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 自宅の最寄り駅に着き、駅前のコンビニをちらりと見やる。結局入店はせず、アパートへ向かって歩く。
 今も腹は空かず、頭も胸も梓の事ばかりだ。淡いため息が幾度も零れ、怜の足跡を梓色に染めている。

 ゆっくりとしたスピードで約十分。すぐ先の角を曲がると怜のアパートだ。
 今日も眠れそうにないな。そんな事をぼんやり考えていた怜の耳に、アパート前の砂利を踏む音が届く。
 誰か住人が出かけるところだろうか。
 怜が顔を上げると、そこに立っていたのは他の誰でもない、怜の体中を満たしている梓だった。

「っ、梓くん!?」
「怜さん!」
「な、なんでここに……」
「メッセージの返信と、電話も何回かしたんですけど繋がらなくて」
「え……あ。電車に乗る時にマナーモードにしたままだ」

 会いたいと送ったものの、今日はそんな時間は取れないだろうと、確認することもしていなかった。
 心の準備をする暇もなく、思いがけない状況に確かに困惑しているのに。目の前に立つ梓の姿に、怜の胸は素直に甘酸っぱい音を鳴らしてしまう。

「あ、梓くん、えっと……」

 言いたい事が沢山ある。だけど何から言ったらいいだろう。
 口を開けばすぐに飛び出して来てしまいそうな想いに、まだ駄目だと噤ませる。

「そうだ、打ち上げとかはなかったの?」
「皆さんのスケジュールが合わなくて、後日って事になってます」
「そ、そっか」
「…………」

 梓の顔を直視する事が出来ない。俯く怜の視線は足元をうろつき、火照った頬の熱がぽとぽとと地面に落ちてしまいそうだ。
 そんな怜のつむじに、不安げな梓の声がぶつかる。

「怜さん、あの、俺……」

 どうしたのだろうか。梓の事が心配になれば、顔を伏せていたかった理由もどこかへと吹き飛んで、怜は首をもたげる。
 揺れる瞳が見えて、途端に怜の胸はつきりと痛みを訴える。

「怜さんからのメッセージ見て、嬉しくて飛んできちゃったんですけど。あの……俺が相山梓だって事、ずっと黙っててごめんなさい。怒ってますか?」
「梓くん……」

 あぁ、この子を不安に染めているのは自分なのだ。ステージの上では凛とした姿で立っていたのに、今は背を丸くしている。
 怜は震える唇を噛み締め、それならば早く伝えなきゃと思う。
 梓の瞳を一瞬だって曇らせたくはなかった。

「すごく、すごくビックリしたよ。梓くんが、相山さんで……内緒ってこれだったんだなって。でも、怒ってなんかないよ。怒るわけない」
「っ、ほんとに?」
「ほんとだよ。でも、何て言うんだろう……今すごく緊張してる」
「緊張……俺が相山梓だから?」
「ううん、そうじゃないんだ。目の前にずっと好きだった相山さんがいる、って頭では分かってるんだけど。それより梓くんは僕にとって、一緒に過ごしてきた梓くんで……自分で決めた事だけどずっと会わずにいたし、昨日から色々ありすぎて、それで……」

 上手く思考がまとまらないのに、とりとめもなく口にしたら梓を困らせてしまう。それでもぽろぽろと零れる言葉を止められない。

「だって、あ、梓くんが好きだから、いっぱいいっぱいで……どうしたらいいか、分かんなくて」
「っ、え? あ……怜、さん? 今……」
「ごめ……泣きたくない、んだけど……」

 ついに口にしてしまった想いに引きずられるように、涙が次々と落ちる。たった二文字の気持ちを伝える事は、こんなに難しい。
 体がまるで自分のものじゃないみたいだ。涙も指先も、崩れそうな足元も。全身の制御が効かなくなってしまう。

「怜さん……」

 梓の濡れたような、それでいて掠れた声が怜を呼んだ。怜の頬に手が伸び、けれど近くを誰かが通る声にハッとして、触れる事なく離れてゆく。

「怜さん、うちに来て? こっち」
「え、あ……」

 怜の返事を待たず、梓は怜の手を握ってすぐそこのマンションへと早歩きで歩き出した。
 よろけてしまった怜に気づくと、寄り添って肩を抱くように支えられる。触れるところから梓の体温がしみ込んでくるようで、体が熱い。
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