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1 見えるのは私だけ?

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「これは政略結婚だ。おまえを愛することはない」

 初めて会った婚約者は、膝の上に赤髪の女を座らせていた。

 彼の名はジョージ・クローダン。黒髪に青い目をした30歳の男爵だ。氷の剣という二つ名を持つ。3年前の戦争で活躍し、爵位と領地を与えられた。昨年、その領地から、貴重な魔石が採掘され、大金持ちになった強運の持ち主だ。

 男の膝に座った女が、首をかしげて、赤い目で私をにらみつける。その手は男の背にしっかりとまわされている。

 ――彼は私のモノよ。

 真っ赤な唇が音を出さずに言葉を作る。そしてきゅっと口角をあげた。

 すさまじい笑顔に、思わず息をのんでしまった。
 男爵は不機嫌そうに私に青い目を向けた。

「なんだ、不満なのか? 伯爵からも了承は得ている。社交界に出せない娘だから、どんな扱いをしてもかまわないとな」

「……いいえ」

 そっと女から目を背けて、紅茶に手を伸ばす。小さなテーブルには、白い陶器のティーカップが置かれている。私と彼の前に二つだけだ。赤髪の女の前にはない。

 持ち手に触れた瞬間、女の腕が伸びてきた。私の手をはたくようにティーカップが倒される。

 真っ白なテーブルクロスに琥珀色の液体がこぼれた。

「はぁ。紅茶の飲み方も知らないのか」

 冷たい青い瞳があきれたように私に向けられる。

 顔をしかめる男の膝の上で、赤髪の女がにたにた笑っている。

「うそつき令嬢」

 笑いながら女は、私を不名誉なあだ名で呼んだ。

 倒れたティーカップを片付けようと持ち上げると、また、女が私の手をはたいた。

 ガチャン

 カップが宙を舞い、床に落ちる。

 痛い。

 立ち上がった赤髪の女が、私の腕をぎゅっとつかんでいた。

 女の手を振りほどこうと体を動かす。大きなため息が聞こえた。

「はぁ、何をしているんだ。礼儀がなってないとは聞いていたが、ここまでとは」

 私の横で、赤髪の女はお腹を抱えて大笑いしている。

「なんだ? どこを見ている。まさか、ここに幽霊がいるなんて言うつもりはないだろうな」

「……いいえ」

「勘弁してくれ。うちに嫁いでくるのなら、騒ぎは起こさずに、おとなしくしていろ」

 メイドが割れたカップを片付ける。赤髪の女のすぐ前を通ったけれど、彼女を気にすることはない。

 男爵も赤髪の女の存在を完全に無視している。

 どういうこと?
 彼女は、「私にしか見えない」ってことでいいの?

「もういい、今日は帰ってくれ。書類はこちらで提出しておく」

 私は立ち上がって礼をした。

「婚姻を楽しみにしています」

 小さな声でつぶやく。赤髪の女は男に抱き付いてキスをしている。

 ……ふっ。

 部屋を出た瞬間に、我慢していた笑いが息の形でもれた。

 いい、いいわ! とっても、いい。

 婚約者の顔が整っていたことは、嬉しい驚きだった。
 短い黒髪に真っ青な瞳。精悍な男らしさのある顔立ち。
 全て理想通り。
 それに、……彼の真実の愛の相手が見えるのは、私だけってことでしょう?

 ああ! なんて好条件なの!

 執事の後をついて、玄関まで軽い足取りで歩く私を、男爵家のメイドたちがささやき声で見送ってくれる。

「あれが旦那様の?」

「でもアンナ様が……」

「伯爵令嬢なんでしょう?」

「噂では、王妃様の怒りを買って、社交界に出入り禁止だって」

「うそつき令嬢ね」

 聞こえて来た無礼な噂話に、後ろを歩く騎士が剣に手をかけた。

「リオン。気にしないで。ただの噂話よ」

「……」

 護衛騎士のリオンは、黙ってメイドたちをにらみつけた。彼の青い瞳は、私の婚約者になった男とよく似ている。

「そんなに怒らないで。私が嫁いで来たら、メイドは全部入れ替えましょう。今だけよ。ね、もう帰りましょう?」

 見上げて微笑むと、彼は仕方ないなというようにふわりと笑った。氷のような青い瞳は私を見る時だけ、春の海のように優しく光る。

 婚約者の瞳も、こんな風に優しくなったりするかしら?

 不機嫌な顔をした男爵のことをぼんやりと考えながら、執事が用意した馬車に一人で乗り込む。

 この慇懃無礼で人のことを見下している執事も、入れ替えが必要ね。と、心の中でメモしながら。
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