19 / 26
-5-
18
しおりを挟む
土曜日の夕刻、駅から歩いて来た怜の目には賑やかに浮わつく街が映る。
会場の周辺は、至る所で女の子たちの煌めく笑顔と声が広がっている。
まともに眠れなかった夜を引きずり、梓が灯した熱っぽい頭と体の自分には、似つかわしくないほどまぶしいなと怜はぼんやり思う。
「はぁ……」
何度も反芻した昨夜の梓の姿や言葉、注がれた視線をまた思い返す。思いもよらなかったものばかりで、何にいちばん驚いて、何に心を震わせて、何を想ってここに立っていればいいのか今もよく分からない。
けれど不思議な事に、来ないという選択肢だけはなかった。梓の秘密、このチケットが示すもの、それが何だとしたって受け止めたい、ただそれだけだった。
ところで梓はどこだろう。
来てほしい、と言ったのだから梓も一緒に観るのだと思っていたが、アパートを出る時に送ったメッセージを読んだ様子はない。どれだけ見渡しても、姿を見つけることも叶わない。
まさか、と昨夜浮かんですぐに打ち消した可能性が、また怜の胸を掠める。
客席ではなく、ステージの上に梓はいるのかもしれない――なんて。
「はは、まさか」
そんなわけがないだろうと小さく自分を笑い飛ばし、怜はオレンジが滲み始めた空を仰ぐ。
大きく息を吸って、しばらく留めて細く吐き出す。
何があっても受け止めるつもりでいても、足が竦むのもまた事実だった。
「あ、アニキ見っけ」
「へ……え、ノリくん!? え、どうしたの?」
目を瞑っていた怜に、聞き慣れた声が届く。慌ててそちらを振り返ると、ノリの姿があった。たまたま近くを通って自分に気づいたのだろうか。
「アニキとおなじです、ここに来ました。ほら」
「あ……」
けれどノリはそう言って、怜が梓から受け取ったものと同じ封筒を取り出した。ひらひらと振ってみせ、歯を見せながら肩を上げ、少年のように笑う。
「アニキ、もしかしたら来ないかもと思ってたんですけど早かったですね。いなかったら迎えにいこうと思って早めに来たんすけど、俺の方が遅かったみたいっす」
「え、っと? もしかしてノリくんも梓くんから?」
「っす」
「そうなんだ。梓くんはまだみたいだよ」
きょろきょろと辺りを見渡しながら怜がそう言うと、ノリが手招き背を屈める。潜められた声が静かに、また怜にあり得るはずのないと打ち消した予感を運んでくる。
「梓くんはここには来ないっすよ」
「……そう、なの?」
「っす。でもちゃんと来ます」
「なに言ってるか分かんないよ」
「はは、そうっすよね。でも大丈夫っすよ、梓くんはアニキのことちゃんと考えてるから。俺がここに来たのも、アニキがひとりじゃ心細いかもしれないからって頼まれたっす」
「……ノリくんはなにか知ってるの?」
「んー、そうかも知んないっすね」
「…………」
不安を覚え、シャツの胸元を怜は握りこむ。
ノリと二人で立ち尽くしていると、いつの間にか開演一時間前になったようで、開場を始めるとのスタッフの声が届く。
「並びましょっか」
「……ん」
「アニキ~緊張してる?」
「そりゃ、するよ」
強張った体を見抜いたのか、ノリがおどけた口調で怜の顔を覗く。どこか子ども扱いのようで釈然としないのに、確かに心がほどける感覚もする。
「にひ、そりゃそっすよね。ちなみに~、どっちに?」
「どっち? って?」
「見ないようにしてた相山梓を、ついに見ちゃうこと? それとも、梓くんのこと?」
ノリが柔らかな笑顔でする問いかけに、怜はついきょとんと間抜けな顔をしてしまった。
あぁ、そうだ。ノリの言う通り、今の怜にとって揺らぐ心はひとつではない。けれど――
「相山さんの事もドキドキしてるよ。ずっと好きだったし、わざと声以外の情報は断ってたから。でも……今は正直、梓くんのことで頭がいっぱい」
昨夜だってそうだった。
相山梓が登壇するのだと梓に言われ面食らったが、それでも怜の頭の中は久しぶりに顔を合わせた梓の事ばかりだった。
怜が好きだと言った梓の、くしゃりと寄った眉と濡れた声色。張り裂けそうなくらいに今も怜を占めている。
「あは、そっか。じゃあ行こうアニキ。これは梓くんの覚悟っすよ」
「覚悟?」
「そうっす、ほらほら!」
「わ、分かったから!」
覚悟という言葉の意味を理解できないまま、早くと急かしノリが腕を引く。
仕事の合間もずっと塞ぎ込んでばかりだった、ここ数ヶ月の自分を怜は思い出す。ノリにはきっと、たくさん心配をさせてしまった。
年上なのに助けられてばかりで情けない。けれどごめんねなんて言ったら、優しいノリはむくれてしまうだろうから。
最後列に並んでひと息つき、怜はノリを振り返る。
「いつもありがとう、ノリくん」
「ん? 俺は何にも。でもアニキがどうしてもお礼がしたいって言うんなら、また鍋しましょ!」
「うん、いいね」
「今度は梓くんも入れて四人で、が希望っす」
「……ん、僕もそうだといいな」
そんな未来が、出来ればすぐそこにあるといい。この強張った心がどう動くか、それが分からなくて恐ろしいけれど。
梓が見せるものを受け取る自分に、大きな覚悟が持てるよう。少しずつ進む列に心音を押し上げられながら、怜はそっと息を飲む。
会場の周辺は、至る所で女の子たちの煌めく笑顔と声が広がっている。
まともに眠れなかった夜を引きずり、梓が灯した熱っぽい頭と体の自分には、似つかわしくないほどまぶしいなと怜はぼんやり思う。
「はぁ……」
何度も反芻した昨夜の梓の姿や言葉、注がれた視線をまた思い返す。思いもよらなかったものばかりで、何にいちばん驚いて、何に心を震わせて、何を想ってここに立っていればいいのか今もよく分からない。
けれど不思議な事に、来ないという選択肢だけはなかった。梓の秘密、このチケットが示すもの、それが何だとしたって受け止めたい、ただそれだけだった。
ところで梓はどこだろう。
来てほしい、と言ったのだから梓も一緒に観るのだと思っていたが、アパートを出る時に送ったメッセージを読んだ様子はない。どれだけ見渡しても、姿を見つけることも叶わない。
まさか、と昨夜浮かんですぐに打ち消した可能性が、また怜の胸を掠める。
客席ではなく、ステージの上に梓はいるのかもしれない――なんて。
「はは、まさか」
そんなわけがないだろうと小さく自分を笑い飛ばし、怜はオレンジが滲み始めた空を仰ぐ。
大きく息を吸って、しばらく留めて細く吐き出す。
何があっても受け止めるつもりでいても、足が竦むのもまた事実だった。
「あ、アニキ見っけ」
「へ……え、ノリくん!? え、どうしたの?」
目を瞑っていた怜に、聞き慣れた声が届く。慌ててそちらを振り返ると、ノリの姿があった。たまたま近くを通って自分に気づいたのだろうか。
「アニキとおなじです、ここに来ました。ほら」
「あ……」
けれどノリはそう言って、怜が梓から受け取ったものと同じ封筒を取り出した。ひらひらと振ってみせ、歯を見せながら肩を上げ、少年のように笑う。
「アニキ、もしかしたら来ないかもと思ってたんですけど早かったですね。いなかったら迎えにいこうと思って早めに来たんすけど、俺の方が遅かったみたいっす」
「え、っと? もしかしてノリくんも梓くんから?」
「っす」
「そうなんだ。梓くんはまだみたいだよ」
きょろきょろと辺りを見渡しながら怜がそう言うと、ノリが手招き背を屈める。潜められた声が静かに、また怜にあり得るはずのないと打ち消した予感を運んでくる。
「梓くんはここには来ないっすよ」
「……そう、なの?」
「っす。でもちゃんと来ます」
「なに言ってるか分かんないよ」
「はは、そうっすよね。でも大丈夫っすよ、梓くんはアニキのことちゃんと考えてるから。俺がここに来たのも、アニキがひとりじゃ心細いかもしれないからって頼まれたっす」
「……ノリくんはなにか知ってるの?」
「んー、そうかも知んないっすね」
「…………」
不安を覚え、シャツの胸元を怜は握りこむ。
ノリと二人で立ち尽くしていると、いつの間にか開演一時間前になったようで、開場を始めるとのスタッフの声が届く。
「並びましょっか」
「……ん」
「アニキ~緊張してる?」
「そりゃ、するよ」
強張った体を見抜いたのか、ノリがおどけた口調で怜の顔を覗く。どこか子ども扱いのようで釈然としないのに、確かに心がほどける感覚もする。
「にひ、そりゃそっすよね。ちなみに~、どっちに?」
「どっち? って?」
「見ないようにしてた相山梓を、ついに見ちゃうこと? それとも、梓くんのこと?」
ノリが柔らかな笑顔でする問いかけに、怜はついきょとんと間抜けな顔をしてしまった。
あぁ、そうだ。ノリの言う通り、今の怜にとって揺らぐ心はひとつではない。けれど――
「相山さんの事もドキドキしてるよ。ずっと好きだったし、わざと声以外の情報は断ってたから。でも……今は正直、梓くんのことで頭がいっぱい」
昨夜だってそうだった。
相山梓が登壇するのだと梓に言われ面食らったが、それでも怜の頭の中は久しぶりに顔を合わせた梓の事ばかりだった。
怜が好きだと言った梓の、くしゃりと寄った眉と濡れた声色。張り裂けそうなくらいに今も怜を占めている。
「あは、そっか。じゃあ行こうアニキ。これは梓くんの覚悟っすよ」
「覚悟?」
「そうっす、ほらほら!」
「わ、分かったから!」
覚悟という言葉の意味を理解できないまま、早くと急かしノリが腕を引く。
仕事の合間もずっと塞ぎ込んでばかりだった、ここ数ヶ月の自分を怜は思い出す。ノリにはきっと、たくさん心配をさせてしまった。
年上なのに助けられてばかりで情けない。けれどごめんねなんて言ったら、優しいノリはむくれてしまうだろうから。
最後列に並んでひと息つき、怜はノリを振り返る。
「いつもありがとう、ノリくん」
「ん? 俺は何にも。でもアニキがどうしてもお礼がしたいって言うんなら、また鍋しましょ!」
「うん、いいね」
「今度は梓くんも入れて四人で、が希望っす」
「……ん、僕もそうだといいな」
そんな未来が、出来ればすぐそこにあるといい。この強張った心がどう動くか、それが分からなくて恐ろしいけれど。
梓が見せるものを受け取る自分に、大きな覚悟が持てるよう。少しずつ進む列に心音を押し上げられながら、怜はそっと息を飲む。
1
お気に入りに追加
108
あなたにおすすめの小説
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
フローブルー
とぎクロム
BL
——好きだなんて、一生、言えないままだと思ってたから…。
高二の夏。ある出来事をきっかけに、フェロモン発達障害と診断された雨笠 紺(あまがさ こん)は、自分には一生、パートナーも、子供も望めないのだと絶望するも、その後も前向きであろうと、日々を重ね、無事大学を出て、就職を果たす。ところが、そんな新社会人になった紺の前に、高校の同級生、日浦 竜慈(ひうら りゅうじ)が現れ、紺に自分の息子、青磁(せいじ)を預け(押し付け)ていく。——これは、始まり。ひとりと、ひとりの人間が、ゆっくりと、激しく、家族になっていくための…。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
好きなあいつの嫉妬がすごい
カムカム
BL
新しいクラスで新しい友達ができることを楽しみにしていたが、特に気になる存在がいた。それは幼馴染のランだった。
ランはいつもクールで落ち着いていて、どこか遠くを見ているような眼差しが印象的だった。レンとは対照的に、内向的で多くの人と打ち解けることが少なかった。しかし、レンだけは違った。ランはレンに対してだけ心を開き、笑顔を見せることが多かった。
教室に入ると、運命的にレンとランは隣同士の席になった。レンは心の中でガッツポーズをしながら、ランに話しかけた。
「ラン、おはよう!今年も一緒のクラスだね。」
ランは少し驚いた表情を見せたが、すぐに微笑み返した。「おはよう、レン。そうだね、今年もよろしく。」
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
陰キャ系腐男子はキラキラ王子様とイケメン幼馴染に溺愛されています!
はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。
まったり書いていきます。
2024.05.14
閲覧ありがとうございます。
午後4時に更新します。
よろしくお願いします。
栞、お気に入り嬉しいです。
いつもありがとうございます。
2024.05.29
閲覧ありがとうございます。
m(_ _)m
明日のおまけで完結します。
反応ありがとうございます。
とても嬉しいです。
明後日より新作が始まります。
良かったら覗いてみてください。
(^O^)
Take On Me
マン太
BL
親父の借金を返済するため、ヤクザの若頭、岳(たける)の元でハウスキーパーとして働く事になった大和(やまと)。
初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。
岳とも次第に打ち解ける様になり…。
軽いノリのお話しを目指しています。
※BLに分類していますが軽めです。
※他サイトへも掲載しています。
イケメンモデルと新人マネージャーが結ばれるまでの話
タタミ
BL
新坂真澄…27歳。トップモデル。端正な顔立ちと抜群のスタイルでブレイク中。瀬戸のことが好きだが、隠している。
瀬戸幸人…24歳。マネージャー。最近新坂の担当になった社会人2年目。新坂に仲良くしてもらって懐いているが、好意には気付いていない。
笹川尚也…27歳。チーフマネージャー。新坂とは学生時代からの友人関係。新坂のことは大抵なんでも分かる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる