37 / 49
おれより先に、
2
しおりを挟む
ようやく迎えた約束の日、恭生も朝陽もそれぞれに仕事と大学の講義があった。
朝食のテーブルの上には、バターを塗ったトーストとたまごやき。一般的には洋と和のバランスがおかしくても、これが定番の朝食になっている。朝陽が焼いた甘いたまごやきに、恭生は朝から幸福を噛みしめるのだ。
「なあ朝陽、今日の夕飯だけどさ。待ち合わせして外で食わない?」
「んー、俺は家がいいけど」
「でもさ、それだと多分……夕飯どころじゃなくなる気がする」
恭生の潜めた声に、トーストを齧っていた朝陽の動きが止まる。
この一週間がどれほど長くて、今日をどんな気持ちで待ちわびたか。自分のことも相手のことも、お互い手に取るように分かっている。見透かされていることまで、知っている。
この部屋にまっすぐ帰って来たら、なにもかも放り出して体を重ねたくなるに決まっている。
「大学終わったら恭兄のほうに行く」
「うん。あ、気をつけて来いよ。もう無茶すんのはなしな」
「はは、うん。分かってる」
恭生が働くヘアサロンの、最寄り駅で待ち合わせ。そう決めたら、そこから会話は続かなくなった。朝食を一緒に食べられる時は、いつも話したいことがたくさんで、遅刻しかけて慌てることもしばしばなのに。
あと数時間も経てば、念願の時間がやってくる。その瞬間を焦がれるなんて、はしたないだとかいやらしいだとか。気恥ずかしさで本音を閉じこめるのはやめた。恋人に触れたい、触れられたい。こみ上げてくる感覚は過去を振り返っても初めてのことで、初恋のようにみずみずしい。
自分の気持ちまで大事にしたくなる恋を、朝陽としている。
「じゃあ、いってきます」
「うん」
「あ……朝陽、今日はだめ」
「え、なんで」
先に家を出る恭生を、朝陽が玄関まで見送りにくる。いつもならキスをするところだが、手のひらで朝陽の口元を覆い拒む。むくれて突き出されたのが、手のひらに当たるくちびるのかたちで分かる。
「キスしたらその、反応する自信あるから」
「……俺、今の聞いて反応しそうだけどどうしたらいい?」
「はは、あとちょっと我慢な?」
じゃあなと指同士を絡め、ぎゅっと握ってから外へ出る。壁にもたれかかった朝陽が、恨めしそうにじとりとした目を向けてくる。
でもその奥に、はっきりと熱い灯がともっている。それが爆ぜたら、一体どうなってしまうだろう。今夜知るのだと思うと背が震え、吐いた息が体にまとわりつく。
「朝陽!」
「恭兄。お疲れ様」
「ん、朝陽もお疲れ様」
仕事終わりに駅へと直行したら、朝陽の姿をすぐに見つけることができた。あの事故以来の、この場所での待ち合わせだ。無事に会えたことに奇跡みたいに感動する。
さっそく、夕飯はどうするかを話し合う。だがお互い、なにを食べるかなんて今日は心底どうでもよかった。ここから一番近いのは、チェーンのファミリーレストランだ。じゃあそこにしようと歩き始めた時。
兎野、と呼ぶ声が聞こえ、朝陽と一緒に振り向いた。
「わ、橋本じゃん」
「はは、また会ったな」
「あー、はは、だな」
まさか朝陽と一緒の時に、しかもこんな日に出くわすなんて。朝陽の顔を盗み見るといかにも不機嫌そうで、どうやら橋本だと認識しているようだ。じっとりとした視線が向けられていることに、橋本もすぐに気づく。
「あれ。もしかして、兎野の幼なじみの……」
「……どうも」
気まずい空気に、恭生はついたじろぐ。睨みつけるような朝陽を受けて、橋本も応戦するように目を眇めていて。
恭生は思わず、朝陽を背に守るようにしてふたりの間に割って入った。その直前にとった朝陽の手に、こっそり指を絡める。
「えっと、橋本は仕事終わり?」
「え? ……ああ、うん。営業先がこの近くで、直帰するところだった」
「そっか。オレたちはこれから、ごはん食いに行くとこ」
「へえ。はは、ほんと仲良いんだな」
「うん、そうだな」
「俺、幼なじみっていないから。ちょっと羨ましいわ」
それじゃあ、と言う橋本に、恭生は手を振る。歩き出した橋本は、けれどすぐにまたこちらを振り返った。
「朝陽くん」
「……はい」
「約束、守れなかった。ごめん」
「……あんたにお願いしたことなら、俺が叶えるんで大丈夫です」
「え……?」
ふたりの会話に、恭生は繋いだままの手に思わず力をこめた。
ふたりが顔を合わせるのは、今日で三回目のはずだ。
一回目は、キスを見られてしまった時。二回目は橋本が以前言っていた、キスをしてすぐの頃に、道でばったり会ったという日。
恭兄を大事にしないと許さない、絶対に悲しませないで――朝陽が言ったらしいその言葉を、橋本は約束だと言っているのだろう。
中学生の朝陽と、今の朝陽。橋本に向かって放たれた言葉が混ざり合う。それだけで橋本だって察しただろう、自分たちの関係を。見開かれた瞳に映される。
けれど恭生の意識は全て、背後に立っている朝陽にしか向かない。
「あー、マジか。そういうことかあ」
「っす」
「もしかして、朝陽くんは兎野のこと、あの時から?」
「はい」
「そっか……朝陽くんかっこいいな。昔も今も。兎野が惚れるのも納得」
してやられたといった顔、だがどこか清々しくも見える。
「兎野」
「ん?」
「また切ってもらいに行くから、その時はよろしくな。もちろん今度は指名で」
「ああ、うん」
「じゃあな」
今度こそ去っていく橋本をぼんやりと眺める。すると繋いだままだった朝陽の手が、駅のほうへと恭生を引っ張る。
「え、朝陽、ファミレスは?」
「ごめん、今すぐ帰りたい」
「へ……」
「もう一秒も待てない」
「朝陽……」
帰宅ラッシュの時間だ。駅は大勢の人で溢れていて、その間を朝陽とふたり縫うように進む。混んでいる電車の中で身を寄せ合う。
朝陽はひと言も喋らず、少しくちびるを噛んでいる。橋本と会ったことで、嫌な思いをさせてしまったのは明白だった。
朝食のテーブルの上には、バターを塗ったトーストとたまごやき。一般的には洋と和のバランスがおかしくても、これが定番の朝食になっている。朝陽が焼いた甘いたまごやきに、恭生は朝から幸福を噛みしめるのだ。
「なあ朝陽、今日の夕飯だけどさ。待ち合わせして外で食わない?」
「んー、俺は家がいいけど」
「でもさ、それだと多分……夕飯どころじゃなくなる気がする」
恭生の潜めた声に、トーストを齧っていた朝陽の動きが止まる。
この一週間がどれほど長くて、今日をどんな気持ちで待ちわびたか。自分のことも相手のことも、お互い手に取るように分かっている。見透かされていることまで、知っている。
この部屋にまっすぐ帰って来たら、なにもかも放り出して体を重ねたくなるに決まっている。
「大学終わったら恭兄のほうに行く」
「うん。あ、気をつけて来いよ。もう無茶すんのはなしな」
「はは、うん。分かってる」
恭生が働くヘアサロンの、最寄り駅で待ち合わせ。そう決めたら、そこから会話は続かなくなった。朝食を一緒に食べられる時は、いつも話したいことがたくさんで、遅刻しかけて慌てることもしばしばなのに。
あと数時間も経てば、念願の時間がやってくる。その瞬間を焦がれるなんて、はしたないだとかいやらしいだとか。気恥ずかしさで本音を閉じこめるのはやめた。恋人に触れたい、触れられたい。こみ上げてくる感覚は過去を振り返っても初めてのことで、初恋のようにみずみずしい。
自分の気持ちまで大事にしたくなる恋を、朝陽としている。
「じゃあ、いってきます」
「うん」
「あ……朝陽、今日はだめ」
「え、なんで」
先に家を出る恭生を、朝陽が玄関まで見送りにくる。いつもならキスをするところだが、手のひらで朝陽の口元を覆い拒む。むくれて突き出されたのが、手のひらに当たるくちびるのかたちで分かる。
「キスしたらその、反応する自信あるから」
「……俺、今の聞いて反応しそうだけどどうしたらいい?」
「はは、あとちょっと我慢な?」
じゃあなと指同士を絡め、ぎゅっと握ってから外へ出る。壁にもたれかかった朝陽が、恨めしそうにじとりとした目を向けてくる。
でもその奥に、はっきりと熱い灯がともっている。それが爆ぜたら、一体どうなってしまうだろう。今夜知るのだと思うと背が震え、吐いた息が体にまとわりつく。
「朝陽!」
「恭兄。お疲れ様」
「ん、朝陽もお疲れ様」
仕事終わりに駅へと直行したら、朝陽の姿をすぐに見つけることができた。あの事故以来の、この場所での待ち合わせだ。無事に会えたことに奇跡みたいに感動する。
さっそく、夕飯はどうするかを話し合う。だがお互い、なにを食べるかなんて今日は心底どうでもよかった。ここから一番近いのは、チェーンのファミリーレストランだ。じゃあそこにしようと歩き始めた時。
兎野、と呼ぶ声が聞こえ、朝陽と一緒に振り向いた。
「わ、橋本じゃん」
「はは、また会ったな」
「あー、はは、だな」
まさか朝陽と一緒の時に、しかもこんな日に出くわすなんて。朝陽の顔を盗み見るといかにも不機嫌そうで、どうやら橋本だと認識しているようだ。じっとりとした視線が向けられていることに、橋本もすぐに気づく。
「あれ。もしかして、兎野の幼なじみの……」
「……どうも」
気まずい空気に、恭生はついたじろぐ。睨みつけるような朝陽を受けて、橋本も応戦するように目を眇めていて。
恭生は思わず、朝陽を背に守るようにしてふたりの間に割って入った。その直前にとった朝陽の手に、こっそり指を絡める。
「えっと、橋本は仕事終わり?」
「え? ……ああ、うん。営業先がこの近くで、直帰するところだった」
「そっか。オレたちはこれから、ごはん食いに行くとこ」
「へえ。はは、ほんと仲良いんだな」
「うん、そうだな」
「俺、幼なじみっていないから。ちょっと羨ましいわ」
それじゃあ、と言う橋本に、恭生は手を振る。歩き出した橋本は、けれどすぐにまたこちらを振り返った。
「朝陽くん」
「……はい」
「約束、守れなかった。ごめん」
「……あんたにお願いしたことなら、俺が叶えるんで大丈夫です」
「え……?」
ふたりの会話に、恭生は繋いだままの手に思わず力をこめた。
ふたりが顔を合わせるのは、今日で三回目のはずだ。
一回目は、キスを見られてしまった時。二回目は橋本が以前言っていた、キスをしてすぐの頃に、道でばったり会ったという日。
恭兄を大事にしないと許さない、絶対に悲しませないで――朝陽が言ったらしいその言葉を、橋本は約束だと言っているのだろう。
中学生の朝陽と、今の朝陽。橋本に向かって放たれた言葉が混ざり合う。それだけで橋本だって察しただろう、自分たちの関係を。見開かれた瞳に映される。
けれど恭生の意識は全て、背後に立っている朝陽にしか向かない。
「あー、マジか。そういうことかあ」
「っす」
「もしかして、朝陽くんは兎野のこと、あの時から?」
「はい」
「そっか……朝陽くんかっこいいな。昔も今も。兎野が惚れるのも納得」
してやられたといった顔、だがどこか清々しくも見える。
「兎野」
「ん?」
「また切ってもらいに行くから、その時はよろしくな。もちろん今度は指名で」
「ああ、うん」
「じゃあな」
今度こそ去っていく橋本をぼんやりと眺める。すると繋いだままだった朝陽の手が、駅のほうへと恭生を引っ張る。
「え、朝陽、ファミレスは?」
「ごめん、今すぐ帰りたい」
「へ……」
「もう一秒も待てない」
「朝陽……」
帰宅ラッシュの時間だ。駅は大勢の人で溢れていて、その間を朝陽とふたり縫うように進む。混んでいる電車の中で身を寄せ合う。
朝陽はひと言も喋らず、少しくちびるを噛んでいる。橋本と会ったことで、嫌な思いをさせてしまったのは明白だった。
10
お気に入りに追加
27
あなたにおすすめの小説
Take On Me
マン太
BL
親父の借金を返済するため、ヤクザの若頭、岳(たける)の元でハウスキーパーとして働く事になった大和(やまと)。
初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。
岳とも次第に打ち解ける様になり…。
軽いノリのお話しを目指しています。
※BLに分類していますが軽めです。
※他サイトへも掲載しています。

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。
十七歳の心模様
須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない…
ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん
柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、
葵は初めての恋に溺れていた。
付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。
告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、
その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。
※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。
あなたの隣で初めての恋を知る
ななもりあや
BL
5歳のときバス事故で両親を失った四季。足に大怪我を負い車椅子での生活を余儀なくされる。しらさぎが丘養護施設で育ち、高校卒業後、施設を出て一人暮らしをはじめる。
その日暮らしの苦しい生活でも決して明るさを失わない四季。
そんなある日、突然の雷雨に身の危険を感じ、雨宿りするためにあるマンションの駐車場に避難する四季。そこで、運命の出会いをすることに。
一回りも年上の彼に一目惚れされ溺愛される四季。
初めての恋に戸惑いつつも四季は、やがて彼を愛するようになる。
表紙絵は絵師のkaworineさんに描いていただきました。
学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語
紅林
BL
『桜田門学院高等学校』
日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ
しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ
そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である
思い出して欲しい二人
春色悠
BL
喫茶店でアルバイトをしている鷹木翠(たかぎ みどり)。ある日、喫茶店に初恋の人、白河朱鳥(しらかわ あすか)が女性を伴って入ってきた。しかも朱鳥は翠の事を覚えていない様で、幼い頃の約束をずっと覚えていた翠はショックを受ける。
そして恋心を忘れようと努力するが、昔と変わったのに変わっていない朱鳥に寧ろ、どんどん惚れてしまう。
一方朱鳥は、バッチリと翠の事を覚えていた。まさか取引先との昼食を食べに行った先で、再会すると思わず、緩む頬を引き締めて翠にかっこいい所を見せようと頑張ったが、翠は朱鳥の事を覚えていない様。それでも全く愛が冷めず、今度は本当に結婚するために翠を落としにかかる。
そんな二人の、もだもだ、じれったい、さっさとくっつけ!と、言いたくなるようなラブロマンス。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる