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一章
君に夢中
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待ち合わせは十一時、場所は大きなショッピングモールのある駅前の広場。多くの人で賑わっているのは、さすが土曜日といったところか。電車が停まる寸前で《着いたよ》とのメッセージを受け取った尊は、改札を出てすぐに駆けつけたかったのだが。人波に阻まれ思うように進めず、ひとつ舌を打つ。
「花村ー」
「あ。ちー」
けれど数メートル先から千歳の声が届いた。お互い高身長で助かった。他者より少し見晴らしのいい頭上で手を振り合い、かき分けるように進む。
「待った?」
「ううん、時間ぴったりだし全然」
昨日ぶりに顔を合わせる千歳を、尊はついまじまじと見つめてしまう。靴の先から頭へと視線を巡らせていると、どこか居心地が悪そうに千歳は頬を掻く。
「花村? あんま見られると恥ずかしいんだけど」
「あー、ごめん。ちーって私服そんな感じなのな」
「え。え! もしかしてダサい!?」
「は……?」
学校での千歳は制服を着崩しすぎることもなく、近頃はセーターを着用していることが多い。陽キャのグループの中でもきちんとしたイメージだ。今日はと言えば、ワイドのパンツにオーバーサイズのニット。ゆるめのシルエットは新鮮に映る。
「ダサくねぇよ。すげーいい。なんか可愛いな」
「可愛い!? ……かっこいいって言われたかった」
「かっこいいかっこいい」
「気持ち入れて!?」
「ふはっ、ちーかっこいい~」
「もー。花村はめっ……ちゃかっこいいよ」
「すげーためるじゃん。ありがと」
対して尊は千歳と似たようなパンツに、トップスはビッグシルエットのスウェット。学校では控えめにしているピアスも複数つけている。日頃のちょっと悪っぽいイメージがより強く現れたコーディネート、といったところか。
「ピアスって痛い?」
「開ける時にちょっとな。ちーは開いてないんだっけ」
「うん。でも花村の見てたらしてみたくなったかも」
「マジか。じゃあそん時は責任取って俺がやる」
「はは、責任」
「そう。……ん? ちー、それ見せて」
アクセサリーは好きだ。自分をきっかけに興味を持ってもらえるのが素直に嬉しく、もう一度千歳の格好に目を向けると。その手に飾られている指輪が目を引いた。千歳の左手を取り、人差し指に鈍く光るゴツゴツとしたデザインのそれをなぞる。
「このブランド俺も好きなやつ。ピアスも何個かそうだし、ほら」
「ほん、とだ」
「これもいいなってすげー悩んだんだよな」
そう言いながら、右手の人差し指にある指輪をひらひらと振って見せる。多少値は張るが、バイトに数回入れば高校生でも手が届く。千歳もそうして購入したのだろうか。意外な共通点に緩んだ顔を上げると、何故か千歳と視線が交わらない。
「ちー?」
「あー……」
「どした?」
「いや、手、握ってるから……」
「手? あー……照れてんの?」
「そりゃそうでしょ……」
赤い顔を誤魔化すように、千歳は人ごみの方へと目を向ける。
千歳の豊かな感情に出逢う度、その頬にキスをしてきたな。
また疼き始めた欲に、さすがにここではまずいと目を瞑って。自身の中に芽生えているものに静かに対峙する。こんこんと溢れる“何か”は、心臓の底に甘酸っぱい。
「あー、っと。映画行くか」
「ん、そうだね」
名残惜しさにもう一度指輪を撫で、ゆっくりと手を離して歩きだす。会話をしながら、と思うと身を寄せなければ声が届かない。それをラッキーだと思ってしまう。先ほどは恨んだ人の多さが、今だけは味方をしているみたいだ。
「ちーはクラスのヤツとかと遊んだりすんの?」
「うん、たまに」
「ふーん……」
「あは、花村変な顔。花村は? よく遊んでんの?」
「まあな。ケンスケとナベとたまに」
「ふーん……」
「え、それ俺の真似? すげージト目すんじゃん」
「はは、分かった? まあオレは本心だけど」
「もしかして押されてる?」
「うん、押してます」
途切れない会話がモールまでの足取りを軽くする。映画館に行く時はいつも前夜から待ちきれないほどなのに、そっちのけで話していたいと思うのは尊にとって初めてのことだった。
尊が選んだ映画は、公開前から話題だったハリウッド作のミステリー映画だ。チケットを二枚発券し、千歳に一枚渡して、代金を受け取って。ドリンクをそれぞれに買って指定席に腰を下ろすと、尊はつい笑みを零してしまう。
「花村?」
「んー? いや、ミステリー好きでよかったと思って」
「…………? よく分かんないけど、オレは花村がミステリー好きって知れてよかった」
「そうなん?」
「うん。収穫」
「ふは、収穫」
上映開始前の隣同士の席で、ちいさく潜めた声で交わす会話。千歳と過ごす時間の全てが、あの日千歳がメモを置かなければ有り得なかったものだ。くり返されるそれに痺れを切らしたところで、ミステリー映画のワンシーンが過ぎらなければ、ゲームの誘いに乗らなかったかもしれない。一秒先すら未来は読めなくて、一秒後に後悔したってもう元には戻らない。千歳の勇気と自分の好奇心が交差してある今を、名探偵がここにいたらなんと名付けるのだろうか。
館内の注意事項と予告が始まり、徐々に照明が落ちてゆく。明かりがスクリーンだけになる、その直前に尊は千歳に耳打ちをした。
「ちー、今日はありがとな」
二時間半ほどの上映を終え、シアターから出た途端、尊と千歳は顔を見合わせた。興奮した千歳の様子に、自分のことのように嬉しくなる。
「めっちゃ面白かった!」
「な。期待以上だったわ。ちー、途中泣いてたろ」
「あはは、バレてた?」
「うん。俺もあそこはぐっと来た」
「だよね! 面白いところはすげー笑ったし。映画っていいな」
「な」
「あ、オレちょっとトイレ行ってくる」
「分かった。そこで待ってる」
トイレは混んでいて、外まで列が伸びている。少し時間がかかるだろうと、尊は近くの壁に凭れかかった。たまに振り返る千歳に手を振り、シネコン内の雰囲気も味わいつつ、どうしてもつい先ほどの千歳の表情を反芻してしまう。
千歳は昨日『花村の好きなものが観たい』と言った。甘い喜びを感じながらも、楽しんでくれるだろうかと気がかりはあった。趣味なんて人それぞれ千差万別で、同じじゃないからと落胆なんかするものじゃない。それでも共に過ごすのだから、気に入ってくれるほうがよりいい。その淡い不安はどうやら杞憂だったようだ。同じものを観て、泣いて笑って、感動して。感情ごと共有できたことが嬉しい。
千歳は何が好きだろう。それこそまた同じとはならなくたって、知りたいとそう思う。千歳が戻って来たら聞いてみよう。まだまだ時間はあるのだし、遅くなった昼食を食べながらそんな話をするのもいい。
スマートフォンを操作しながら計画を立てていると、尊の視界にふと華奢な靴が二足過ぎった。顔を上げれば、同じ年頃の女がふたり。眉を顰めるが、誰だか分からないのは尊だけのようだ。
「あのー、花村くんだよね」
「誰?」
「あ、私たち同じ高校で隣のクラスなんだけどさ」
中学の頃のように好きだなんだと言われることは、誰とも付き合わないと噂でも立っているのか高校ではなくなった。だが、遠巻きに視線を感じることは尊にとって今も日常だ。珍しく接触してきたか。そうげんなりしたのも束の間――何やらもじもじとしていた女は最初に声をかけてきた方に肘で小突かれ、勇気を振り絞ったように顔を上げた。
「あの、三上くんと一緒、だよね? さっき見かけて」
「…………」
なるほど、と尊は瞬時に理解する。この女は千歳に気があるらしい。自分に向けられる好意以上に、それは尊の心を重たくした。今日の千歳は俺のものなのに、と。
「えっと……よかったら四人で遊ばないかな、と思って。どう、かな」
「はぁ……」
そんなの、答えはノー以外にない。尊の吐く大きなため息にふたりはびくりと肩を跳ねたが、それでも引き下がる気はないようだ。
もしも千歳が戻って来たら、同じような誘いを真正面から受けたら。きっと、いや絶対。千歳は「そうしよう」と笑うに違いない。顔の広い千歳のことだから隣のクラスの人間とも面識があるだろうし、それなら尚のことだ。
一秒でも早く退散してもらうしかない、もしくは一旦ここから去って撒いてしまおうか。凭れかけていた背を上げ、けれど一歩遅かったようで千歳が戻ってきてしまった。
「花村~」と遠くから呼びかけてくれる声は、出来ればこの耳に大事に染みこませたかった。
「あ……あれ?」
「三上くん! こんにちは、偶然だね」
「あ、うん、ほんと偶然だね! え、っと。遊びに来てるの?」
「うん、私たちふたりでブラブラしてて。この後四人でどうかなって、花村くんにお願いしてたところなんだ」
「そう、なんだ」
四人で遊ぶくらいなら帰ってしまいたい。だが、このふたりだけが知る千歳の時間が今日生まれるのは悔しい。きっと酷い顔をしている。様子を窺ってくる千歳から顔を背け、尊はまた深いため息をつく。千歳が「じゃあそうしよう」と頷く、そんな見たくもない瞬間をただただ待つしかなかった。
だが尊の予想は大きく外れることになる。いよいよ女たちに背を向けた尊の腕を、千歳が掴んだ。
「ちー? どうし……」
「お、オレたち! 今日はふたりで遊んでるから! ごめん!」
「え……でも四人で遊んだらもっと楽しいかもしれないし……ね?」
「……うん、でも、ごめん。じゃあ、また学校で! 花村、行こ」
「あ、ちょっと! 三上くん!」
食い下がる女たちの声がまるで聞こえていないかのように、千歳は走り出す。尊も腕を引かれるがままに千歳の後ろに続く。ごったがえすショッピングモールを、人波を縫うように走り抜ける。途中、千歳が振り返って笑った。尊の存在を確かめるようにして細く弧を描いた瞳が、パチパチとまぶしい。途切れてしまう息は走っているからか、それとも千歳の紅潮した頬が見えたからか。尊は判断がつかない。
「はあっ、ここまで来れば大丈夫かな」
モールから外へと出て、裏手に向かった。人通りのほぼない生垣の影へ千歳がしゃがみこむ。腕ではなくいつの間にか繋がれていた手を引かれ、尊も隣へと並んだ。
「ちーお前……ああいうの断ったりすんの、苦手じゃねえの」
「あー……バレてた?」
「うん」
「なんか中学くらいからどんどん苦手になっちゃって。はは、初めて断ったかも。すっげー緊張した」
「……よかったのかよ」
「うん。今日は絶対、花村と一緒にいたかったから。花村がいてくれたから出来た」
「…………」
昨日の呼び方の件もそうだが、様々な好意を千歳は無下にできない。それを知るのに、ゲームの期間は十分だった。言えばいいのにと勝手に歯痒く思って、時に苛立って。それでも千歳を形成する一部だと納得していたけれど。
そんな千歳が誘いを断った。ふたりでいたかったからと。それが出来たのは花村がいてくれたからだと、打破した自身を清々しそうに笑っている。
胸が詰まるような、少し気を緩めれば泣いてしまいそうな。覚えのない感覚が尊の体を駆け巡る。
繋いだままの手をするりと撫でられ、まだ整わない呼吸に肩を上下させながら。この感情をなんと呼ぶのか、観念するかのように尊は思い知る。先走っていた鼓動に、やっと心が追いついた。
「ちー」
「んー?」
「なあ、次はいつ告ってくれんの?」
「は……? っ、え!? は、花村なに言っ……」
「俺もう返事していい?」
「え、なんで……」
「なあ、ちー……頼む」
「い、嫌だ。まだ聞きたくない……」
そうと分かれば、早く言ってしまいたくなった。あの日お預けにされた返事は、その場で答えていたらきっと違うものだっただろう。でも今は赤く熟している。
――なのに。千歳はそれを拒んだ。不特定多数の好意は全部受け止めるのに。花村が好きだ、と言ったのに。返事をさせてくれない千歳は、その横顔を曇らせる。
「なんで? 俺、分かりやすいと思うけど。だめ?」
「…………」
身勝手に好きだと言うことも出来るが、先にアクションを起こしてくれた千歳の気持ちを大事にしたい。尊は千歳が再び告白してくれるのを待つしかできないのだ。それなのに。
今にも顔を伏せてしまいそうな千歳からは、先へと進めてくれる気配は感じられない。まさか、振られると思っているのだろうか。この期に及んで。
もどかしくてくちびるに歯を立てる。待ってやりたい――千歳から求められたい。
だが、その気にさせておいて、宙ぶらりんに放置されて。良い子でいてやる気もさらさらなかった。
「ふーん。あっそ。分かった」
「……ごめん」
「分かったけど。もうちょっとこのままな」
「……え?」
手を離すと寂しそうな目を上げた千歳に、ぐっと顔を近づける。意識を全部奪ってやろうと、酷くゆっくりと再び指を絡ませた。
「っ、花村……」
「いや?」
「……嫌じゃない。嫌じゃない、けど……」
「ちー、こっち向いて」
「へ……あっ」
指を緩めて、閉じこめるようにまたきゅっと力を入れて。それをくり返しながら、尊はもう何度目かの頬へのキスをする。少し風に冷えていて、けれど体の内側からすぐに千歳の熱がやってくる。震えるまつげの先で瞳が潤んで、しがみつくように握り返される手。恋人だと錯覚するような触れ合いに、尊は夢中になった。
恋をするとこんな気持ちになるのか。今までの人生全てが嘘だったみたいに、この瞬間だけが喜びのようで、それでいて喪失感がすぐに追いかけてくる。切なくて、だからやめられなくて。今度は千歳のくちびるギリギリのところへ、齧りつくようにキスをする。
「は、あ……っ、花村」
「っ、ちー……」
このままくちびるにもキスしてしまいたい。口の中まで暴いて、千歳の心を引きずり出してしまいたい。今すぐ欲しいと言ってくれ。
暴力的なまでの欲求を、けれど尊はどうにか振り切った。名残惜しさにもう一度、頬にキスをする。落ち着け落ち着け、と深呼吸をひとつして、千歳の前髪にもぐるように額を擦りつけた。
千歳が好きだ。だがここまでしても何も言わない千歳は、この先へ踏み出す気はやはりないのだろう。腹が立って、悔しくて――でもそれと同じくらい、そんな千歳ごと大事にしたいと思った。
気持ちを切り替えるようにハッと大きく息を吐き、空を見上げる。そうだ、大事にしたい。だけどわがままを言うなら、恋人にはまだなれなくても、もっとちゃんと千歳の特別だと感じたい。
今はまだ立ち上がる気力もなく、どうしたものかとふうと息をついた時。握り直した手の中で、何かがコツンとぶつかった。
そうだ、これだ。
「ちーがまだ言いたくないのは分かった」
「……ごめん」
「いや、いい。でも一個、お願いがある」
「お願い?」
繋いでいる手を持ち上げて、ふたりの間でゆらゆらと揺らしてみせる。そこに光るのは、たまたま同じブランドだった、デザインの違うそれぞれの指輪だ。
「俺がしてる指輪、ちー的にはどう?」
「え? う、うん、好きだよ。さっきは言いそびれたけど、オレも実はそれと悩んでた」
「マジ? じゃあさ……交換しねえ?」
「っ、え?」
一瞬でも離れるのが寂しいけれど手を解いて、尊は指輪を外した。それを手のひらに転がし、「ん」と千歳の目の前に差し出す。
「指輪交換」
「指輪交換……」
「いつか返すんでいいからさ、ちーのもの持っときたくなったっつうか。そんな感じ。だめ?」
「っ、だめじゃない。え、めっちゃ嬉しい……けど、いいの?」
「俺がしたいっつってんの。もう決まりな。ほら、ちーも外せ」
「う、うん」
まだ目を丸くしながらも、千歳も自身の指輪を外した。どうぞと渡されそうになるのを受け取らず、左手を差し出す。
「ちーがつけて」
「え!?」
「俺は右につけんのが好きだけど、ちーのだからちーの真似して左がいい。ん」
「えー、っと……」
「あ……もしかして結婚式みたいだーとか思ってんだろ」
「っ、思っ! ちゃうに決まってんじゃん~!」
「はは、かーわいい。なあ、早く」
「うう……分かった」
赤い顔をこんなに近くで見ることが出来た。それだけでもう今日は充分な気さえしながら、尊は指輪が嵌められるのを待った。恭しく添えられた片手が本当に結婚式みたいで、それをくすぐったく感じつつその瞬間を迎える。慣れない左手への指輪は存在感も大きく、千歳のものだとより感じられる。それがすごくいい。しばらく眺めてから、今度は千歳の手を取る。
「ちーはどっちにする?」
「……オレも花村の真似する」
「じゃあ右手出して」
差し出された右手を取り、人差し指の節をひと撫でする。ぴくんと指先が跳ねるのを見たら、またキスをしたくなった。それをどうにか押しこめながら、先ほどまで自分の手にあった指輪をゆっくりと千歳の指に通す。
「サイズも一緒みたいだな」
「うん。……うわー、花村の指輪だ」
ふたり横に並んで、それぞれに手を空へと翳す。太陽を弾いた光が交差して、尊と千歳に射している。
「なんかこれ、ドキドキするわ」
「うん、オレも……」
ぎゅっと握って、また翳して。手を顔に近づけたと思ったら、遠くに伸ばしてまた指輪を眺める。そんな千歳がまぶしくて、胸がきゅうと音を立てる。
想いはまだ結べそうにない。けれど今日という日にたくさんの千歳の顔が見られた。好きなものを共有して、たくさん触れて。今はきっとこれでいい。
そう思えるのは、確かなものをひとつ見つけられたからだ。今日が終わっても、この気持ちは続いていく。恋なんて知らなかったのに、千歳への恋心がはっきりと尊の中に存在している。だからゆっくりでいい、千歳のペースを待ってやりたい。もはや降参と言えるのかもしれない。
「あーあ」
「…………? 花村?」
「いや、今日すげー最高と思って」
「ほんと? オレも!」
「な」
好きだと気づいた時にはもう、千歳に夢中になっていた。
「花村ー」
「あ。ちー」
けれど数メートル先から千歳の声が届いた。お互い高身長で助かった。他者より少し見晴らしのいい頭上で手を振り合い、かき分けるように進む。
「待った?」
「ううん、時間ぴったりだし全然」
昨日ぶりに顔を合わせる千歳を、尊はついまじまじと見つめてしまう。靴の先から頭へと視線を巡らせていると、どこか居心地が悪そうに千歳は頬を掻く。
「花村? あんま見られると恥ずかしいんだけど」
「あー、ごめん。ちーって私服そんな感じなのな」
「え。え! もしかしてダサい!?」
「は……?」
学校での千歳は制服を着崩しすぎることもなく、近頃はセーターを着用していることが多い。陽キャのグループの中でもきちんとしたイメージだ。今日はと言えば、ワイドのパンツにオーバーサイズのニット。ゆるめのシルエットは新鮮に映る。
「ダサくねぇよ。すげーいい。なんか可愛いな」
「可愛い!? ……かっこいいって言われたかった」
「かっこいいかっこいい」
「気持ち入れて!?」
「ふはっ、ちーかっこいい~」
「もー。花村はめっ……ちゃかっこいいよ」
「すげーためるじゃん。ありがと」
対して尊は千歳と似たようなパンツに、トップスはビッグシルエットのスウェット。学校では控えめにしているピアスも複数つけている。日頃のちょっと悪っぽいイメージがより強く現れたコーディネート、といったところか。
「ピアスって痛い?」
「開ける時にちょっとな。ちーは開いてないんだっけ」
「うん。でも花村の見てたらしてみたくなったかも」
「マジか。じゃあそん時は責任取って俺がやる」
「はは、責任」
「そう。……ん? ちー、それ見せて」
アクセサリーは好きだ。自分をきっかけに興味を持ってもらえるのが素直に嬉しく、もう一度千歳の格好に目を向けると。その手に飾られている指輪が目を引いた。千歳の左手を取り、人差し指に鈍く光るゴツゴツとしたデザインのそれをなぞる。
「このブランド俺も好きなやつ。ピアスも何個かそうだし、ほら」
「ほん、とだ」
「これもいいなってすげー悩んだんだよな」
そう言いながら、右手の人差し指にある指輪をひらひらと振って見せる。多少値は張るが、バイトに数回入れば高校生でも手が届く。千歳もそうして購入したのだろうか。意外な共通点に緩んだ顔を上げると、何故か千歳と視線が交わらない。
「ちー?」
「あー……」
「どした?」
「いや、手、握ってるから……」
「手? あー……照れてんの?」
「そりゃそうでしょ……」
赤い顔を誤魔化すように、千歳は人ごみの方へと目を向ける。
千歳の豊かな感情に出逢う度、その頬にキスをしてきたな。
また疼き始めた欲に、さすがにここではまずいと目を瞑って。自身の中に芽生えているものに静かに対峙する。こんこんと溢れる“何か”は、心臓の底に甘酸っぱい。
「あー、っと。映画行くか」
「ん、そうだね」
名残惜しさにもう一度指輪を撫で、ゆっくりと手を離して歩きだす。会話をしながら、と思うと身を寄せなければ声が届かない。それをラッキーだと思ってしまう。先ほどは恨んだ人の多さが、今だけは味方をしているみたいだ。
「ちーはクラスのヤツとかと遊んだりすんの?」
「うん、たまに」
「ふーん……」
「あは、花村変な顔。花村は? よく遊んでんの?」
「まあな。ケンスケとナベとたまに」
「ふーん……」
「え、それ俺の真似? すげージト目すんじゃん」
「はは、分かった? まあオレは本心だけど」
「もしかして押されてる?」
「うん、押してます」
途切れない会話がモールまでの足取りを軽くする。映画館に行く時はいつも前夜から待ちきれないほどなのに、そっちのけで話していたいと思うのは尊にとって初めてのことだった。
尊が選んだ映画は、公開前から話題だったハリウッド作のミステリー映画だ。チケットを二枚発券し、千歳に一枚渡して、代金を受け取って。ドリンクをそれぞれに買って指定席に腰を下ろすと、尊はつい笑みを零してしまう。
「花村?」
「んー? いや、ミステリー好きでよかったと思って」
「…………? よく分かんないけど、オレは花村がミステリー好きって知れてよかった」
「そうなん?」
「うん。収穫」
「ふは、収穫」
上映開始前の隣同士の席で、ちいさく潜めた声で交わす会話。千歳と過ごす時間の全てが、あの日千歳がメモを置かなければ有り得なかったものだ。くり返されるそれに痺れを切らしたところで、ミステリー映画のワンシーンが過ぎらなければ、ゲームの誘いに乗らなかったかもしれない。一秒先すら未来は読めなくて、一秒後に後悔したってもう元には戻らない。千歳の勇気と自分の好奇心が交差してある今を、名探偵がここにいたらなんと名付けるのだろうか。
館内の注意事項と予告が始まり、徐々に照明が落ちてゆく。明かりがスクリーンだけになる、その直前に尊は千歳に耳打ちをした。
「ちー、今日はありがとな」
二時間半ほどの上映を終え、シアターから出た途端、尊と千歳は顔を見合わせた。興奮した千歳の様子に、自分のことのように嬉しくなる。
「めっちゃ面白かった!」
「な。期待以上だったわ。ちー、途中泣いてたろ」
「あはは、バレてた?」
「うん。俺もあそこはぐっと来た」
「だよね! 面白いところはすげー笑ったし。映画っていいな」
「な」
「あ、オレちょっとトイレ行ってくる」
「分かった。そこで待ってる」
トイレは混んでいて、外まで列が伸びている。少し時間がかかるだろうと、尊は近くの壁に凭れかかった。たまに振り返る千歳に手を振り、シネコン内の雰囲気も味わいつつ、どうしてもつい先ほどの千歳の表情を反芻してしまう。
千歳は昨日『花村の好きなものが観たい』と言った。甘い喜びを感じながらも、楽しんでくれるだろうかと気がかりはあった。趣味なんて人それぞれ千差万別で、同じじゃないからと落胆なんかするものじゃない。それでも共に過ごすのだから、気に入ってくれるほうがよりいい。その淡い不安はどうやら杞憂だったようだ。同じものを観て、泣いて笑って、感動して。感情ごと共有できたことが嬉しい。
千歳は何が好きだろう。それこそまた同じとはならなくたって、知りたいとそう思う。千歳が戻って来たら聞いてみよう。まだまだ時間はあるのだし、遅くなった昼食を食べながらそんな話をするのもいい。
スマートフォンを操作しながら計画を立てていると、尊の視界にふと華奢な靴が二足過ぎった。顔を上げれば、同じ年頃の女がふたり。眉を顰めるが、誰だか分からないのは尊だけのようだ。
「あのー、花村くんだよね」
「誰?」
「あ、私たち同じ高校で隣のクラスなんだけどさ」
中学の頃のように好きだなんだと言われることは、誰とも付き合わないと噂でも立っているのか高校ではなくなった。だが、遠巻きに視線を感じることは尊にとって今も日常だ。珍しく接触してきたか。そうげんなりしたのも束の間――何やらもじもじとしていた女は最初に声をかけてきた方に肘で小突かれ、勇気を振り絞ったように顔を上げた。
「あの、三上くんと一緒、だよね? さっき見かけて」
「…………」
なるほど、と尊は瞬時に理解する。この女は千歳に気があるらしい。自分に向けられる好意以上に、それは尊の心を重たくした。今日の千歳は俺のものなのに、と。
「えっと……よかったら四人で遊ばないかな、と思って。どう、かな」
「はぁ……」
そんなの、答えはノー以外にない。尊の吐く大きなため息にふたりはびくりと肩を跳ねたが、それでも引き下がる気はないようだ。
もしも千歳が戻って来たら、同じような誘いを真正面から受けたら。きっと、いや絶対。千歳は「そうしよう」と笑うに違いない。顔の広い千歳のことだから隣のクラスの人間とも面識があるだろうし、それなら尚のことだ。
一秒でも早く退散してもらうしかない、もしくは一旦ここから去って撒いてしまおうか。凭れかけていた背を上げ、けれど一歩遅かったようで千歳が戻ってきてしまった。
「花村~」と遠くから呼びかけてくれる声は、出来ればこの耳に大事に染みこませたかった。
「あ……あれ?」
「三上くん! こんにちは、偶然だね」
「あ、うん、ほんと偶然だね! え、っと。遊びに来てるの?」
「うん、私たちふたりでブラブラしてて。この後四人でどうかなって、花村くんにお願いしてたところなんだ」
「そう、なんだ」
四人で遊ぶくらいなら帰ってしまいたい。だが、このふたりだけが知る千歳の時間が今日生まれるのは悔しい。きっと酷い顔をしている。様子を窺ってくる千歳から顔を背け、尊はまた深いため息をつく。千歳が「じゃあそうしよう」と頷く、そんな見たくもない瞬間をただただ待つしかなかった。
だが尊の予想は大きく外れることになる。いよいよ女たちに背を向けた尊の腕を、千歳が掴んだ。
「ちー? どうし……」
「お、オレたち! 今日はふたりで遊んでるから! ごめん!」
「え……でも四人で遊んだらもっと楽しいかもしれないし……ね?」
「……うん、でも、ごめん。じゃあ、また学校で! 花村、行こ」
「あ、ちょっと! 三上くん!」
食い下がる女たちの声がまるで聞こえていないかのように、千歳は走り出す。尊も腕を引かれるがままに千歳の後ろに続く。ごったがえすショッピングモールを、人波を縫うように走り抜ける。途中、千歳が振り返って笑った。尊の存在を確かめるようにして細く弧を描いた瞳が、パチパチとまぶしい。途切れてしまう息は走っているからか、それとも千歳の紅潮した頬が見えたからか。尊は判断がつかない。
「はあっ、ここまで来れば大丈夫かな」
モールから外へと出て、裏手に向かった。人通りのほぼない生垣の影へ千歳がしゃがみこむ。腕ではなくいつの間にか繋がれていた手を引かれ、尊も隣へと並んだ。
「ちーお前……ああいうの断ったりすんの、苦手じゃねえの」
「あー……バレてた?」
「うん」
「なんか中学くらいからどんどん苦手になっちゃって。はは、初めて断ったかも。すっげー緊張した」
「……よかったのかよ」
「うん。今日は絶対、花村と一緒にいたかったから。花村がいてくれたから出来た」
「…………」
昨日の呼び方の件もそうだが、様々な好意を千歳は無下にできない。それを知るのに、ゲームの期間は十分だった。言えばいいのにと勝手に歯痒く思って、時に苛立って。それでも千歳を形成する一部だと納得していたけれど。
そんな千歳が誘いを断った。ふたりでいたかったからと。それが出来たのは花村がいてくれたからだと、打破した自身を清々しそうに笑っている。
胸が詰まるような、少し気を緩めれば泣いてしまいそうな。覚えのない感覚が尊の体を駆け巡る。
繋いだままの手をするりと撫でられ、まだ整わない呼吸に肩を上下させながら。この感情をなんと呼ぶのか、観念するかのように尊は思い知る。先走っていた鼓動に、やっと心が追いついた。
「ちー」
「んー?」
「なあ、次はいつ告ってくれんの?」
「は……? っ、え!? は、花村なに言っ……」
「俺もう返事していい?」
「え、なんで……」
「なあ、ちー……頼む」
「い、嫌だ。まだ聞きたくない……」
そうと分かれば、早く言ってしまいたくなった。あの日お預けにされた返事は、その場で答えていたらきっと違うものだっただろう。でも今は赤く熟している。
――なのに。千歳はそれを拒んだ。不特定多数の好意は全部受け止めるのに。花村が好きだ、と言ったのに。返事をさせてくれない千歳は、その横顔を曇らせる。
「なんで? 俺、分かりやすいと思うけど。だめ?」
「…………」
身勝手に好きだと言うことも出来るが、先にアクションを起こしてくれた千歳の気持ちを大事にしたい。尊は千歳が再び告白してくれるのを待つしかできないのだ。それなのに。
今にも顔を伏せてしまいそうな千歳からは、先へと進めてくれる気配は感じられない。まさか、振られると思っているのだろうか。この期に及んで。
もどかしくてくちびるに歯を立てる。待ってやりたい――千歳から求められたい。
だが、その気にさせておいて、宙ぶらりんに放置されて。良い子でいてやる気もさらさらなかった。
「ふーん。あっそ。分かった」
「……ごめん」
「分かったけど。もうちょっとこのままな」
「……え?」
手を離すと寂しそうな目を上げた千歳に、ぐっと顔を近づける。意識を全部奪ってやろうと、酷くゆっくりと再び指を絡ませた。
「っ、花村……」
「いや?」
「……嫌じゃない。嫌じゃない、けど……」
「ちー、こっち向いて」
「へ……あっ」
指を緩めて、閉じこめるようにまたきゅっと力を入れて。それをくり返しながら、尊はもう何度目かの頬へのキスをする。少し風に冷えていて、けれど体の内側からすぐに千歳の熱がやってくる。震えるまつげの先で瞳が潤んで、しがみつくように握り返される手。恋人だと錯覚するような触れ合いに、尊は夢中になった。
恋をするとこんな気持ちになるのか。今までの人生全てが嘘だったみたいに、この瞬間だけが喜びのようで、それでいて喪失感がすぐに追いかけてくる。切なくて、だからやめられなくて。今度は千歳のくちびるギリギリのところへ、齧りつくようにキスをする。
「は、あ……っ、花村」
「っ、ちー……」
このままくちびるにもキスしてしまいたい。口の中まで暴いて、千歳の心を引きずり出してしまいたい。今すぐ欲しいと言ってくれ。
暴力的なまでの欲求を、けれど尊はどうにか振り切った。名残惜しさにもう一度、頬にキスをする。落ち着け落ち着け、と深呼吸をひとつして、千歳の前髪にもぐるように額を擦りつけた。
千歳が好きだ。だがここまでしても何も言わない千歳は、この先へ踏み出す気はやはりないのだろう。腹が立って、悔しくて――でもそれと同じくらい、そんな千歳ごと大事にしたいと思った。
気持ちを切り替えるようにハッと大きく息を吐き、空を見上げる。そうだ、大事にしたい。だけどわがままを言うなら、恋人にはまだなれなくても、もっとちゃんと千歳の特別だと感じたい。
今はまだ立ち上がる気力もなく、どうしたものかとふうと息をついた時。握り直した手の中で、何かがコツンとぶつかった。
そうだ、これだ。
「ちーがまだ言いたくないのは分かった」
「……ごめん」
「いや、いい。でも一個、お願いがある」
「お願い?」
繋いでいる手を持ち上げて、ふたりの間でゆらゆらと揺らしてみせる。そこに光るのは、たまたま同じブランドだった、デザインの違うそれぞれの指輪だ。
「俺がしてる指輪、ちー的にはどう?」
「え? う、うん、好きだよ。さっきは言いそびれたけど、オレも実はそれと悩んでた」
「マジ? じゃあさ……交換しねえ?」
「っ、え?」
一瞬でも離れるのが寂しいけれど手を解いて、尊は指輪を外した。それを手のひらに転がし、「ん」と千歳の目の前に差し出す。
「指輪交換」
「指輪交換……」
「いつか返すんでいいからさ、ちーのもの持っときたくなったっつうか。そんな感じ。だめ?」
「っ、だめじゃない。え、めっちゃ嬉しい……けど、いいの?」
「俺がしたいっつってんの。もう決まりな。ほら、ちーも外せ」
「う、うん」
まだ目を丸くしながらも、千歳も自身の指輪を外した。どうぞと渡されそうになるのを受け取らず、左手を差し出す。
「ちーがつけて」
「え!?」
「俺は右につけんのが好きだけど、ちーのだからちーの真似して左がいい。ん」
「えー、っと……」
「あ……もしかして結婚式みたいだーとか思ってんだろ」
「っ、思っ! ちゃうに決まってんじゃん~!」
「はは、かーわいい。なあ、早く」
「うう……分かった」
赤い顔をこんなに近くで見ることが出来た。それだけでもう今日は充分な気さえしながら、尊は指輪が嵌められるのを待った。恭しく添えられた片手が本当に結婚式みたいで、それをくすぐったく感じつつその瞬間を迎える。慣れない左手への指輪は存在感も大きく、千歳のものだとより感じられる。それがすごくいい。しばらく眺めてから、今度は千歳の手を取る。
「ちーはどっちにする?」
「……オレも花村の真似する」
「じゃあ右手出して」
差し出された右手を取り、人差し指の節をひと撫でする。ぴくんと指先が跳ねるのを見たら、またキスをしたくなった。それをどうにか押しこめながら、先ほどまで自分の手にあった指輪をゆっくりと千歳の指に通す。
「サイズも一緒みたいだな」
「うん。……うわー、花村の指輪だ」
ふたり横に並んで、それぞれに手を空へと翳す。太陽を弾いた光が交差して、尊と千歳に射している。
「なんかこれ、ドキドキするわ」
「うん、オレも……」
ぎゅっと握って、また翳して。手を顔に近づけたと思ったら、遠くに伸ばしてまた指輪を眺める。そんな千歳がまぶしくて、胸がきゅうと音を立てる。
想いはまだ結べそうにない。けれど今日という日にたくさんの千歳の顔が見られた。好きなものを共有して、たくさん触れて。今はきっとこれでいい。
そう思えるのは、確かなものをひとつ見つけられたからだ。今日が終わっても、この気持ちは続いていく。恋なんて知らなかったのに、千歳への恋心がはっきりと尊の中に存在している。だからゆっくりでいい、千歳のペースを待ってやりたい。もはや降参と言えるのかもしれない。
「あーあ」
「…………? 花村?」
「いや、今日すげー最高と思って」
「ほんと? オレも!」
「な」
好きだと気づいた時にはもう、千歳に夢中になっていた。
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