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カケラを集める

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 百聞は一見に如かずということで、夏樹はさっそく撮影現場へ見学に行くこととなった。晴人が専属モデルを務める雑誌の撮影だ。朝早くにマネージャーが迎えにやって来て、晴人に起こされた夏樹もその車に乗りこんだ。朝には戻ると言っていた柊吾は、まだ家にはいなかった。

「南くん初めまして。早川モデルエージェンシーでマネージャーをやっています、前田まえだです」
「は、初めまして! 南夏樹です! 今日はよろしくお願いします!」
「はは、元気でいいね」

 車内で頭を下げると、前田はバックミラー越しに微笑んでくれた。出逢いに恵まれていると今日も感じることが出来る。それはとても幸せなことだ。

 現場までの道すがら前田はなにかと話題を振ってくれて、スマートフォンを操作しながら晴人も時折会話に入ってきた。地元のことや東京のこと、それからモデルという仕事のこと。夢がひとつ叶ったと思っていたが、事務所への所属がゴールではないこと。頭では分かっていたつもりだったが、ここからが本当の勝負なのだと背筋が伸びる。

「そう言えば南くん、椎名くんにも会いましたか?」
「あ、はい! えっと、会いました」

 柊吾の名前に、一瞬にして様々な感情が湧き上がる。今は長年抱えた憧れより、昨夜自分が引き起こしたことによる緊張感のほうが強い。知らずのうちに体が強張る。

「彼も喜んでたでしょ」
「え?」
「だってほら、南くんのことは椎名くん……」
「ねえねえ前田さん、今日って社長忙しいんだっけ?」

 柊吾が喜ぶとはどういう意味だろうか。夏樹が意図を掴み切れないうちに、前田の言葉を遮るように晴人がそう尋ねた。

「社長ですか? 今日はそこまでではなかったと思いますよ」
「ほんと? ちょっと話したいことあってさー電話で全然いいんだけど」
「私のほうで確認しておきましょうか?」
「うん、そうしてもらえると助かる」
「了解です。現場につき次第連絡してみますね」

 口にしかけたことを忘れてしまったのか、その後前田から柊吾の話は出なかった。気にはなったのだが、晴人が繰り広げる話に車内は盛り上がり、柊吾との間に気まずさを抱えている夏樹は訊くことが出来なかった。

 到着したスタジオでは、目に入ってくるもの全てが新鮮で勉強になった。今日の撮影は夏に発売される表紙のもので、カメラマンにヘアメイク、衣装担当などたくさんのスタッフが忙しそうに動いていた。着替えをくり返し、シャッターが切られる毎に晴人は様々なポーズをとる。夏樹が感嘆の声を漏らす度、前田も誇らしそうだった。撮られた枚数は最終的に数百枚に及ぶ長丁場だったが、晴人が口を開けば現場には笑顔が広がった。皆の心を煌めかせる晴人は、人柄まで真のトップモデルだった。


 マンションに戻る頃には、もう日も暮れて十九時を回っていた。緊張からか見学だけでもくたびれたのに、主役だった晴人はけろりとしている。体力はあるほうだと思っていたが、もっと鍛えなければと気が引き締まる。

「ただいま~」
「ただいまです」

 リビングには明かりが点いていて、玄関までいい匂いが漂っている。柊吾がいるということだ。思わず立ち止まると、大丈夫だよと晴人が手を背に添えてくれた。優しさが沁みるものの、どうしたって不安でいっぱいだ。だがこのままでは駄目だ。ごくりと大きく息を飲み、おずおずと扉を開く。するとキッチンには柊吾の姿はなく、窓の向こう、ベランダに大きな背が見えた。明るい夜の街に、たばこの煙が吸いこまれてゆく。その光景が何故だか妙に切なくて、怯えている場合じゃないと胸がざわついた。

「っ、椎名さん!」

 窓まで走り、開けながら声をかける。びくりと跳ねた体が、気まずそうに振り返った。

「……おう、おかえり」
「っ、ただいま、です。あの、あのオレ……昨日は本当に! すみませんでした!」
「……いや、俺のほうこそ怒鳴ったりして悪かった」
「椎名さんは何も悪くなかです! オレが、オレが勝手なこと言いすぎたけん、悪かとは全部オレです。本当に、ごめんなさい」
「夏樹……」
「許してもらえんくても、仕方ないと思ってます。でもあの、椎名さんは本当に何も悪くないけん、気に病まんでほしくて、えっと……」

 思っていることはちゃんと胸にある。柊吾の心がもう痛まないために、出来ることなら何でもしたいのだ。だが傷つけた自分がその術を持つはずもなく、上手く言葉にならなかった。消えてゆく声と一緒に俯くしか出来ない。そんな夏樹の肩に、後ろから近づいて来た晴人が手を置いた。

「はいはい、ふたりともそんな難しい顔しなーい」
「でも……」
「夏樹はどうしたい? 柊吾と仲直りしたい? したくない?」
「……っ、出来るならしたい、です」
「うんうん。じゃあ柊吾は?」
「……夏樹が許してくれるなら、俺も」
「オレは許すとか許さないとかじゃなかです!」
「はい、決まり~。仲直り完了な。なんかそういうとこ似てるね、柊吾と夏樹って」

 夏樹と柊吾をそんな風に一括りにして、お腹空いたー! と晴人はすぐにリビングへと引っこんでしまった。晴人の明るさに呆気に取られていると、ふと柊吾と目が合った。すると柊吾もぽかんと口を開けていて。揃いの表情に可笑しくなって、どちらからともなく笑顔がこぼれる。ああ、空気が解けてきた。安堵した夏樹の頭を、柊吾がくしゃくしゃと撫でる。

「ありがとな、夏樹」
「っ、お、オレも! ありがとうございます!」
「……うん。じゃあ飯にするか。オムライス、準備してある」
「ええ、マジっすか? オレ泣きそう」
 

 すでに出来上がっていたチキンライスに、つくり立てのとろとろたまごが乗せられていく。ソースは他にも用意してあったが、ケチャップをかけてもらった。柊吾特製のオムライスを頬張りながら、夏樹は幾度となく涙も一緒に飲みこんだ。柊吾は夏樹が帰宅する前から、つまり仲直りする前から夏樹の好物を準備してくれていたということだ。優しさに感極まってしまうのも無理はない。喉にひっかかる涙が邪魔をしたはずなのに、世界でいちばん美味しいオムライスだった。

 三人分の皿を夏樹が洗い終わる頃、晴人は風呂に入ると言ってリビングを出ていった。ふたりになった空間で、柊吾が夏樹を手招く。

「夏樹、そこ座ってくれる?」
「はい!」

 どうしたのだろう。少しかしこまった雰囲気に、椅子に腰を下ろしながら姿勢を正す。再びの緊張感に胸を強張らせていると、どこか言いづらそうにしていた柊吾が口を開いた。

「あのさ、俺、お前の世話係をすることになった」
「へ……世話係?」
「そう。まあ俺は事務所の人間じゃないし、生活面のサポートって感じだな」
「はあ……」

 柊吾の言わんとすることが上手く噛み砕けず、夏樹は首を傾げる。それを見た柊吾が、向かいで小さく笑う。

「意味分かんないよな。俺も急な話だったから正直驚いてる。……てかそんなん言われなくても、って感じだし」
「は、い……?」
「夏樹。晴人に聞いてると思うけど、この家は晴人のとこの事務所のもんだから家賃は要らない。でも、食費は入れてもらう。月に二万……いや、一万。俺が作るのでいいならの話だけど」
「あ、はい! 椎名さんのごはんが食べたいです!」
「ふ、了解。じゃあその金だけど、夏樹はまだ事務所に所属しただけで仕事があるわけじゃない。だからバイトするしかないな」
「っす! 探さなきゃと思ってました!」
「そっか、偉いな。でもな夏樹、お前が本当にモデルで食っていけるようになりたいなら、レッスンはちゃんと受けたほうがいい。レッスン先は事務所で紹介してくれるらしいから、そういうのも考えてバイト先は決めろ」
「はい! えっと、でもなんで椎名さんが?」

 柊吾がかけてくれる言葉に、もう学生ではない、これから先ひとつひとつの選択がダイレクトに将来へ関わるという実感がふつふつと湧いてくる。だがそういうことを教えてくれるのは、それこそ事務所の人や先輩なのだと思っていた。夏樹にとって面識のある先輩と言えば晴人になるが、こうして柊吾が様々なことをアドバイスしてくれている。それが不思議だった。

「早川社長に頼まれたんだ」
「社長から?」
「俺もあの社長にはちょっと世話になっててさ」
「そうなんすか?」
「うん。あー……夏樹がその、気に入ってくれてる雑誌に載った時……」
「っ!」
「夏樹、ファンモード出てる」
「だ、だって! こぼれ話の気配が! ……うう、オレ本当にずっと好きやったけん、仕舞える自信がないっす」
「はは、まあいっか、特別な。あの時さ、晴人がどうしてもって言うから仕事に着いてったら、急遽他のモデルが来られなくなってその場にいた社長に頼まれたんだけど。それで知り合って、って感じ」
「ほええ……え、でもそしたらモデルにならないかって言われません!?」

 なるほどなるほどと頷きながら、夏樹は訊かずにはいられなかった。自分が社長の立場でも柊吾に出てくれないかと打診しただろうし、何ならアクシデントに見舞われなくてもスカウトしたに違いない。だがこの色男をよく一度で手放したなと思う。あの紙面の柊吾に射抜かれたのが夏樹だけのはずがない。そう確信するだけの魅力があった。

「本格的にやってみないかとは確かに言われた。今もたまに言われるけど……まあさすがにもう冗談だろ」
「やっぱり! えっと、もうやらないんですか?」
「ないな」
「そんなあ……絶対?」
「絶対。モデルってすごい仕事だと思うよ。晴人見てると余計に」
「……オレも今日、撮影にお邪魔させてもらって、改めて思いました。晴人さんマジかっけーしすげえ人だなって」
「だよな。でも俺は表に出るの好きじゃないし。今アクセサリーショップで働いてるんだけど、それが天職だと思ってるから」
「そっか……オレ、椎名さんと一緒に仕事するのも実は密かに夢だったんすよね」
「そうか。叶えてやれなくてごめんな?」

 もしも憧れの人がモデルを続けていたらいつか一緒に――と夢を見ずにはいられなかった。だがそれは、随分早いうちに諦めていた。本当に血眼になって探したから、この業界にはいないのだと理解したからだ。それでもそんな話を聞いてしまえば、思い出してしまうのも無理はなかった。

 だが弁えられる。天職に出逢えた柊吾の邪魔をしたいわけではない。そんな夏樹に片眉だけをくっと上げながら、柊吾が宥めるように髪をくしゃくしゃと撫でてくる。謝らないでくださいよ、と笑い合うことで、中学生の夏樹の夢は夜空へと昇っていった。
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