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愛の言葉
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「……恭兄」
恭生に気づいた朝陽が、目を見開いた。ベッドの脇に崩れ落ちるように膝をつき、朝陽の手を取る。両手で握り、額に当てる。
ああ、生きている。朝陽が生きている。
「朝陽、よかった、朝陽……」
「恭兄……心配かけてごめん」
「いい、謝らなくていい。それより、どこか痛むか?」
朝陽に不安を悟られまいと、震える口角を無理やりに上げ、気丈なふりをして尋ねる。
「ううん。ちょっと腕擦りむいたけど、全然平気」
「どれ? 見せて」
「ここ」
「痛そうじゃん」
「ちょっとだし」
「ちょっとの擦り傷だって、ヒリヒリして痛いだろ」
「まあ、確かに」
「うん。無理すんのはナシな」
会話ができる。今朝まで当たり前だったことに、一秒ごとに心が打たれる。
朝陽がちゃんと、生きている。
ひとまずの安堵につく息が、ひどく震える。
恐怖はまだ少しも去ってくれないが、大事なことを聞かなければならない。問いかけるのについ躊躇ってしまうが、引き伸ばした分だけ悪い結果を導きそうで恐ろしい。
「朝陽……それで、検査の結果は?」
「それはまだ……」
朝陽の視線がふと背後へ移った。恭生もそちらを振り返る。そこには医師と看護師の姿があった。朝陽のベッドへとまっすぐ歩み寄ってくる。
恭生は立ち上がり、頭を下げた。
「ご家族の方ですか?」
「いえ。オレは……朝陽と一緒に暮らしている者です」
看護師に答えると、手元の紙を見ていた医師が顔を上げた。繋いだままの朝陽の手を握り直す。
怖いけれど、一秒一秒に気が遠くなりそうだけれど。いちばん不安なのは朝陽だろう。なによりも朝陽の心を守りたかった。
「脳震盪を起こしたようですね。頭に目立った外傷はありませんし、検査の結果も特に異常はありませんでした。大丈夫ですよ」
「は、あ、よかったー……」
大きく息を吸った後、それを吐くのと同時に安堵の言葉が口をついた。力が抜け、へなへなとしゃがみこむ。朝陽も強張っていた肩がゆるんだのが分かる。
手を伸ばし頬をそっと撫でると、潤んだ瞳がそっと弧を描いた。病室の入り口に立っている森下も、顔を覆って泣いているのが見える。
「ご心配なら一日入院もできますが、どうなさいますか」
看護師の提案に、ふたり同時に返事をする。だが、内容は全く真逆のものだった。
お願いします、と強く頷いた恭生と、帰りますと気丈な朝陽。思わず顔を見合わせたが、こればかりは引くことはできない。
「だめだ朝陽。入院させてもらえ」
「異常はないんだから平気だよ」
「だめ」
「やだ」
「朝陽……頼む。心配だから。な?」
「恭兄が、そこまで言うなら……ん、分かった」
朝陽の入院の意思を確認して、医師と看護師は病室を出ていった。
すれ違い際、医師たちに頭を深く下げた森下が、おずおずと恭生たちの元へとやって来る。いつの間にかその右手には、ちいさな男の子の手が握られていた。
「あの……」
「……ママ?」
言葉に詰まる森下を、男の子が不思議そうに見上げている。首を傾げた顔が、少しずつ不安に染まっていく。大好きな母親がなぜ辛そうにしているのか分からなくても、その気持ちが乗り移ったように悲しいのだろう。
「なあ、名前なんて言うんだ?」
恭生は男の子と目線を合わせる。大きな瞳がちいさく揺れ、繋いでいる母の手にもう片手を添えた。それでも、恭生に答えようとする健気さが伝わってくる。
「……ゆうや」
「ゆうやくんか。オレは恭生といいます。ゆうやくん、いくつ?」
「よんさい」
「四歳か。お兄さんはねー、二十四歳」
「よん? ゆうやとおなじだ」
「え? はは、そうだな」
つい笑うと、ゆうやと名乗った子もふわりと笑ってくれた。
息子の安堵が伝わったのだろう。森下はそっと息を吐いた後、朝陽に向かって深く頭を下げた。朝陽が上半身を起こそうとするので、恭生は背中を支えるように手を貸す。
「柴田さん。この度は本当に、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」
「いえ。あの、頭上げてください」
「…………」
「ゆうやくんは怪我してないですか?」
「はい。念のため診て頂いたのですが、擦り傷ひとつありませんでした」
「よかったです」
「っ、柴田さんのおかげです。柴田さんも、大事に至らなくて本当に、本当によかったです」
「ママぁ? どうしたの? いたい?」
我が子の無事を喜ぶだけではいられない、その気持ちがひしひしと伝わってくる。泣きだしてしまった母親を見て、ゆうやの顔がくしゃりと歪む。
「ゆうやくん、ママにぎゅってしてあげて」
恭生がゆうやに耳打ちすると、ぎゅう、と口に出しながらゆうやは母の足にしがみついた。
ひとしきりゆうやを抱きしめ返した森下は、入院などの費用は全て出すと朝陽に伝えた。朝陽は申し訳なさそうにしたが、受け取ってあげたほうが森下さんのためにもなる、と恭生が助言すると、森下も強く頷いた。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「はい。明日の朝、またここに伺いますので」
時計を確認すると、もう十九時も半を過ぎる頃になっていた。自分からは言いだしづらいかもしれないと、恭生は口を開く。
「森下さん、あとは大丈夫ですから。ゆうやくんもお腹空いてるだろうし」
「あ……はい。そうですね。ではすみません、私たちはそろそろ帰りますね」
病室の出入り口まで、ふたりについて行く。もう一度お辞儀をする森下に恭生も会釈をし、ゆうやに手を振る。
「救急車の手配とか、本当にありがとうございました」
「いえ、そんな……お礼を言われるようなことはなにも」
「連絡頂けたのも本当に助かりました」
「こちらこそ、ご連絡がついてよかったです」
「あれ、そう言えば……なんでオレに連絡できたんですか?」
朝陽のスマートフォンにはロックがかかっている。履歴からかけようにも、顔認証かパスワードを入力しなければそれもできないのではないか。
「それは……柴田さんの持ち物を一旦預かったのですが。どなたかに連絡しなければと、スマホを拝見して。緊急連絡先に登録されていた番号にかけたら、兎野さんに繋がりました」
「ああ、あのロック画面から見られるやつ……」
朝陽が自分を緊急連絡先に登録しているなんて、ちっとも知らなかった。朝陽のほうを見ると、はにかんだ顔を逸らされる。
恭生に気づいた朝陽が、目を見開いた。ベッドの脇に崩れ落ちるように膝をつき、朝陽の手を取る。両手で握り、額に当てる。
ああ、生きている。朝陽が生きている。
「朝陽、よかった、朝陽……」
「恭兄……心配かけてごめん」
「いい、謝らなくていい。それより、どこか痛むか?」
朝陽に不安を悟られまいと、震える口角を無理やりに上げ、気丈なふりをして尋ねる。
「ううん。ちょっと腕擦りむいたけど、全然平気」
「どれ? 見せて」
「ここ」
「痛そうじゃん」
「ちょっとだし」
「ちょっとの擦り傷だって、ヒリヒリして痛いだろ」
「まあ、確かに」
「うん。無理すんのはナシな」
会話ができる。今朝まで当たり前だったことに、一秒ごとに心が打たれる。
朝陽がちゃんと、生きている。
ひとまずの安堵につく息が、ひどく震える。
恐怖はまだ少しも去ってくれないが、大事なことを聞かなければならない。問いかけるのについ躊躇ってしまうが、引き伸ばした分だけ悪い結果を導きそうで恐ろしい。
「朝陽……それで、検査の結果は?」
「それはまだ……」
朝陽の視線がふと背後へ移った。恭生もそちらを振り返る。そこには医師と看護師の姿があった。朝陽のベッドへとまっすぐ歩み寄ってくる。
恭生は立ち上がり、頭を下げた。
「ご家族の方ですか?」
「いえ。オレは……朝陽と一緒に暮らしている者です」
看護師に答えると、手元の紙を見ていた医師が顔を上げた。繋いだままの朝陽の手を握り直す。
怖いけれど、一秒一秒に気が遠くなりそうだけれど。いちばん不安なのは朝陽だろう。なによりも朝陽の心を守りたかった。
「脳震盪を起こしたようですね。頭に目立った外傷はありませんし、検査の結果も特に異常はありませんでした。大丈夫ですよ」
「は、あ、よかったー……」
大きく息を吸った後、それを吐くのと同時に安堵の言葉が口をついた。力が抜け、へなへなとしゃがみこむ。朝陽も強張っていた肩がゆるんだのが分かる。
手を伸ばし頬をそっと撫でると、潤んだ瞳がそっと弧を描いた。病室の入り口に立っている森下も、顔を覆って泣いているのが見える。
「ご心配なら一日入院もできますが、どうなさいますか」
看護師の提案に、ふたり同時に返事をする。だが、内容は全く真逆のものだった。
お願いします、と強く頷いた恭生と、帰りますと気丈な朝陽。思わず顔を見合わせたが、こればかりは引くことはできない。
「だめだ朝陽。入院させてもらえ」
「異常はないんだから平気だよ」
「だめ」
「やだ」
「朝陽……頼む。心配だから。な?」
「恭兄が、そこまで言うなら……ん、分かった」
朝陽の入院の意思を確認して、医師と看護師は病室を出ていった。
すれ違い際、医師たちに頭を深く下げた森下が、おずおずと恭生たちの元へとやって来る。いつの間にかその右手には、ちいさな男の子の手が握られていた。
「あの……」
「……ママ?」
言葉に詰まる森下を、男の子が不思議そうに見上げている。首を傾げた顔が、少しずつ不安に染まっていく。大好きな母親がなぜ辛そうにしているのか分からなくても、その気持ちが乗り移ったように悲しいのだろう。
「なあ、名前なんて言うんだ?」
恭生は男の子と目線を合わせる。大きな瞳がちいさく揺れ、繋いでいる母の手にもう片手を添えた。それでも、恭生に答えようとする健気さが伝わってくる。
「……ゆうや」
「ゆうやくんか。オレは恭生といいます。ゆうやくん、いくつ?」
「よんさい」
「四歳か。お兄さんはねー、二十四歳」
「よん? ゆうやとおなじだ」
「え? はは、そうだな」
つい笑うと、ゆうやと名乗った子もふわりと笑ってくれた。
息子の安堵が伝わったのだろう。森下はそっと息を吐いた後、朝陽に向かって深く頭を下げた。朝陽が上半身を起こそうとするので、恭生は背中を支えるように手を貸す。
「柴田さん。この度は本当に、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」
「いえ。あの、頭上げてください」
「…………」
「ゆうやくんは怪我してないですか?」
「はい。念のため診て頂いたのですが、擦り傷ひとつありませんでした」
「よかったです」
「っ、柴田さんのおかげです。柴田さんも、大事に至らなくて本当に、本当によかったです」
「ママぁ? どうしたの? いたい?」
我が子の無事を喜ぶだけではいられない、その気持ちがひしひしと伝わってくる。泣きだしてしまった母親を見て、ゆうやの顔がくしゃりと歪む。
「ゆうやくん、ママにぎゅってしてあげて」
恭生がゆうやに耳打ちすると、ぎゅう、と口に出しながらゆうやは母の足にしがみついた。
ひとしきりゆうやを抱きしめ返した森下は、入院などの費用は全て出すと朝陽に伝えた。朝陽は申し訳なさそうにしたが、受け取ってあげたほうが森下さんのためにもなる、と恭生が助言すると、森下も強く頷いた。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「はい。明日の朝、またここに伺いますので」
時計を確認すると、もう十九時も半を過ぎる頃になっていた。自分からは言いだしづらいかもしれないと、恭生は口を開く。
「森下さん、あとは大丈夫ですから。ゆうやくんもお腹空いてるだろうし」
「あ……はい。そうですね。ではすみません、私たちはそろそろ帰りますね」
病室の出入り口まで、ふたりについて行く。もう一度お辞儀をする森下に恭生も会釈をし、ゆうやに手を振る。
「救急車の手配とか、本当にありがとうございました」
「いえ、そんな……お礼を言われるようなことはなにも」
「連絡頂けたのも本当に助かりました」
「こちらこそ、ご連絡がついてよかったです」
「あれ、そう言えば……なんでオレに連絡できたんですか?」
朝陽のスマートフォンにはロックがかかっている。履歴からかけようにも、顔認証かパスワードを入力しなければそれもできないのではないか。
「それは……柴田さんの持ち物を一旦預かったのですが。どなたかに連絡しなければと、スマホを拝見して。緊急連絡先に登録されていた番号にかけたら、兎野さんに繋がりました」
「ああ、あのロック画面から見られるやつ……」
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