三十路の魔法使い

高柳神羅

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第79話 渡りに船

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 この世界で馬車を利用している人間には、大まかに分類して二種類いる。
 ひとつは貴族や王族といった金持ち。もうひとつは商売で成功してそこそこ資産を持っている商人だ。
 昔は旅人向けに街と街の間を繋ぐ乗合馬車というものが存在していたらしいが、魔帝が世界中に虚無《ホロウ》を放つようになってから襲撃を食らって馬車を破壊される事件が頻発したため、現在では乗合馬車を出す者がいなくなってしまったという。そりゃ御者だって命は惜しいもんな、無理もないことだと思う。
 そんな感じで馬車は世間的にはそれほど珍しいものでもないそうだが、普通の旅人にとってはまず乗ることのない憧れの乗り物なのだそうだ。
 おそらくこれも、たまたまルノラッシュシティに来ていた貴族か商人の所有物なのだろうが……
 そんなものが、何で俺たちの前に?
 俺が眉間に皺を寄せて馬車を観察していると、御者台に座っていた御者が降りて来た。
 茶色の髪に、似合わない顎鬚。傷の入った頬。
 見覚えのある男だった。
「よう、色々と災難だったな。兄さんたち」
「……ガク?」
 予想もしていなかった再会に、俺は思わず目を瞬かせた。
「何で、あんたが此処に」
「コロシアム、おれも観戦してたんだよ。おれの恩人がどのくらいできる奴なのかって思ってな、ちょっと賭けさせてもらったりして。……惜しかったな、後ちょっとだったのに負けちまって。お陰で五百ルノが水の泡さ……って、そんなことはどうでもいいか」
 へへっと笑って腕を組み、俺の全身を品定めするように見つめる。
「負け分をどうしたもんかって考えてたら、闘技場があの有様だろ。その中で騒ぎに紛れて逃げてく兄さんたちを見かけたから、後を追わせてもらったのさ。運が良かったな、騒ぎのお陰で牢が壊れて」
 ということは……こいつは、俺が奴隷落ちして闘技場の地下牢に入れられていたことを知っているということか。
 それを知っていてなお近付いてきたということは、こいつの目的は……俺の捕縛か?
 一度奴隷になって奴隷商に商品として扱われると、その人間が奴隷であるという証となる印が体に刻印されるらしい。そうなってしまうとその人間は一生奴隷として扱われるようになり、例え奴隷商や自分を買った主人の元から逃げ出したとしても普通の人間として暮らすことが許されなくなるのだそうだ。
 因みに印とやらは焼き鏝で肌に直接付けられるらしいが……やめておこう。こんな生々しい話は。
 人間の国では、主人の死亡などの理由で主のいない奴隷を捕らえた者はその奴隷を自分の所有物にして良いことになっているらしい。要は取得物と同じ扱いなのだ。
 俺は奴隷の刻印をされたわけではないが、一部の人間は俺が奴隷であることを知っている。それを理由に俺を捕まえようとする奴が現れても何ら不思議ではない。
 あいつがそのつもりで俺に近付いてきたのなら、俺は逃げなければならない。そのために手を上げることになったとしても。
 俺は、此処で捕まるわけにはいかないのだ。
 俺が警戒心を露わにして後ずさると、何が可笑しいのか、ガクは苦笑した。
「安心しな。そんな警戒しなくたって、おれは別に兄さんを捕まえに来たわけじゃないから」
 自分の背後に停めてある馬車、そちらを顎で指し示しながら、言う。
「とりあえず、馬車に乗りな。此処にいると余計なのが来るんじゃないかって気が気じゃないだろ? この街から離れるから」
「……?」
 俺たちを、助けてくれるのか? 何でまた。
 そんなことをしても、一文の得にもならないだろうに。
 思わず顔を見合わせる俺たち。その様子を見て、ガクは理由を述べたのだった。
「兄さんたちはおれの恩人だからな。奴隷にされるところを黙って見ていたくなんかないし、できることなら助けてやりたいって思ってるんだよ。おれは商人だから戦うことはできないが、せめて自由になる手助けをしてやるくらいはな」
 そんな恩義に思われるようなことをしたつもりはないんだけどな。あれだってそもそもは、アヴネラの魔法にうっかり巻き込んでしまった事故のようなものだし。
 さ、と馬車に乗ることを促すガク。
「人に見られる前に、早いところ乗ってくれ。乗り心地はあまり良くないかもしれないが、そこはまぁ我慢してくれ」
 押し込められるように馬車に乗せられる。
 中は、列車のように向かい合わせの形で座席が二つ設けられていた。木製なので固いが、それを少しでも和らげるためのものなのか厚手の布が敷かれている。ああ、この世界にはクッションみたいなものはないのか。作って売ったら儲かりそうな気がしてきた。俺は裁縫なんてボタン付けるくらいしかできないが。
 とりあえず前の席に俺とリュウガが、後方の席にフォルテとアヴネラが座った。ヴァイスは物珍しそうに馬車の様子を見回した後、ぽんと俺の膝の上に飛び乗った。
 御者台に乗ったガクが、振り向きながら問うてくる。
「さて……何処まで行こうか。せっかくだから行きたい場所まで運んで行ってやるよ」
 行きたい場所か……
 俺たちの目的地はエルフの国だが、そこまでの距離がどの程度あるかは分からない。下手をしたら長時間の移動になるかもしれないものを頼むのは流石に気が引ける。
 でも、言うだけは言ってみよう。旅をする商人ってことは地理は俺たちなんかよりもよほど詳しいだろうし、仮にそこまで乗せて行ってもらえなかったとしても、道の情報を教えてくれるかもしれないからな。
「……ひょっとしたらかなり遠いかもしれないから、無理にとは言わないんだが」
「いいよ、何処だい」
「俺たちはエルフの国に向かってる途中なんだ。途中まででも構わないから、そっち方面に向かってほしい」
「エルフ領? こりゃまた意外な地名が出てきたもんだな。となると、アバンディラ方面か……ふむ、成程」
 ガクはしばし考え込んだ後、言った。
「領境手前にアバンディラってそこそこ大きな街があるんだが、おれの住んでる場所もその近くなんだ。どうせ仕事が終わったら一度家に帰るつもりだったし、丁度良かったな。分かった、アバンディラまででいいなら送って行ってやるよ」
「本当か?」
「ああ、お安い御用だ」
 ほら、と御者台から白い包みのようなものが手渡される。
 包みを開くと、黒パンに薄切り肉を挟んだサンドイッチのようなものが出てきた。
「腹減ってるんだろ? 簡単な食事しかないけど、とりあえずそれ食べながらゆっくりしててくれ」
「何から何まですまないな」
「いいって。困った時はお互い様ってやつだ。……それじゃ、出発するぞ」
 手綱が振るわれ、ゆっくりと馬車が走り始める。
 地面が平坦なお陰か、思っていたよりも揺れは少なかった。これなら酔うこともなさそうだ。
「いい人ね。わざわざ送ってくれるなんて」
「そうだな」
 フォルテの言葉に頷きながら、俺は黒パンを皆に配った。
 早速齧る。と、小麦の香りと燻製肉の素朴な風味を感じた。ちょっと苦味にも似た独特の味もするが、多分スパイスか何かで味付けをしているのだろう。空腹だったのでいつもよりも美味く感じられた。
 しかし、小さなパン一個で腹が満足するはずもない。
 多分一日で目的地まで行けるはずがないから、休憩のために何処かで馬車を停めるはず。その時に、ちゃんとした夕飯を作ってやろう。
 それまで、少し休ませてもらうか。
 今日は色々あったから……ちょっと、疲れた。
 微妙に眠気を感じていた俺は、皆に馬車が停まったら起こしてくれと頼んで目を閉じた。
 意識が眠りへと落ちるまでに、大した時間は要さなかった。
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