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「はぁ、さすがに追ってはこない、かな」

 人の通りがないわけではないが、駆ける足音などは聞こえてこない。脱いだキャップを顔に被せ、梓は天を仰いで呟く。
 どくどくとうるさい心臓は、突然訪れた窮地にまだ狼狽えている。

「梓くん」
「あ……怜さんごめんなさい、大丈夫ですか? 急に走らせちゃって、折角楽しみにしてた日なのにすみません。苦しくないで……」
「梓くん」
「っ、怜さん……」

 ふと届いた怜の声に慌てるけれど、珍しくそれを怜は制す。
 怒らせてしまっただろうか。
 けれど月明かりが照らして見せる怜の表情は眉が下がっていて、梓を心配しているのだと手に取るように分かった。

「僕は全然平気、梓くんこそ大丈夫? なにか嫌なことあった? もしかして、やっぱり誰かになにか言われた?」
「怜さん……違います、大丈夫。大丈夫ですよ」
「でも……何かあったんでしょ?」

 繋いだままの手を怜がきゅっと握り返す。染み込んでくる怜の体温を、腕の中に閉じ込めてしまいたい。
 空いている片手を浮かせ、だめだと宙を握り、けれど梓は堪えきれず怜の背中を引き寄せる。

「っ、梓くん!? ちょ、ちょっと……」
「ちょっとだけ、ちょっとだけでいいんでこうしてても良いですか?」
「でも……」
「だめ?」
「そんなの……ずるい。断れないよ」

 拗ねたような口調を梓のシャツに滲ませながら、怜もそろそろと梓の背を抱きしめ返した。添えられた手はそれだけではなく、まるで幼い子をあやすようにぽんぽんと撫でてくる。
 吸い込んだ息は時が止まるのを願うみたいに、うまく放たれてくれない。こんな風に受け入れてくれるなんて、梓は思いもしなかったのだ。

「怜さん、俺……」
「ん、なぁに?」


 初めて逢った時から、どこか儚く笑う人だと思っていた。誰の誘いも頑なに受けないと聞いたところで、印象が変わる事はなかった。凛とした強さをも持った人なのだと、むしろ美しさは際立った。
 そのイメージは違うのかも知れないと気づくのは、仕事終わりに気まぐれに寄った書店での事だ。それからその書店には何度も通うことになるのだが、見かける度に小説の棚の前にいた怜は、静かにそこに立っているだけなのに豊かな表情に梓には映った。
 お高くとまった難攻不落のスタッフ──そう噂していたのは誰だったか、とうに忘れたが。そんなのきっと上辺から推測した的外れなもの、そう思わずにいられなかった。

 あの日もいつも通り寄った書店に見つけたその姿に、違和感を覚えたのはすぐだった。
 青ざめた横顔に、考えるより先に体が動いた。今思えば、放っておけない、守りたいと思ったその瞬間には、もう色づき始めていたのかもしれない。梓の胸に溢れる怜への感情は。
 儚く笑い、泣いて、胸が張り裂けるような絶望を宿す美しい人は、それらすべてを抱えてもなお優しさを持つ。そんな怜を好きにならずにいられなかった。
 朝になれば太陽が昇って、夜には月と星が寄り添うように、梓にとってごく自然な事だった。

「…………」
「梓くん?」

 でも、だからこそ。
 怜が相川梓のCDを聴いていると公園のベンチで気づいた時、それは自分だとすぐに言えなかった。
 怜が酷く落ちこんだ過去に救いになっていたと知った時、隠していようといっそう決意した。
 何者でもない自分の事も見てほしい、と願ってしまったからだ。
 恋はもうしないと濡れた瞳で笑った怜に、それでも想われたいとこの胸は鳴いてしまったから。

「また怜さんに秘密が増えそうで悩んでます」
「ここまで走ってきたこと?」
「はい。でも……言ったらきっと困らせる」

 そうして持った秘密は、こうして巻き込んだ理由を話すなら紐解かなければならない。ただ、その瞬間は怜に好きだと伝えた後にと決めていたのだ。
 怜を悩ませたくない。けれど怜を失う可能性が少しでもあるのなら、まだその時ではないと心は怯む。
 どうにも動けない。

「そっか。ねぇ梓くん、なにがあったのかなって心配で考えてるよ。僕は梓くんにいっぱい助けてもらったから、僕に出来る事があるならしたいと思ってる。だけど、無理して言わなくていいよ」
「え……でも」

 やわらかなトーンが、梓の耳のすぐそばで静かに紡がれる。守りたい、なんて傲慢に思えるほど、梓こそ怜の優しさに包まれているのだ。

「ここ最近、というか、梓くんが初めてうちに来てくれたあの日から、僕は凄く息がしやすくなったんだ。でも、助けてくれた梓くんが、秘密があるって教えてくれた日でもあるでしょ? 人間はみんな裏切るものだ、って思ってたはずなのに、あの日の梓くんの言葉を僕は全部信じてるんだよね。世界が明るくすらなった。だから、秘密のままでも大丈夫だよ」
「っ、怜さん……」

 体を離し、ね? と首を傾げながら怜は微笑んだ。こみ上げるものに、梓は慌ててキャップで顔を隠す。

「やばい、泣きそう」
「へ? ほんとに? 梓くんが?」
「ちょ、怜さんこっち見ないで」
「ふふ、泣いてもいいのに」
「そうかもしんないけど……ちょ、怜さん!?」
「繋いだらだめ?」
「うわぁ、それはずるい」
「あはは、そうでしょ? 僕の気持ち分かった?」

 ほどけていた手を、怜の方から取ってくれるなんて思いもしなかった。
 大きな体で泣く年下の男の子を、例えるなら兄のような気持ちで励ましているのだろう。それでも怜に恋をしているのだから、梓は特別に感じずにいられない。
 引き寄せてもっと抱きしめて、本当はキスだってしてしまいたいくらいに。 


 渦巻く想いを全部呼吸に変えて、梓はどうにか立ち上がる。握ったままの手は、怜が離すまで自分から解く気はない。

「怜さん、時間取らせてすみませんでした。ご飯、行きましょっか」
「ん、行こっか」

 怜の言葉に甘えて、今はまだ秘密を秘密のままにしておこうと決め街を歩きだす。
 繋がれた手は予想外に公園を出てもそのままで、平然を保ちながらも梓の胸中は騒がしいものだった。
 けれど賑やかな大通りに出ると、するりとほどかれる。今はこれでいいのだと寂しさを押し込め、それでも未来に託した自身に苦笑もした。

 離れられない、この人の隣を自分のものにしたい。
 何度も思ってきたことが、また一段と形を成した瞬間だった。
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