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憧れの人
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来た道を戻って、違う路線の電車に乗って三駅。歩いてきた道はまだ覚えられそうにないが、いずれ見慣れたものになるのだろう。
「はい、ここだよ」
「え……ここっすか!? このでっかいマンション!?」
「そーう」
指差されたマンションを見上げ、夏樹は目を疑った。こんなに階の高い建物は、地元の町内では見たことがない。ここに住む? オレが? 現実味がなく立ち尽くす夏樹を、先にエントランスへ入っていた晴人が手招く。
「色々驚いてくれて楽しいわ」
「こんな凄いとこだと思っとらんくて!」
ふたりを乗せたエレベーターはぐんぐんと上がっていく。案内されたのは十階の部屋だ。
「ここが今日から夏樹の家だよ」
「か、金持ちの家だ……えっと、晴人さんの家ですか? かなり広いっすよね?」
「いやー俺、生活能力ゼロでさ。ひとり暮らしは無理だろってことで、幼なじみと住んでるんだけど。じゃあどうせだから広いとこにして、新人くんに一部屋貸す用にしてよって叔父さんに言われてさ。つまりここは事務所のもん」
「なるほど」
だだっ広い玄関の先には廊下が続いていて、両サイドに扉が3つある。突き当たりのガラスがはめ込まれた扉の手前が、洗面所と風呂。実家とは比べものにならないほど広く、置かれている洗濯機はドラム式だ。
「こっちがリビングね。ただいまー」
「おかえり」
ガラスの向こうはリビングのようで、そこから男の人の声が聞こえてきた。さきほど晴人が言っていた、幼なじみの人だろう。失礼があってはならない、と背筋が伸びる。そもそもルームシェア自体が今日聞いたばかりなのだから、ずっと緊張続きだ。ごくりと息を飲んで、勢いに任せてリビングへと入る。その人と目を合わせるよりも先に、ガバリと頭を下げた。
「は、初めまして! 南夏樹と言います! これからお世話になります!」
「なあ柊吾、めっちゃいい子だろ?」
「今どきちゃんとしてんな。おーい、もういいから顔上げな」
気さくな声が、夏樹を既に受け入れている。この人たちとなら、楽しい生活が出来そうだ。安堵した夏樹は、いやー母ちゃんに挨拶はきちんとしろって言われたんすよ、なんて笑おうと考えたのだが。顔を上げ目に入ったその人の姿に、雷にでも打たれたかのような衝撃を覚えた。体がぴしゃりと固まってしまう。
「俺は椎名柊吾。晴人と同い年だ。これからよろしくな」
「…………」
「…………? おーい。聞いてる?」
聞こえている。何なら、握手を求める手もきちんと見えている。だが夏樹は、はいよろしくと応えられる心境ではなかった。
髪型などの変化はあるが、ポケットのスマートフォンを取り出して、ロック画面と見比べる必要もない。夏樹の胸に流れ星のごとく落っこちてきたまばゆい光は、脳裏にまぶたに、心の特等席に焼きついているからだ。
「……え、夢?」
「お、喋った」
「夏樹ー? どした?」
思わず後ずさった体が、ガラスの扉にぶつかった。だがそんな事は気にしていられず、ぱくぱくと金魚のように開閉する口からようやく言葉を紡ぎ出す。
「オレ……ずっと憧れてて」
「そうなん? 嬉しい~」
「いや、えっと、晴人さんじゃなくて……」
「え、ショック」
「あ……うわあ! すみません! 違うんです晴人さんのことも大好きです! 晴人さんが専属の雑誌、ずっと買いよります!」
「あは、よかった。でもじゃあなに? 憧れって、柊吾が?」
「っ、は、はいぃ……」
「…………? 俺一般人だけど」
「っ、あの、でもあの、雑誌に載ってましたよね! 五年前、の、夏……」
モデルになりたい、と夏樹が強く思ったのは他でもない。今目の前にいる男――椎名柊吾と名乗ったその人がきっかけだった。おしゃれに興味が出てきて、初めてメンズファッション雑誌を購入した中学生の夏のことだ。近場のショッピングセンターでは入手出来そうにない、服やアクセサリーにワクワクしながらページを捲っていた時。とあるページでその手は止まってしまった。そこに映るモデルの男性に強く惹かれたからだ。
「あー、それは……」
「…………? あの、これ! オレあん時から、機種変してもずっと待ち受けにしてて!」
話を切り出すと、柊吾は何故か苦々しい顔を見せた。どうしたのだろうか。夏樹は縋るようにスマートフォンを取り出した。ロック画面を光らせて、ほら! と柊吾と晴人の目の前に差し出す。
この雑誌を買った日は間違いなく、夏樹にとって運命の日だった。憧れは日に日に強くなるばかりで、貯めていたおこづかいで同じ雑誌を三冊買い足した。この人と同じ髪型にしてくださいと理髪店に駆けこみもした。今も夏樹を飾るウルフショートはそれ以来ずっと続けている髪型で。それほどに惚れに惚れた、夏樹にとって今も揺るぎなく、この世でいちばん格好いい男なのだ。
「……マジか」
「はい! 本当にずっと好きで、でもこの後どの雑誌見ても載っとらんくて! オレ、この雑誌の出版社に思い切って電話かけたんすよ! でも名前も教えられんて言われて……さっき急に聞いちゃったんで、ぶっ倒れるかと思いました! あの、名前もかっけーっすね!」
困ったような色を孕みながらも、柊吾が少し笑ってくれたことに安堵する。
「わーお、情熱的。めっちゃ愛されてんじゃん柊吾」
「今の髪型もかっこよか……オレもそれにしようかな」
雑誌で出逢った憧れの男――もとい椎名柊吾は、秋のトレンドを先取りで紹介するページに載っていた。青年一歩手前のわずかなあどけなさと、男の色気。そのバランスはどこか危うくて、惹かれずにはいられなかった。
当時の柊吾は、茶髪のウルフショート。だが今は肩まである髪をハーフアップにしていて、下半分は綺麗な黄金色だ。耳にはいくつものピアス、指輪もいくつかついていて派手な印象を受ける。憧れの人の情報が、現在進行形で目まぐるしくアップデートされてゆく。洗練された男らしさに、これ以上はもうないと思っていた憧れは増してゆくばかりだ。身長は晴人とほぼ同じ、性格は今のところ気さくな空気が感じ取れる。うっとりと見惚れていると、晴人が柊吾を肘で小突いた。
「なあ、あれ教えてやれば?」
「あれって?」
「そんなん決まってんじゃん。ほら、柊吾が夏樹の……」
半ばぼんやりとしていた意識が、晴人から名を呼ばれたことで引き戻される。視線をふたりへ向けると、晴人に耳打ちをされながらどこかうんざりとした顔で柊吾がこちらを見ていた。何かは分からないがショックだ。
「あー……いや、言いたくない。お前も言うなよ晴人」
「えーなんで。面白そうじゃん!」
「やだっつってんの」
「…………? えーっと」
はあ、と柊吾にため息をつかれ、夏樹の肩が大きく跳ねる。だがそんなのはお構いなしとでも言うように、再び握手を求められた。
「今のはなんでもない、気にすんな」
「……はい」
「それより。改めてよろしくな、夏樹」
「っ、ひぇ、名前呼ばれた……」
「あー、そのファンモードは仕舞ってくれると助かる」
「それは無理っすよ~!」
「ふ、お前面白いな。ほら、握手」
「っ、はいっ、よ、よろしくお願いします! えっと、椎名、さん!」
憧れの人に名前を呼ばれ、知ったばかりのその名を生まれて初めて口にして。血液がつま先から駆け昇ってきたような感覚に、夏樹の頬は瞬時に色づいた。両手で握った手はあったかくて、憧れの男の存在を肌で感じられたことにまた感動してしまう。
「じゃあまずは片づけだな。さっき受け取って、とりあえず夏樹が使う部屋に入れといたから」
「あ、あざっす!」
「おい晴人、逃げんのはナシな」
「あは、バレた?」
「お前の後輩だろうが。手伝ってやれよ」
「まあねー。でも責任としては柊吾と半々だと思うけど」
「……晴人」
「…………?」
ふたりの会話の真意は分からないまま、まずはと家の中を案内してくれた。3LDKのマンションはリビングの奥に晴人の部屋、廊下にあったふたつの扉のうちリビングに近いほうが柊吾の部屋。そして夏樹の部屋だよと案内されたのは、玄関にいちばん近い部屋だ。シングルのベッドとデスクが既に置かれていて、自由に使っていいとのことだ。新人用にと確保された部屋だが、入所する者たちは東京近辺に元から住んでいる者ばかりで、まだ誰も住んだことはないらしい。
柊吾と晴人が段ボールを開封してくれて、中身を夏樹が選別する。「それは俺がやるよー」と晴人が立候補してくれたので、衣類をクローゼットに仕舞う作業をお願いした。新品を購入して送ってあった布団セットは、掛布団だけでいいよなと柊吾がベッドにセットしてくれた。毎日拝みながら寝ることになりそうだ。
それにしても夢を見ているみたいだと、柊吾との出逢いに改めて夏樹は思う。雑誌では、終ぞ一度しか見られなかったのだ。東京に来ればどこかで会えるかもとの期待が1パーセントもなかったと言ったら嘘にはなるが、まさか実現するとは思っていなかった。それもこんなに早く、上京したその日に。
「夏樹ー、終わったよー。お、それなに? くま?」
「へ……あ、はい! オレ熊本から出てきたんですけど、地元の“ふにゃくま”っていうゆるキャラです」
「ふうん。熊本ってもっと有名なヤツいなかったっけ。ほらあの黒いの」
いつの間にか片づけは、夏樹が受け持ったものだけになっていたようだ。デスクに置いたぬいぐるみを、晴人が手に取る。
「あれがやっぱ有名っすよね! どこ行ってもいますもん。ふにゃくまは全然マイナーなんすけど、オレ好きで」
全国的にも有名な我らの代表の陰で、熊本をまっすぐに愛すふにゃくまが不思議と昔から好きだった。薄い緑の体に、ふにゃりと緩んだ笑顔が特徴だ。晴人に撫でられているふにゃくまの鼻をツンとつつくと、柊吾も覗きこんできた。すぐそばに憧れの顔が現れて、心臓の位置がズレてしまったかもしれない。
「へぇ、こいつ可愛いな」
「え、マジすか!?」
「うん。俺もこっち派かも」
「うわあ……」
褒められたのはふにゃくまなのに、まるで自分のことのようにテンションが上がってしまう。ぐりぐりと撫でられるふにゃくまが心底羨ましい。その光景に赤くなってしまったらしい頬を晴人に茶化されて、そんな夏樹たちを柊吾が眉を下げて笑う。
「ほら、そろそろ飯にすんぞ。昼ももう大分過ぎたけどな。晴人、夏樹と飲み物買ってきて」
「はいはい。じゃあ夏樹、近くにコンビニあるから行こっか」
「っす!」
お気に入りのシャンプーや、歯ブラシセットだとか。こまごまとしたものがまだ段ボールに入ったままだが、それらはまた後でやればいい。夏樹の手に返ってきたふにゃくまをやっぱりこっちかなとベッドヘッドに置き直して、扉前で待ってくれているふたりに駆け寄る。買い出しを任されたことで、自分もこの家の一員になれたみたいで嬉しい。
「はい、ここだよ」
「え……ここっすか!? このでっかいマンション!?」
「そーう」
指差されたマンションを見上げ、夏樹は目を疑った。こんなに階の高い建物は、地元の町内では見たことがない。ここに住む? オレが? 現実味がなく立ち尽くす夏樹を、先にエントランスへ入っていた晴人が手招く。
「色々驚いてくれて楽しいわ」
「こんな凄いとこだと思っとらんくて!」
ふたりを乗せたエレベーターはぐんぐんと上がっていく。案内されたのは十階の部屋だ。
「ここが今日から夏樹の家だよ」
「か、金持ちの家だ……えっと、晴人さんの家ですか? かなり広いっすよね?」
「いやー俺、生活能力ゼロでさ。ひとり暮らしは無理だろってことで、幼なじみと住んでるんだけど。じゃあどうせだから広いとこにして、新人くんに一部屋貸す用にしてよって叔父さんに言われてさ。つまりここは事務所のもん」
「なるほど」
だだっ広い玄関の先には廊下が続いていて、両サイドに扉が3つある。突き当たりのガラスがはめ込まれた扉の手前が、洗面所と風呂。実家とは比べものにならないほど広く、置かれている洗濯機はドラム式だ。
「こっちがリビングね。ただいまー」
「おかえり」
ガラスの向こうはリビングのようで、そこから男の人の声が聞こえてきた。さきほど晴人が言っていた、幼なじみの人だろう。失礼があってはならない、と背筋が伸びる。そもそもルームシェア自体が今日聞いたばかりなのだから、ずっと緊張続きだ。ごくりと息を飲んで、勢いに任せてリビングへと入る。その人と目を合わせるよりも先に、ガバリと頭を下げた。
「は、初めまして! 南夏樹と言います! これからお世話になります!」
「なあ柊吾、めっちゃいい子だろ?」
「今どきちゃんとしてんな。おーい、もういいから顔上げな」
気さくな声が、夏樹を既に受け入れている。この人たちとなら、楽しい生活が出来そうだ。安堵した夏樹は、いやー母ちゃんに挨拶はきちんとしろって言われたんすよ、なんて笑おうと考えたのだが。顔を上げ目に入ったその人の姿に、雷にでも打たれたかのような衝撃を覚えた。体がぴしゃりと固まってしまう。
「俺は椎名柊吾。晴人と同い年だ。これからよろしくな」
「…………」
「…………? おーい。聞いてる?」
聞こえている。何なら、握手を求める手もきちんと見えている。だが夏樹は、はいよろしくと応えられる心境ではなかった。
髪型などの変化はあるが、ポケットのスマートフォンを取り出して、ロック画面と見比べる必要もない。夏樹の胸に流れ星のごとく落っこちてきたまばゆい光は、脳裏にまぶたに、心の特等席に焼きついているからだ。
「……え、夢?」
「お、喋った」
「夏樹ー? どした?」
思わず後ずさった体が、ガラスの扉にぶつかった。だがそんな事は気にしていられず、ぱくぱくと金魚のように開閉する口からようやく言葉を紡ぎ出す。
「オレ……ずっと憧れてて」
「そうなん? 嬉しい~」
「いや、えっと、晴人さんじゃなくて……」
「え、ショック」
「あ……うわあ! すみません! 違うんです晴人さんのことも大好きです! 晴人さんが専属の雑誌、ずっと買いよります!」
「あは、よかった。でもじゃあなに? 憧れって、柊吾が?」
「っ、は、はいぃ……」
「…………? 俺一般人だけど」
「っ、あの、でもあの、雑誌に載ってましたよね! 五年前、の、夏……」
モデルになりたい、と夏樹が強く思ったのは他でもない。今目の前にいる男――椎名柊吾と名乗ったその人がきっかけだった。おしゃれに興味が出てきて、初めてメンズファッション雑誌を購入した中学生の夏のことだ。近場のショッピングセンターでは入手出来そうにない、服やアクセサリーにワクワクしながらページを捲っていた時。とあるページでその手は止まってしまった。そこに映るモデルの男性に強く惹かれたからだ。
「あー、それは……」
「…………? あの、これ! オレあん時から、機種変してもずっと待ち受けにしてて!」
話を切り出すと、柊吾は何故か苦々しい顔を見せた。どうしたのだろうか。夏樹は縋るようにスマートフォンを取り出した。ロック画面を光らせて、ほら! と柊吾と晴人の目の前に差し出す。
この雑誌を買った日は間違いなく、夏樹にとって運命の日だった。憧れは日に日に強くなるばかりで、貯めていたおこづかいで同じ雑誌を三冊買い足した。この人と同じ髪型にしてくださいと理髪店に駆けこみもした。今も夏樹を飾るウルフショートはそれ以来ずっと続けている髪型で。それほどに惚れに惚れた、夏樹にとって今も揺るぎなく、この世でいちばん格好いい男なのだ。
「……マジか」
「はい! 本当にずっと好きで、でもこの後どの雑誌見ても載っとらんくて! オレ、この雑誌の出版社に思い切って電話かけたんすよ! でも名前も教えられんて言われて……さっき急に聞いちゃったんで、ぶっ倒れるかと思いました! あの、名前もかっけーっすね!」
困ったような色を孕みながらも、柊吾が少し笑ってくれたことに安堵する。
「わーお、情熱的。めっちゃ愛されてんじゃん柊吾」
「今の髪型もかっこよか……オレもそれにしようかな」
雑誌で出逢った憧れの男――もとい椎名柊吾は、秋のトレンドを先取りで紹介するページに載っていた。青年一歩手前のわずかなあどけなさと、男の色気。そのバランスはどこか危うくて、惹かれずにはいられなかった。
当時の柊吾は、茶髪のウルフショート。だが今は肩まである髪をハーフアップにしていて、下半分は綺麗な黄金色だ。耳にはいくつものピアス、指輪もいくつかついていて派手な印象を受ける。憧れの人の情報が、現在進行形で目まぐるしくアップデートされてゆく。洗練された男らしさに、これ以上はもうないと思っていた憧れは増してゆくばかりだ。身長は晴人とほぼ同じ、性格は今のところ気さくな空気が感じ取れる。うっとりと見惚れていると、晴人が柊吾を肘で小突いた。
「なあ、あれ教えてやれば?」
「あれって?」
「そんなん決まってんじゃん。ほら、柊吾が夏樹の……」
半ばぼんやりとしていた意識が、晴人から名を呼ばれたことで引き戻される。視線をふたりへ向けると、晴人に耳打ちをされながらどこかうんざりとした顔で柊吾がこちらを見ていた。何かは分からないがショックだ。
「あー……いや、言いたくない。お前も言うなよ晴人」
「えーなんで。面白そうじゃん!」
「やだっつってんの」
「…………? えーっと」
はあ、と柊吾にため息をつかれ、夏樹の肩が大きく跳ねる。だがそんなのはお構いなしとでも言うように、再び握手を求められた。
「今のはなんでもない、気にすんな」
「……はい」
「それより。改めてよろしくな、夏樹」
「っ、ひぇ、名前呼ばれた……」
「あー、そのファンモードは仕舞ってくれると助かる」
「それは無理っすよ~!」
「ふ、お前面白いな。ほら、握手」
「っ、はいっ、よ、よろしくお願いします! えっと、椎名、さん!」
憧れの人に名前を呼ばれ、知ったばかりのその名を生まれて初めて口にして。血液がつま先から駆け昇ってきたような感覚に、夏樹の頬は瞬時に色づいた。両手で握った手はあったかくて、憧れの男の存在を肌で感じられたことにまた感動してしまう。
「じゃあまずは片づけだな。さっき受け取って、とりあえず夏樹が使う部屋に入れといたから」
「あ、あざっす!」
「おい晴人、逃げんのはナシな」
「あは、バレた?」
「お前の後輩だろうが。手伝ってやれよ」
「まあねー。でも責任としては柊吾と半々だと思うけど」
「……晴人」
「…………?」
ふたりの会話の真意は分からないまま、まずはと家の中を案内してくれた。3LDKのマンションはリビングの奥に晴人の部屋、廊下にあったふたつの扉のうちリビングに近いほうが柊吾の部屋。そして夏樹の部屋だよと案内されたのは、玄関にいちばん近い部屋だ。シングルのベッドとデスクが既に置かれていて、自由に使っていいとのことだ。新人用にと確保された部屋だが、入所する者たちは東京近辺に元から住んでいる者ばかりで、まだ誰も住んだことはないらしい。
柊吾と晴人が段ボールを開封してくれて、中身を夏樹が選別する。「それは俺がやるよー」と晴人が立候補してくれたので、衣類をクローゼットに仕舞う作業をお願いした。新品を購入して送ってあった布団セットは、掛布団だけでいいよなと柊吾がベッドにセットしてくれた。毎日拝みながら寝ることになりそうだ。
それにしても夢を見ているみたいだと、柊吾との出逢いに改めて夏樹は思う。雑誌では、終ぞ一度しか見られなかったのだ。東京に来ればどこかで会えるかもとの期待が1パーセントもなかったと言ったら嘘にはなるが、まさか実現するとは思っていなかった。それもこんなに早く、上京したその日に。
「夏樹ー、終わったよー。お、それなに? くま?」
「へ……あ、はい! オレ熊本から出てきたんですけど、地元の“ふにゃくま”っていうゆるキャラです」
「ふうん。熊本ってもっと有名なヤツいなかったっけ。ほらあの黒いの」
いつの間にか片づけは、夏樹が受け持ったものだけになっていたようだ。デスクに置いたぬいぐるみを、晴人が手に取る。
「あれがやっぱ有名っすよね! どこ行ってもいますもん。ふにゃくまは全然マイナーなんすけど、オレ好きで」
全国的にも有名な我らの代表の陰で、熊本をまっすぐに愛すふにゃくまが不思議と昔から好きだった。薄い緑の体に、ふにゃりと緩んだ笑顔が特徴だ。晴人に撫でられているふにゃくまの鼻をツンとつつくと、柊吾も覗きこんできた。すぐそばに憧れの顔が現れて、心臓の位置がズレてしまったかもしれない。
「へぇ、こいつ可愛いな」
「え、マジすか!?」
「うん。俺もこっち派かも」
「うわあ……」
褒められたのはふにゃくまなのに、まるで自分のことのようにテンションが上がってしまう。ぐりぐりと撫でられるふにゃくまが心底羨ましい。その光景に赤くなってしまったらしい頬を晴人に茶化されて、そんな夏樹たちを柊吾が眉を下げて笑う。
「ほら、そろそろ飯にすんぞ。昼ももう大分過ぎたけどな。晴人、夏樹と飲み物買ってきて」
「はいはい。じゃあ夏樹、近くにコンビニあるから行こっか」
「っす!」
お気に入りのシャンプーや、歯ブラシセットだとか。こまごまとしたものがまだ段ボールに入ったままだが、それらはまた後でやればいい。夏樹の手に返ってきたふにゃくまをやっぱりこっちかなとベッドヘッドに置き直して、扉前で待ってくれているふたりに駆け寄る。買い出しを任されたことで、自分もこの家の一員になれたみたいで嬉しい。
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