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 仕事を終えた怜は、大きく伸びをしながらついくたびれた声を漏らす。
 今日は一段と利用客が多かった。目まぐるしい業務の中で休憩もろくに取れないまま、一日が終わった。

「アニキ~お疲れ様っす~……」
「ノリくんお疲れ様。くたくただね」
「う~もはやグロッキーすよぉ……激務すぎ。でも充実感もぱねぇっす」
「うん、分かる」

 音楽が生まれる場所に身を置いて、紡ぎ出す人々の力に少しでもなれる事がノリも、そして怜もやはり好きなのだ。


 自身のロッカーを閉じ、二十時を指す時計を見て怜はバッグを手に取る。珍しく二日連続で梓と会う約束があった。

 昨日はあの後、CDを買った日は食事はどうしているのかと梓が訊いてくれた。簡単にコンビニの軽食で済ますのだと答えると、じゃあ今日もそうしようと楽しそうにねだられてしまった。折角なのにと申し訳なくも思ったけれど、怜のアパートでおにぎりやおつまみ、チューハイを二人で囲む夕飯はあたたかい時間だった。

 今日は梓が久しぶりのオフで、是非来てほしいと誘われて、初めて梓の自宅にお邪魔することになっている。

「あ、そうだアニキ。俺、昨日見ちゃいましたよ。水くさいじゃないっすか~」
「ん? なにが?」

 そろそろ帰ろうとした時だった。疲労した体をロッカーに預けていたノリが、水を得た魚のように突然怜を振り返った。キラキラとした瞳で口角を上げ、顎に添えられた二本の指が探偵をきどっている。

「昨日加奈と渋谷に行ったんすけど、アニキと梓くんのこと見かけて」
「あ、そうだったの? 声かけてくれたら良かったのに」
「いえ、俺は野暮な事はしない出来る男なんで」
「野暮? なにが?」

 ノリの言っている意味がちっとも分からず首を傾げると、それを追いかけるようにノリもきょとんとした顔で首を傾げる。
 探偵の顔はすっかり鳴りを潜め、その頭上にクエスチョンマークが浮かび始めた。

「え? 付き合ってるんすよね?」
「誰と誰が?」
「アニキと梓くんが」
「……まさか」
「え……え! だって手繋いでたじゃないっすか!?」
「あー……」

 ギクリと肩を跳ねさせ、怜は先ほどのノリを真似るようにロッカーに体を預ける。
 それを指摘されてしまえば、怜も何と説明すればいいのか分からないのだった。

 梓とは手を繋ぐどころか、何なら抱きしめられることだってある。けれどそれは励ましてもらったり、昨日のように梓を励ます時に限ってだ。
 梓の優しさを履き違う事の様で、意識する事自体がどこか憚られた。

「やっぱり変、かな? 普通しないよね。いや、昨日繋いでたのはたまたまだったんだけど……」
「変、って言うか……うーん……俺は繋ぐのは加奈とだけっすね」
「恋人がする事?」
「友達でもなくはないのかも知れないっすけど、俺はそうっす。アニキはどうなんすか?」
「梓くんとそういう関係じゃないけど、僕もそう思う」
「……アニキは梓くん以外とも手、繋げます?」
「梓くん以外……はは、想像もできないかも」

 自分がそうだとしたって、もしかすると梓は誰にだってスキンシップが多いタイプなのかもしれない。
 ただ怜はと言えば、触れられる度に心は正直に喜んで、胸は甘く痛んでしまうのだ。
 違う、恋じゃない。
 浮かぶ仮説を怜は何度も首を振って散らしてきたけれど、今日この場でノリがそれを拾ってしまう。

「俺はそのアニキの気持ち、意味があると思うなぁ」
「意味?」
「アニキが、もう恋はこりごりって思ってるのも十分承知してるけど。梓くんが特別なのは、間違いないんじゃないっすか?」
「特別……こわいな」

 ノリが言う通り、梓が他の人とは違う、特別な存在だという事はもう否定できない。
 けれどこの気持ちに恋と名付けてしまうのは、やはり怖い。
 駄目だと頭が理性を振りかざすのに、勝手に早鐘を打つ心臓が怜を置いてけぼりにする。

 そもそも認めたところで叶う事はない、男の怜を相手に梓はそんな想いを抱かないだろう。
 慕ってくれているのは、きっとノリと同じように兄へのそれと同じ感覚だ。

「アニキの気持ちはアニキにしか分からないっすけど、素直になっていいと思いますよ、俺は」
「素直……」
「っす。どう転んでも、俺はいつでもアニキの味方っすから」
「ん、ありがとう、ノリくん」

 素直になるのなら、きっとこのままでいい。今のこの心地いい関係が続けばそれがいい。
 自分に言い聞かせるように怜は頷き、そろそろ帰ろうかと二人一緒に外へ出る。

「雨降りそうっすね」
「うん、急いだほうがよさそうだね」

 厚い雲に覆われた夜空が見せる予感に、怜とノリは夜道を急ぐ。

 雨の匂いに気を取られ、近づき始める本当の嵐の予感に怜は気づけない。
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