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エピローグ

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 春の風が東京に吹いて、夏樹の鼻をくすぐる。この街に体ごと馴染むのにはまだ少しかかりそうだが、心のほうは上京したばかりの頃より軽やかだ。特に今日は記念すべき日だから、スキップでもしてしまいそうなくらいに。

 目的地への道すがら、書店に立ち寄る。目当てのメンズファッション雑誌を手に取り、表紙にある文字を指で辿る。

『new! 南夏樹』

 この雑誌の専属モデルに決定したのは、新年を迎えてすぐの頃だった。興奮した様子の前田から電話で報告を受けた時は、感極まって号泣してしまった。沢山レッスン受けて現場でもきちんと挨拶したり……努力が実ったね――前田がかけてくれた言葉をお守りに、ずっと応援してくれている柊吾、晴人や尊、地元の友人たちのことを胸に臨んだ専属としての初仕事がこの一冊に詰まっている。まだまだ駆け出しでほんの数カットではあるが、一生の宝物にするつもりだ。

 会計を済ませ、向かう先は事務所だ。スタッフたちに今日も大きな声で挨拶をし、早川の元へと進む。おはようございます! と下げかけた頭を、けれど夏樹は途切れてしまった挨拶と一緒に途中で止めてしまった。あんぐりと開いた口を閉じることが出来ない。

「しゃ、社長! これ! え!?」
「はは、いいでしょ。柊吾に無理言ってデータもらってね、引き伸ばしてみたんだ」
「うわあ……」

 早川のデスクの真横に貼られた大きなポスター。モノクロで印刷されたそこには夏樹と、それから柊吾の姿が写し出されている。昨年の十二月に撮影した、naturallyのカタログのカットだ。柊吾の顔が見えないギリギリの角度、頬にキスをしている――ように見せかけた――ふたりのピアスが共に煌めいて、よく映えている。

「めっちゃかっこいい……オレもこれ欲しかぁ」
「そう言うと思って、南くんの分も作ったよ。はい」
「え!? マジっすか! 社長マジ神……うう、ありがとうございます!」

 naturallyのカタログの写真を夏樹が見るのは、これが初めてだ。丸められたポスターを丁寧に受け取り、デスク横の同じものを改めて眺める。撮影の日のことはもう何度も思い返しているが、こうして形になったところを見ると更に感慨深いものがある。

「あとこっちも忘れずにね。メインのカタログ」
「わ、ありがとうございます!」
「ホームページは今日の夕方に更新されるそうだ。イメージを見せてもらったけど、トップに南くんの写真が配置されてたよ。カタログも時間を合わせて店頭に置き始めるそうだ」
「うわー、めっちゃ嬉しいっす。泣きそう……」
「南くんの専属デビューとnaturallyのカタログ解禁が同じ日になるなんてね。偶然とはいえ、これは必ず南くんにもnaturallyにもメリットが生まれる。どちらも話題性があるからね。最高のかたちになったよ」
「はい。なんかこう、背筋が伸びる感じがします」
「ああ、そうだね。改めておめでとう、南くん。私も心から嬉しいよ。これからがまた勝負の連続だ、頑張ってね。応援してるよ」
「はいっす!」

 ソファに座るように促され、淹れてもらったコーヒーを甘くして飲む。夏樹が雑誌を持っていることに気づいた早川は、事務所にも届くのにと笑った。記念の一冊なので、と夏樹が言うと、柊吾と晴人も同じことをしていそうだ、なんて言ってくれた。

「柊吾と言えば、まさかまたカメラの前に立つとは思わなかったよ。何度誘っても二度とやらないって言ってたのにね」
「オレも実はもうやらないんですかって聞いたことあるんすけど、同じこと言われました。でもカタログは相手役のモデルが見つからなかったんすよね。嫌なのに体張ってすげーって思いました」
「……アイツがそう言ったのかい?」
「…………? はい。撮影の時にそう聞きました」
「へえ……南くん。こっち」

 早川に手招かれ、夏樹は素直に顔を寄せる。すると驚きの事実が耳打ちされ、夏樹はつい大声をあげてしまった。スタッフの人たちが何事かとこちらを見て、慌てて口を手で押さえる。

「え、マジっすか?」
「マジだよ。はは、何隠してんだか」
「オレ聞いてよかったんすかね」
「いいんだよ。モデル事務所社長の誘いを断り続けたんだから、このくらいのことは大目に見てもらわないと」

 どこか少年のように笑う早川に夏樹も笑い返し、だがその実、心の中は大騒ぎの状態だ。今すぐ柊吾に会いたい、早くあのマンションへ帰りたい。だが今日はまだやることがあると、ぐっと堪える。


 そのまま事務所で昼食を取り、雑誌を持って撮影した写真と共に、専属デビューの日を迎えたことをSNSで報告。その後は一旦前田と編集部に向かい、挨拶と今後のスケジュールを確認してから再び事務所へ。naturallyからの要請通り、18時に再びSNSを更新。

 それらを済ませた夏樹は、事務所を飛び出るように帰宅した。一刻も早く柊吾に会いたかった。

 マンションに戻ると、晴人が出掛けようとするところだった。専属おめでとう! とハグをされ、夏樹も抱きしめ返す。夏樹と柊吾が晴れて恋人になった後、晴人がマンションを出ようとしたことはまだ記憶に新しい。絶対いやだ! と夏樹は涙目で縋り、お前が気遣いとか気持ち悪いからやめろ、と柊吾は眉を寄せた。前から決めてたのに、なんて言いつつ、変わらずにいてくれる晴人が夏樹は大好きだ。

 晴人を見送り、リビングへと進む。そこにはもちろん、柊吾の姿があった。今日はホームページの更新作業のために、早く帰宅すると聞いてあった。だが、予想とは随分違う顔をしている。祝福してもらえると自惚れていたのだが、何故かぎゅっと眉間を寄せているのだ。

「あれ? 柊吾さん? どうしたんすか……? わっ」

 問いかけに答えはなく、突然抱きしめられてしまった。柊吾との触れ合いに慣れるということは一向になく、心拍が一気に上がり愛しさに胸は苦しくなる。

「柊吾さん?」
「……夏樹に触られんの、ムカつく」
「へ……? あ」

 どうやら先ほどの晴人とのハグを見られていたのだと気づく。嫉妬をさせてしまったのだろう。いつか晴人が『“幼なじみに初めての恋人が出来たと思ったら、溺愛系過保護カレシになっていた件”って本書けそう! いや過保護は前からか!』なんて笑っていたのを思い出す。柊吾は怒っていたが、夏樹はあながち間違っていないと思っている。こんなに愛されて、大切にされている。そう実感出来る恋を柊吾としているから。

「柊吾さん、キス、したい」
「……ん」

 少し背伸びをして、柊吾のくちびるにくちづける。するとすぐ柊吾のほうからもキスが返ってきて、やめられないままに抱きあげられる。向かう先はソファで、腰を下ろした柊吾は膝に乗せた夏樹へキスをし続ける。

「柊吾さん……んっ」
「夏樹、可愛い」
「は、あっ……」

 首筋や頬、耳など至るところにキスをされるのがすごく好きだ。その上可愛いだなどと囁いて、愛を滾々と注がれたらもう堪らない。もっと柊吾が欲しくなる。夏樹のほうからも耳に口づけ、そこでふと気づく。柊吾の耳を飾っているピアスはあの日、カタログ撮影の日につけていたものだ。

「そうだ柊吾さん、社長に聞いたんすけど」
「んー?」
「あっ、柊吾さ、そこ摘まんだらだめ」
「でも好きだろ。もうぷっくりしてる」
「んっ……好き、でも待って」
「ん。どした?」

 シャツの中を這い上がってきた指の動きが止まる。でも優しく聞き返してくれたのとは裏腹に、拗ねているのかもしれない。触れられるのを待っているそこに指は添えられたままで、それに息を上げながら夏樹はどうにか言葉を紡ぐ。

「カタログの、相手役、早川所属のモデルさん、社長が色々紹介したって」
「…………」
「柊吾さんあの時、見つからなかったって。だから自分がすることにしたって言ってたのに……」
「あー、あの社長……ったく。うん、色んな男勧められた。でも……どうしても俺がやりたかったから」
「そうなんだ。やっぱりモデルやってみたくなったってこと?」
「いや、違う」

 じゃあどういう意味だろう。夏樹が首を傾げた時、シャツの中で待てを食らっていた指が蠢き始めた。きゅうっと摘まんで、そっと押しつぶすように捏ねられる。

「あっ! 柊吾さっ」
「だって嫌じゃん」
「……え?」

 抱きしめられたかと思うと、耳にくちびるが寄せられた。リップ音が一度響いて、恥ずかしそうな声色で甘くささやかれる。

「夏樹の恋人役。誰にも譲りたくなかった」
「へ……」
「恋人のフリだろうが絶対に、そんなの嫌じゃん。夏樹……んっ」
「~~……――っ!」

 名前を注ぎ込みながら、いつの間にか腰に回っていた手にそこをぐっと抱きこまれ、下から硬いものを強く押しつけられる。声にならない声が喉を抜け、鼻の奥がツンと痛みだす。

「もしかしてイッた?」
「わ、かんない、なにこれぇ……柊吾さん、ほしい、おねがい」
「ん……」

 柊吾に好きと言われる度、愛されていると実感する度――それだけで気持ちがよくて、もっともっと近くに行きたくなる。それはつまり、毎日のように求めてしまうということで。今日は長いこと離れられないだろうなとぼんやりしていく頭で夏樹は思う。だってあの撮影の時、いやもっと前から、そんな風に独占欲を向けられていたなんて知ってしまったのだから。夏樹だって負けないくらいに大好きだが、とことん愛して嫌というほど感じてもらわないと、今夜は気が済みそうにない。


 ソファに崩れ落ちるふたりの後ろ、夏樹のバッグの中でスマートフォンは止まない通知に静かに点滅し続けている。南夏樹というモデルとnaturallyというアクセサリーブランドの名が、少しずつ広がってゆく。情報が溢れる世では、流れ星のように一瞬で見失う人も多いだろう。けれど、ロードスターに住まうふたりの光は、着実にひとりひとりの誰かの胸に届き始める。

 無論今は、当のふたりにそれを知る由はないけれど。
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