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「怜さん!」
「あ、梓くん」
「すみません、はぁ、遅くなりました」
「走って来たの? 慌てなくてよかったのに」
待ち合わせ場所に到着し、梓は膝に手をついて息を整える。
予定より遅くなってしまい、怜の言う通り電車を降りてからは走ってきた。微かに額に浮いた汗を拭き、顔を上げる。
薄手の白いニットで柔和な印象が際立つ怜は心配そうに眉を下げているけれど、これでいいのだ。
早く会いたいと逸る気持ちを抑えられなかった。
この街に二人で訪れたことはまだない。待ち合わせ自体に、浮かれてしまっているのだ。
「俺も楽しみだったんでつい」
「ほんと? 付き合わせて悪いなって思ってたから、そう言ってくれて安心した」
「いっぱい安心してください」
「ふふ、何それ」
それじゃあ行こうかと、二人並んで目的のショップを目指す。
前回会ったのは三週ほど前だったが、その程度空いたところでよそよそしくなりはしない仲を梓は噛み締める。
よく笑うようになった横顔を盗み見ていると時間なんてあっという間で、すぐに目当ての場所に到着した。
ブルーが際立つショップは仕事を終えた人や学校の後なのだろう、多くの人で賑わっている。
マスクを整え、キャップを少し深めに被り直した梓もさっそく中へ入ろうとし、けれど怜が隣にいないことに気づき振り返った。
「ん? 怜さん?」
「え、っと。梓くん、本当に行く?」
少し後ろで怜は立ち止まっていた。
慌てて引き返し顔を覗きこむと、不安げに揺れる瞳が逸らされてしまった。
「行きたいです。でも、怜さんが嫌だったら外で待ってます」
会いたい一心でこうして約束を取り付けたけれど、怜の楽しみを邪魔したいわけではなかった。
なるべく柔らかく響くようにそう言うと、怜は慌てて顔を上げる。
「ううん、違う! 嫌じゃないんだ、えっと……僕は慣れてるからいいんだけど、もし梓くんが変な目で見られたら申し訳ないなと思って」
「変な目?」
「うん、あのね……」
なるほど、男性がいわゆる女性向けのシチュエーションCDを見ていると、好奇の目を向けられることがあるのか。
神妙な面持ちで話す怜に相槌を打ちながらも、梓は怜の優しさに胸の奥を甘酸っぱく震わせていた。
邪魔をしてはと思いつつ、一緒に行きたいとメッセージを送った後、怜は≪じゃあ終わったら○○駅で≫と思いの外すぐに返信を返してくれていた。二人で過ごす時間を怜も楽しみにしてくれていると、そのくらいは自惚れたっていいのだと感じたのだ。
けれど怜は、梓の想像とは異なる理由で表情を曇らせている。自身が受け止めてきた揶揄うような視線を、梓には向けられたくないと言って。
奥を擽っていた愛おしさはついに胸を飛び出して、じんわりと体中に染み渡る。
「ねぇ怜さん、俺は平気ですよ。慣れてるって怜さんは言うけど、俺が盾になってもいいし」
「へ……」
「そのくらい俺は、どうってことないってこと。ね、行きましょ怜さん。今日が来るの楽しみにしてんたでしょ?」
「……うん、梓くんありがとう。じゃあ、一緒に行ってくれる?」
「よし、決まりです」
エスカレーターを上がり、慣れた様子で迷うことなく進む怜の後に梓は続く。
若い女性たちの楽しげな声が至る所から聞こえ、梓は目元を隠すようにまた帽子を被り直す。
好奇の目はいくらでも受けて構わないが、誰にも気づかれる訳にはいかなかった。
「あ、あった」
ぽつりと呟き、ほんの二~三歩を急くように怜が棚に駆け寄る。
怜の目の前には店員が飾ったのだろうポップの横に、美しいイラストで描かれた男の子がこちらに向かって微笑むジャケットのCD。
数人のキャラクターで順番に発売されている新しいシリーズで、今日発売になったばかりのそれを、梓はもう何度目にしただろう。
怜はまるで宝物でも見つけたかのように、しばらく眺めてからそのCDを手に取った。
梓は半歩後ろから、怜の様子を観察するかのように見下ろす。
この瞬間を、この目で見たいと思ってしまったのだ。
「…………」
梓の手より白くて細い指が、帯に書かれた“相山梓”の字をゆったりと辿っている。頬を染める桃色は花が開くように耳の端まで広がり、噛み締めているのかきゅっと結ばれた唇。
怜は本当に相山梓を好きなのだと、纏う空気すら訴えてくる。
あぁ、だめだ。
梓の胸は熱いほどの想いで溢れ返る。
「ん? どうかした?」
「っ、あー、いえ、なんでも」
「ほんと? 顔赤いんじゃない?」
ふと振り返った怜が、梓の顔を見て不思議そうに首を傾げた。けれど、顔が赤いのは怜だってそうだろう。そんな事を言えるわけがないけれど。
マスクの上に手を添え目を逸らし、何でもないと訴えるために首を振るだけで精一杯だ。
怜がこれほど好いている声優・相山梓は、今ここで怜と共にいる梓自身だ。
怜がその事実を知らないとは言え、目の当たりにしたものの衝撃に梓は叫び出してしまいたい。
怜にこんな風に想われたい。声優としてだけじゃなく、ひとりの男として。
早鐘を打つ心臓の部分のシャツを握りこみ、震えたため息にどうにか衝動を散らせる。
「すぐお会計してくる、待っててね」
横顔に注がれる視線に梓が前を向けずにいると、怜はそれだけ言って早足でレジへと向かってしまった。本当に具合が悪いと思わせてしまったのかも知れない。
なにか言うべきだったな。少し混雑したレジの列に並ぶ怜を見ながら後悔していると、梓の視界の端に二人組の女性が映った。なにかを囁き合いながら、チラチラと梓を窺っているように見える。
まずい、気付かれてしまっただろうか。一人の時なら有り難くすら思ったかも知れないが、声をかけられてそれを怜に見られるわけにはいかないのだ。
怜はあとひとりで会計に進めそうだ。レジを確認出来る位置を保ちつつ、梓はキャップを目深に下げ、適当に目の前の商品を手に取る。どうかこのまま、何事もなく過ぎ去って欲しい。
けれど梓の願いとは反し、女性たちもこちらに視線を向けたまま少し距離を詰めてきた。万が一の時は、人違いだと言うのも手か。
頭を過ぎった最悪の事態に冷や汗を流し、CDを棚に戻した時だ。会計を終えた怜が、早足で梓の元へと戻ってきた。
梓がほっと息をついたのも束の間、先ほどより近くに女性たちの姿がある。
ここで怜に名前を呼ばれてしまったら──梓は咄嗟に怜の口を自身の手で覆った。
「ん!? んんっ」
「怜さん、ごめんなさい、しー……ね?」
「っ、」
何事かと目を見開く怜への申し訳なさと、こんな事態だというのに手の平に当たる怜の唇の柔らかさに目眩がしそうだ。
それでも反対の手の人差し指を口元に添え、黙っていてもらえるように頼む。怜は訳が分からないという顔をしながらも、こくこくと頷く。
「怜さん、走ります」
手首をそっと握りこみ、梓はそう耳打ちしてから走り出す。怜は梓のされるがままだ。
エスカレーターへと向かい、怜が転ばないように腰に手を添え二人でステップに乗る。
ふとフロアに目をやると、女性たちの姿が見えない。諦めてくれたか、それとも別のルートで下りてきたりするだろうか。
「怜さん本当にごめんなさい、もう少し走って平気?」
「ん、大丈夫だけど……」
道へと出て、夜空と明るい街灯りの下で怜の顔を覗きこむ。
こうなる事を、少しも想定しなかったわけじゃなかった。アニメなどに特化したショップなのだから、声優の自分の顔を知っている人がいたって何もおかしくはないのだ。
それでも自身のワガママでついてきてしまった。怜の楽しみに水を差してしまったのではないか。
不安な想いが怜へと手を伸ばさせ、梓は縋るかのように怜の手を握る。
「っ、ちょ、梓くん、手……」
「こっちです」
動揺して跳ねる白い指先を、懇願するように親指でひと撫でして走り出す。
店から少し離れるだけで、細い道が入り組む街で助かった。
数回角を曲がり、人気のない小さな公園を見つけてそこに逃げ込む。
道路に背を向け、垣根の影に二人してずるずるとしゃがみこんだ。
「あ、梓くん」
「すみません、はぁ、遅くなりました」
「走って来たの? 慌てなくてよかったのに」
待ち合わせ場所に到着し、梓は膝に手をついて息を整える。
予定より遅くなってしまい、怜の言う通り電車を降りてからは走ってきた。微かに額に浮いた汗を拭き、顔を上げる。
薄手の白いニットで柔和な印象が際立つ怜は心配そうに眉を下げているけれど、これでいいのだ。
早く会いたいと逸る気持ちを抑えられなかった。
この街に二人で訪れたことはまだない。待ち合わせ自体に、浮かれてしまっているのだ。
「俺も楽しみだったんでつい」
「ほんと? 付き合わせて悪いなって思ってたから、そう言ってくれて安心した」
「いっぱい安心してください」
「ふふ、何それ」
それじゃあ行こうかと、二人並んで目的のショップを目指す。
前回会ったのは三週ほど前だったが、その程度空いたところでよそよそしくなりはしない仲を梓は噛み締める。
よく笑うようになった横顔を盗み見ていると時間なんてあっという間で、すぐに目当ての場所に到着した。
ブルーが際立つショップは仕事を終えた人や学校の後なのだろう、多くの人で賑わっている。
マスクを整え、キャップを少し深めに被り直した梓もさっそく中へ入ろうとし、けれど怜が隣にいないことに気づき振り返った。
「ん? 怜さん?」
「え、っと。梓くん、本当に行く?」
少し後ろで怜は立ち止まっていた。
慌てて引き返し顔を覗きこむと、不安げに揺れる瞳が逸らされてしまった。
「行きたいです。でも、怜さんが嫌だったら外で待ってます」
会いたい一心でこうして約束を取り付けたけれど、怜の楽しみを邪魔したいわけではなかった。
なるべく柔らかく響くようにそう言うと、怜は慌てて顔を上げる。
「ううん、違う! 嫌じゃないんだ、えっと……僕は慣れてるからいいんだけど、もし梓くんが変な目で見られたら申し訳ないなと思って」
「変な目?」
「うん、あのね……」
なるほど、男性がいわゆる女性向けのシチュエーションCDを見ていると、好奇の目を向けられることがあるのか。
神妙な面持ちで話す怜に相槌を打ちながらも、梓は怜の優しさに胸の奥を甘酸っぱく震わせていた。
邪魔をしてはと思いつつ、一緒に行きたいとメッセージを送った後、怜は≪じゃあ終わったら○○駅で≫と思いの外すぐに返信を返してくれていた。二人で過ごす時間を怜も楽しみにしてくれていると、そのくらいは自惚れたっていいのだと感じたのだ。
けれど怜は、梓の想像とは異なる理由で表情を曇らせている。自身が受け止めてきた揶揄うような視線を、梓には向けられたくないと言って。
奥を擽っていた愛おしさはついに胸を飛び出して、じんわりと体中に染み渡る。
「ねぇ怜さん、俺は平気ですよ。慣れてるって怜さんは言うけど、俺が盾になってもいいし」
「へ……」
「そのくらい俺は、どうってことないってこと。ね、行きましょ怜さん。今日が来るの楽しみにしてんたでしょ?」
「……うん、梓くんありがとう。じゃあ、一緒に行ってくれる?」
「よし、決まりです」
エスカレーターを上がり、慣れた様子で迷うことなく進む怜の後に梓は続く。
若い女性たちの楽しげな声が至る所から聞こえ、梓は目元を隠すようにまた帽子を被り直す。
好奇の目はいくらでも受けて構わないが、誰にも気づかれる訳にはいかなかった。
「あ、あった」
ぽつりと呟き、ほんの二~三歩を急くように怜が棚に駆け寄る。
怜の目の前には店員が飾ったのだろうポップの横に、美しいイラストで描かれた男の子がこちらに向かって微笑むジャケットのCD。
数人のキャラクターで順番に発売されている新しいシリーズで、今日発売になったばかりのそれを、梓はもう何度目にしただろう。
怜はまるで宝物でも見つけたかのように、しばらく眺めてからそのCDを手に取った。
梓は半歩後ろから、怜の様子を観察するかのように見下ろす。
この瞬間を、この目で見たいと思ってしまったのだ。
「…………」
梓の手より白くて細い指が、帯に書かれた“相山梓”の字をゆったりと辿っている。頬を染める桃色は花が開くように耳の端まで広がり、噛み締めているのかきゅっと結ばれた唇。
怜は本当に相山梓を好きなのだと、纏う空気すら訴えてくる。
あぁ、だめだ。
梓の胸は熱いほどの想いで溢れ返る。
「ん? どうかした?」
「っ、あー、いえ、なんでも」
「ほんと? 顔赤いんじゃない?」
ふと振り返った怜が、梓の顔を見て不思議そうに首を傾げた。けれど、顔が赤いのは怜だってそうだろう。そんな事を言えるわけがないけれど。
マスクの上に手を添え目を逸らし、何でもないと訴えるために首を振るだけで精一杯だ。
怜がこれほど好いている声優・相山梓は、今ここで怜と共にいる梓自身だ。
怜がその事実を知らないとは言え、目の当たりにしたものの衝撃に梓は叫び出してしまいたい。
怜にこんな風に想われたい。声優としてだけじゃなく、ひとりの男として。
早鐘を打つ心臓の部分のシャツを握りこみ、震えたため息にどうにか衝動を散らせる。
「すぐお会計してくる、待っててね」
横顔に注がれる視線に梓が前を向けずにいると、怜はそれだけ言って早足でレジへと向かってしまった。本当に具合が悪いと思わせてしまったのかも知れない。
なにか言うべきだったな。少し混雑したレジの列に並ぶ怜を見ながら後悔していると、梓の視界の端に二人組の女性が映った。なにかを囁き合いながら、チラチラと梓を窺っているように見える。
まずい、気付かれてしまっただろうか。一人の時なら有り難くすら思ったかも知れないが、声をかけられてそれを怜に見られるわけにはいかないのだ。
怜はあとひとりで会計に進めそうだ。レジを確認出来る位置を保ちつつ、梓はキャップを目深に下げ、適当に目の前の商品を手に取る。どうかこのまま、何事もなく過ぎ去って欲しい。
けれど梓の願いとは反し、女性たちもこちらに視線を向けたまま少し距離を詰めてきた。万が一の時は、人違いだと言うのも手か。
頭を過ぎった最悪の事態に冷や汗を流し、CDを棚に戻した時だ。会計を終えた怜が、早足で梓の元へと戻ってきた。
梓がほっと息をついたのも束の間、先ほどより近くに女性たちの姿がある。
ここで怜に名前を呼ばれてしまったら──梓は咄嗟に怜の口を自身の手で覆った。
「ん!? んんっ」
「怜さん、ごめんなさい、しー……ね?」
「っ、」
何事かと目を見開く怜への申し訳なさと、こんな事態だというのに手の平に当たる怜の唇の柔らかさに目眩がしそうだ。
それでも反対の手の人差し指を口元に添え、黙っていてもらえるように頼む。怜は訳が分からないという顔をしながらも、こくこくと頷く。
「怜さん、走ります」
手首をそっと握りこみ、梓はそう耳打ちしてから走り出す。怜は梓のされるがままだ。
エスカレーターへと向かい、怜が転ばないように腰に手を添え二人でステップに乗る。
ふとフロアに目をやると、女性たちの姿が見えない。諦めてくれたか、それとも別のルートで下りてきたりするだろうか。
「怜さん本当にごめんなさい、もう少し走って平気?」
「ん、大丈夫だけど……」
道へと出て、夜空と明るい街灯りの下で怜の顔を覗きこむ。
こうなる事を、少しも想定しなかったわけじゃなかった。アニメなどに特化したショップなのだから、声優の自分の顔を知っている人がいたって何もおかしくはないのだ。
それでも自身のワガママでついてきてしまった。怜の楽しみに水を差してしまったのではないか。
不安な想いが怜へと手を伸ばさせ、梓は縋るかのように怜の手を握る。
「っ、ちょ、梓くん、手……」
「こっちです」
動揺して跳ねる白い指先を、懇願するように親指でひと撫でして走り出す。
店から少し離れるだけで、細い道が入り組む街で助かった。
数回角を曲がり、人気のない小さな公園を見つけてそこに逃げ込む。
道路に背を向け、垣根の影に二人してずるずるとしゃがみこんだ。
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