝えて目を伏せた。

「はあ、それで、そこで空気になっている貴方」
「あ、はい」

 唐突に顔を向けられ、声をかけられたルキフェルが弾かれたようにフェイへと反応を返していた。
 空気になっているとはあまりな言い種かとも思われたが、実際に、今の今までルキフェルは存在を薄れさせ、意識されずにいたのだ。
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