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45. 死をのぞむ化物のはなし
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狭く暗い闘技場。
周りの観客席には、下卑た笑い声をあげる人間たち。
涎を垂らし、牙を向いて猛り狂う獣を前に、腕を後ろ手に縛られた状態で、為すすべもなく立ちすくむ。
助けもなく、声援もなく、憐れみすらもない。
それは戦いではなく、実質、処刑。
それが、最も古いゼンの記憶だった。
シルクスタのコロッセオは、三層から成る。
最上層である第一層は、燦々と陽の光を浴び、鎧と剣を身に纏った剣闘士たちが、命をかけて彼らの技を競う娯楽場。芸術と謳われ、吟遊詩人が歌すらつくり、羨望な眼差しを送られることすらある。絶望もあるが、栄光もある。勝ち残り、観客の支持が得られれば、意外と悪くない暮らしが待っている。観客席には貴族も多い。気に入られれば、金で引き抜かれ、護衛や愛妾として雇われる可能性もある。
しかしその一つ下の層からは、雰囲気が一変する。
中層である二層は、公には晒すことのできない、練度の低い剣闘士たちが、無様に命を削り合う。練度を合わせて一対一で戦う最上層とは違い、武器があったりなかったり、複数人を一人で相手にしなければならなかったりと、対戦者間でも差が大きい。客層も、最上層はチケット代が高くて行けないゴロツキみたいなやつらばかりだ。
そして、最下層である三層。ここはすでに、闘技場ではなく、処刑場という方が相応しい。罪人を獣と戦わせたり、剣闘士に嬲り殺させたりするのがメインだ。それを見て、観客は手を叩いて喜ぶ。
そのコロッセオ三層のゴミ捨て場で目を覚ますのが、幼いゼンの日課だった。起き上がり、身体をぶるぶるっと震わせると小指ほどもありそうな蛆虫が散る。死体遺棄場と兼用のゴミ捨て場に満ちるのは、濃い屍臭と腐敗臭。子供の拳もある大きなクマバエが何匹も、羽を震わせご馳走の合間を飛びまわっている。
起きるたびに、ゼンは自分の身体を確認する。猛獣の牙に引きちぎられた腕も、食い破られた腹も、噛みちぎられた喉笛も、全て癒えている。夢ではない。腹にも腕にも傷跡が残っている。喉を触れば、指先に感じるざらつき。これも傷跡だろう。
そうして、ゴミ捨て場から這い出たところを、清掃係が見つけて悲鳴をあげるのだ。
確かに死んだはずだった。なのに、いつの間にかすべての傷が塞がり、むくりと起き上がる。第三層の管理人はそんなゼンを気味悪がった。ゼンが起き上がるたびに、縛りあげて猛獣のいる闘技場に放り込んだ。
どんなにゼンが、嫌だと泣いても喚いても、聞いてもらえなかった。
しばらくすると、不死の化物として、ゼンは注目されるようになった。管理人は見世物として、ゼンを扱うようになった。縄で縛られることはなく、棒きれ程度を与えられ、猛獣のいる闘技場に放り込む。
どんなにゼンが、嫌だと泣いても喚いても、聞いてもらえなかった。
毎日、猛獣に食い殺される痛みに耐えかねて、ゼンは反撃を試みた。猛獣の動きを読み、どうにかして猛獣を殺そうとした。何回も食い殺されながら、少しずつ猛獣に傷をつけていく。
今日は、顎を一度叩けた。
今日は、腹を一度棒で突けた。
今日は、片目を潰すことができた。
何十回か繰り返した頃、ようやく猛獣を殺すことができた。初めてゼンは、闘技場で勝ったのだ。
倒れふす猛獣の横で、肩で息をつくゼンを見て、観客は大ブーイングだった。不死の化物が殺される痛快なショーを見に来たのに、とんだ期待はずれだ。新たな猛獣が引っ張りだされて、ゼンはその日も食い殺された。
どんなにゼンが、嫌だと泣いても喚いても、聞いてもらえなかった。
次の日、ゴミ捨て場で目覚めたゼンは、やはり新たな猛獣と闘わされ、食い殺された。その猛獣も、何度めかの後に、殺すことができた。少しずつ、ゼンは猛獣を殺すのがうまくなった。彼自身の成長もあるだろう。一度で殺せる時が増えてきた。
管理人は、今度はゼンを人間と戦わせた。剣と粗末な防具を身に着けた対戦相手は、棒きれしか持っていないゼンを容赦なく嬲り殺した。猛獣より、人間の方が痛いということを、ゼンは学んだ。
毎日、人間に殺されるために闘技場に放り込まれた。
どんなにゼンが、嫌だと泣いても喚いても、聞いてもらえなかった。
この頃から、ゼンは泣くことも話すこともやめた。
どうせ誰も、ゼンの言うことなど聞いてくれない。
自分の感情や思いを、顔や口に出すことは無意味だとゼンは知った。
一度だけ、逃げ出そうとしたことがある。
それは、初めて闘技場で対戦相手の人間を殺すことに成功した時だった。血まみれになりながら相手の武器を奪い、首を掻ききった。
そのときは、ブーイングは起きず、拍手が起きた。その日、ゼンは自分の足で闘技場を後にした。退場ゲートをくぐり抜ける時、ふと、すぐ横の扉が開けっ放しであることに気づいた。いつもは固く施錠されているのに、その時だけは開いていた。
気づけばそこに飛び込んでいた。観客席からは驚愕と怒号があがったが、そんなものなどゼンの耳に入らない。
もう、嫌だった。
猛獣と戦うのも。
人間と戦うのも。
なにより、痛い思いをして殺されるのは、もう嫌だった。
太陽が見たかった。
夢中で人をおしのけ、階段を駆けあがる。後ろから追いかけてくる気配がした。必死で逃げた。
明るい出口から外に出れば、雨が降っていた。真昼なのか夕方なのかはわからなかった。数年ぶりの外だった。雨がゼンの身体の血を流していく。
そこは、コロッセオの裏側、人気の少ない大通りに面した場所だった。
逃げなきゃ。
もっと遠くに逃げなきゃ。
気は焦るものの、出血が多すぎて、足に力が入らない。ふらふら歩くうちに、バタリと倒れてしまった。固い石畳は痛く、頬に当たる雨は冷たかった。
「おい、あぶねぇじゃねえか!」
叱咤の声とともに、間近で大きな何かが止まる。
意識が朦朧としたまま、ゼンの頬に何か温かいものが触れた。いつの間にか、顔を打つ雨は止んでいた。
「あなた、だいじょうぶ? 元気ないの?」
小さな、女の子の声だった。彼女は、心配そうに声をかけてゼンを撫でてくれたあと、口の中に何か入れてくれた。
甘くて美味しい。
染み入る甘さに、意識が明瞭になる。
女の子の腕の中は柔らかくて良い匂いがした。気づけば彼女の服の端を握りしめていた。
お礼を言いたいのに、うまく声が出せなかった。
「いきなり飛び出しちゃだめじゃないか、シウ」
静かに女の子をたしなめる声に重ねて、聞き覚えのある男たちの粗野な声が響く。あっさりとゼンは女の子から引き剥がされた。
彼女の悲しそうな琥珀色の瞳と、金の混じった栗色の髪。彼女の菫色の服にベッタリとついた血と泥。乱暴にひきずられながら、遠ざかる女の子の姿をゼンは目に焼きつけた。
その後は、二度と脱走しないよう、”しつけ”がゼンに施された。
ゼンはそこで様々なことを学んだ。
痛みで飛びかけた意識もすぐにもどせる、ということ。
四肢欠損しても上手に止血すればすぐには死なない、ということ。
死ぬ寸前まで首を締めると、体の中がよく締まる、ということ。
うまく拷問すれば殺さずに痛みを与え続けることができる、ということ。
やみくもに傷つけるよりは感覚器を残したほうが恐怖が強い、ということ。
そのすべてを、ゼンは無言で耐えた。
身をもっていろいろ学びながら、痛みが少ないときには、あの女の子のことを思い出した。それから、彼女がくれた甘い味のことも。
”しつけ”が済んだ後、またゼンは闘技場に放り込まれた。相手は複数人だった。ゼンが負けるように不利な条件で対戦が行われた。そしてまた、ゼンは何度も殺された。
経験を重ねるうちに、ゼンは不利な条件でも勝てるようになってきた。複数人を相手にしても、うまく武器を奪い、人間を盾にし、全員殺してのけるようになった。
最初は傷だらけで勝ちを拾っていたが、徐々に無傷で勝てるようになった。
少年ながら、どんな相手でも怯えもせず吠えもせず、ただ無言で淡々と対戦相手を殺していく。
その戦い方に、魅せられる客は意外と多かった。
つまり、人気が出てきたのだ。
ある時から、第二層の闘技場へゼンは放り込まれた。第二層の支配人が、ゼンを気に入ったらしい。
初戦のおり、でっぷりとした三重顎を揺らしながら、第二層の支配人は言った。
「千回勝てば、ここから出られるぞ」
ここから出られる。
外へ行ける。
真っ先に浮かんだのは、あの女の子のことだった。
もし、ここから出たら、あの子にまた会えるだろうか。
なぜ会いたいのか、ゼンにもよくわからなかった。ただ、あのとき、甘いものをくれたお礼くらいは言いたかった。
そこからは、がむしゃらに戦った。戦いながら、勝った回数を数えた。大きな数はよくわからなかったので、対戦相手に聞いた。対戦相手をある程度苦しませた後、「前のやつは、九十九。おまえはいくつだ?」みたいに聞くと、みんな快く教えてくれた。その後は感謝の気持ちをこめて、すぐに殺した。千は思ったより大きい数だと、すぐに気づいた。
第二層は、第三層より、相手が強かった。しかも、面倒なルールがあった。例えば相手の装備を奪ってはいけない、といった具合に。
最初は負けが続いた。負けると、居室代わりの牢で目を覚ます。勝てば、鎖と首輪をつけられて、牢まで連れて行かれる。ずいぶんと第三層より待遇が改善していた。食べ物も、残飯ではなかった。
しばらくすると、第二層のどんな相手でもゼンは勝てるようになった。食べ物も良くなったせいか、体もめきめき大きくなり、筋肉もついた。傷だらけではあるものの、剣闘士としての見栄えは随分と良い。我流の剣術や体術も、観客からすれば面白いのだろう。
第二層でも、ゼンは人気が出てきた。
ある時、ゼンは魔術を使う相手と対戦した。基本、魔術無しのコロッセオだが、たまに余興として魔術を使う者が出てくる。大抵、魔術が有利だ。
その時、ゼンは初めて魔術を見た。丸い火の玉がいくつも浮かび、それがゼンを追尾して間近で爆発する。剣で斬られるのとは、また違った痛さだった。
たまらずゼンが飛んでくる火の玉に手をかざした途端、火の玉が軌道を変えた。まるでブーメランのように術者の元へかえり、吹き飛ばした。その場にいた殆どは、術者の愚かな操作ミスだと思った。
ただ一人、ゼンに興味を示した者がいた。彼は、中央医療研究所の研究員だった。
ある日、ゼンは闘技場のかわりに、手枷足枷をつけられて、研究所へ連れて行かれた。そこでは様々な実験が、ゼンに対して行われた。もちろん所属はコロッセオの剣闘士のままなので、第二層で戦いながら、たまに研究所に連れて行かれるのだった。
最初は魔力操作の実験だった。ゼンが他者の魔力を操れることを、様々な実験で証明していった。それを通して、ゼンも魔力の操作方法を身体で覚えていった。
そのうち彼らは、ゼンの身体の治癒力に気づいた。徐々に、魔力操作よりもそちらの実験が主に行われるようになった。
”虹の翼プロジェクト”と呼ばれる、不老不死研究の要として、ゼンに様々な実験が施された。”しつけ”に似ていたが、それよりもしつこく、期間が長かった。
身体の様々な部位や神経に対して欠損させ、それがどのように戻るかについて、彼らはじっくり調べた。欠損させ方も、ただの切断ではなく、引きちぎるようなやり方や、切断したあと傷跡を炎や薬品で焼いて塞ぐやり方、末端をすり潰すなど、多くのバリエーションを試した。欠損させたあと、何ヶ月で戻らなくなるかといったことも細かく試された。ゼンの”死”との関係も、彼らは入念に調べた。
それ以外にも、ゼンの毒耐性、炎耐性、電気耐性などに様々なことについて実験が行われた。
全ては、痛覚を残したままで実施された。投薬の影響を排除したいからということだった。
奴隷以下の身分であるゼンには何をしても良いということと、どんな苦痛を与えてもゼンが無言で耐えることから、彼らの実験は容赦なく行われた。
ちなみに、どれだけ何をしてもゼンの身体は戻るのだった。ある程度の傷を残しながら。彼らは、奇跡だと喜んでいた。
研究所の白を基調とした清潔な部屋に鎖で繋がれ、何度も苦痛で意識を飛ばす合間に。
闘技場で血に塗れる対戦相手が憎々しげにゼンを睨むたびに。
観客が、激しく床を踏みならしながらブーイングを浴びせかけてくるたびに。
ゼンは、あの雨の日に一度だけ会った女の子のことを思い出すのだった。
ほんの一瞬の邂逅。
あの子だけが、ゼンに苦しみを与えなかった。
あの子だけが、ゼンの死を望まなかった。
あの子だけはきっと、ゼンが存在することを許してくれるだろう。
千回勝って、外へ出て、またあの子に会いたい。
それが、ゼンの闘う原動力になっていった。
可能な限り、毎日、闘技場へ赴いた。なんなら、日に二、三回戦うことすらあった。
第二層でも常勝をおさめるようになった頃。ゼンはついに、第一層の闘技場で戦うことになった。第二層には、もうゼンの相手ができる人間がいないからだ。
第一層で、ゼンは久しぶりにまともに太陽の光を浴びた。明るい陽射しが、ゼンの目に眩しかった。闘技場の二層以下はじめじめした地下だったし、研究所への移動は夜行われた。実験室は地下だった。
観客席を見て、ゼンは驚いた。大人だけでなく、子供もいる。家族連れがそこそこいるのだ。そしてみんな身綺麗だった。
(あの子も、来たりするのかな)
最初にゼンが思ったのはそれだった。
もし、彼女に見られてもかっこ悪くない戦いをしよう。そう、心に決めた。
やはり、第一層の猛者たちは、格段に強かった。武器の種類もいろいろで、ゼンは何度も殺された。それでも持ち前の筋力と戦闘センスで、少しずつ勝てるようになっていった。勝ってもブーイングを受けない魅力的な戦い方についても意識するようになった。
一度負けた剣闘士がまた出場していることについては、特に観客は気にしていないようだった。よくあることなのだろう。
第一層の剣闘士は、下層とは格段に扱いが違った。まず、牢ではない。まともな部屋だった。ベッドもあり、風呂もある。世話人らしきものも一人ついた。食べ物も、希望を出せば食べたい物を与えられた。ゼンは、甘い物をしばしば所望した。
世話人が気を回したのか、頼んでもいないのに、女もあてがわれるようになった。最初は気持ち悪くて勘弁してほしいばかりだったが、しばらくすると、悪くないことに気づいた。戦ったあとは、女を抱いて気持ちを鎮めるのが習慣になった。
そうしてまた、がむしゃらに戦った。
「前のやつで九百九十九。おまえはいくつだ?」
その回答を聞いたとき、ゼンは嬉しさのあまり拳を握った。すぐに、その対戦相手を殺した。
結論から言えば。
千回勝てば出られる、というのは嘘だった。
当たり前のように、千一人目の対戦者があてがわれた。仕方なく殺したが、観客からは大ブーイングだった。
支配人にかけあってみたが、鼻で笑われるばかりだった。悔しかったが、”しつけ”が行き届いているゼンは、それ以上逆らうことはしなかった。
ただ、完全に自暴自棄になった。
対戦相手を残虐に殺すようになった。
時間をかけてじっくりと。
死なせずに苦痛を与える方法を、ゼンはよく知っていた。
無言で表情も変えず淡々と、生きたまま人間を綺麗に捌く。ここまでしても、人間は死なないのか、と、観客は目を剥いた。倒れる者や嘔吐する者が後を絶たなかった。全ては、ゼンのただの八つ当たりだった。
といっても、毎回やるわけではない。夜の、大人しかいない時間帯のみにそういう殺し方をするのだった。昼間の子供が来る時間帯には、刺激の少ない殺し方をした。
驚いたことに、ゼンのその戦い方は、非常にウケた。
もともとコロッセオ自体が野蛮な娯楽だ。刺激を求めて来ていた人たちには、たまらなかったらしい。くわえて、昼の時間帯はちゃんと配慮してくれる。妙に気配りするあたりも評価された。
ゼンの人気はさらに高まり、コロッセオの中でも、断トツの人気を誇る剣闘士となっていった。国民的人気レベルといってもいい。
さらに無為に対戦を重ね続けた結果、ある観客が気づいた。
「もう、千回以上勝っているんじゃないか」
その声は次第に大きくなった。幸いにも、ゼンの第二層からのファンの何名かが、対戦記録を残していた。おかげで、ゼンの勝利回数の証明は容易だった。負けてることはあるものの、それは奇跡的に生き残ったとして好意的に受け止められた。
そのことを、コロッセオの利権を保有する貴族の耳に吹き込んだ者がいた。本格的にゼンの勝利回数について調査が行われた結果、世論に押される形でゼンの剣闘士からの解放が認められた。
コロッセオ側としても、花形剣闘士の解放をタダでするわけにはいかない。やるならば、徹底的に、派手に、そして可能な限り利を貪りたい。なんなら、最近下火になってるコロッセオブームを再燃させたい。
そこで”奴隷たちの希望の光”といったストーリー仕立てで、ゼンを前代未聞の奇跡を成し遂げた剣闘士としてまつりあげた。
これまた国民にウケた。
大ウケだった。
コロッセオ最下層から、腕一本での逆転劇の仕立ては、貴族の圧政に苦しむ国民達には痛快だったようだ。
新聞に毎日とりあげられた。すでに千回とっくの昔に達成しているのだが、あと十回みたいなカウントダウンめいたものまでやった。観覧チケットは売り切れ、転売が続出し、高騰した。コロッセオは毎日満員以上に人が詰めかけた。奇跡の瞬間を少しでも見ようと、外まで人が押し寄せた。
千回達成を祝うパレードが華々しく行われた。
ゼンに関する歌や劇、本、グッズなど、様々な物が販売され、どれもよく売れた。
国民だけでなく、貴族たち上流階級にもウケた。
大ウケだった。
娯楽として純粋に面白く、感動したらしい。その結果、ゼンには奴隷からの解放及び市民権の付与のみならず、勲章と称号が与えられた。
ゼンに与えられた称号は「シルクスタの英雄」。シルクスタ内で唯一、ゼンのみが保持する高ランクの称号である。
これにより、ゼンの生活は一変した。慰労金として多額の金銭が、国から支払われた。もう、なんの義務を負うこともない。自由の身であり、どこへいってもいい。何をしても良い。闘技場へも、研究所へも行く必要が無い。
「君がいなくなるのは寂しいが、カイラスの口車に乗ったのは正解だったな」
コロッセオの支配人たちがへこつくなか、そんなことを呟く貴族に見送られ、ゼンはコロッセオを後にした。
そうして自由になったゼンは、ふと気づいた。しばらく、何かを殺していないとそわそわして落ち着かないということに。
今まで毎日、人間を殺していた。
殺すことがゼンの生きる意味だった。
人間を殺すことで、ゼンは生きることを許されていた。
いきなり、もうやらなくていいと言われて放り出されたゼンは戸惑った。
悩んだ末に、ゼンは国境へと向かった。国境付近には魔獣がいた。とりあえず、丸腰でいったら、おもいっきり殺された。武器を用意し向かってみたものの、やはり殺された。魔獣は強かった。
それからというもの、武器や戦い方を工夫して魔獣を倒すことを試みた。何回か工夫しながら殺されているうちに、魔獣を倒せるようになった。
気持ちが落ち着いている間は、街に出て、あの女の子の面影を探した。しかし、見つけることはできなかった。
そうこうしているうちに、魔獣を一人で倒すゼンの周りに人が集まってきた。
ある者は言った、英雄とともに戦いたい。
ある者は言った、魔獣の組織片が欲しい。
ある者は言った、魔獣に殺された親の仇をうちたい。
理由は様々だったが、気づけば一大組織になっていた。黙々と魔獣を狩るゼンの傍らで、いつの間にか魔獣ハンターという職業が生まれ、オルクスが作られた。称号と実力の双方を持つゼンは、表向き、その利権を管轄する立場となった。
ゼンの魔獣狩りは、他貴族の利権を脅かしたものの、少なからず国防に寄与した。シルクスタの守護神といった称号にくわえ、爵位までゼンに与えられた。
それらの称号や身分は、黒いバッジに彫り込まれた。シルクスタ共和国が公に発行したバッジには、最高ランクの魔獣ハンターであることを示す黒色の紋章と、彼の持つ二つの称号が刻まれた。これを見せれば、どんな公的機関へも出入りできるし、誰とでも会うことができた。
今までのゼンは、ある意味名声しかなかった。特になんの利権にも政治にも絡むことはなく、称号はあるものの、彼個人の戦闘能力以外の力はなかった。
しかし、オルクスのトップとなることで、実質的にゼンの地位は確立した。新たな称号と爵位とともに、世間は彼を支配される側から、支配する側とみなすようになった。
しかし、そんなことは、ゼンにとってはどうでもよかった。
ただ、魔獣を狩り、そしてあの女の子を探す。
ひたすら、それを繰り返した。
甘い菓子の近くに彼女がいる気がして、甘い匂いがする菓子屋があればちょこちょこ見に行った。
そんな生活を続けて三年と少し。
ゼンはコロッセオの近くのアステリズムという店に気づく。その店からは良い匂いがするし、ショーケースに並べられた菓子はどれも可愛くて、あの女の子が好きそうだと思った。
とりあえず、行ってみたら盛大に追い返された。
諦めきれずに、時折見に行くこと一ヶ月。
⸺あの、それ、とっても甘くて美味しいんですよ
振り向いた先に、彼女がいた。
見紛うはずがない。
つぶらな琥珀色の瞳に、金の混じった栗色の髪。
随分と大人びていたが、一度だけ会ったあの子に間違いなかった。
成長した彼女はひどく魅力的で、女性として意識するのにそう時間はかからなかった。正確には、会って初日で心奪われた。
だからといって、彼女とどうこうなりたいというものもなく、店員と常連客という関係で十分だった。十分すぎるほどの奇跡だとすら、思っていた。
ただ、彼女自身は平和に幸せに、いつも笑顔であれば良いと、心の底からゼンは思っていたのだった。
◇
荒く肩で息をしながら、膝をつく。肩や、腹に
何本も刺さった矢や剣を引き抜いた。呼吸のたびに、血が身体からあふれる。肺の奥もゴロゴロとして気持ち悪い。
追手は、尽く殺した。
飛竜から落ち、地上で虫の息の者も探し出して、トドメをさした。
これでシウ達は、無事にアクムリアへ亡命できるだろう。
まだ空は、白みもしない。
小高い丘と林に囲まれ、ゼンの周りは静かだった。
鳥も虫も鳴いていない。
もちろん、シウを乗せた黒樫は、点ほどにもみえない。
ばったりと仰向けに倒れ、空を見上げる。木々の向こうに、ぽっかりと丸い月が浮かんでいる。満月だ。
耳の奥がどくどくする。
少しずつ、頭の中が霞がかかったようにぼんやりする。
一週間ぶりの、死の気配。
意識を飛ばす前に、シウのことを考える。
一緒に過ごした、あの数日。
本来ならありえない、幸せな日々。
それをかき消すように、記憶が蘇る。
彼女の白い服にベッタリとついた血と泥。
仮面舞踏会場の固くとざした扉の前で見た、シウの暗い瞳。
ゼンがシウのために人を殺すたびに、シウが変わってしまう気がした。
ゼンがシウのそばにいるだけで、シウが汚れてしまう気がした。
シウはきっと、アクムリアでゼンよりもっと相応しい男と幸せになるだろう。
それが、シウの幸せなのだ。
胸の奥が掻きむしりたくなるほど熱いのは、きっと傷のせいだ。
「もう嫌だ。このまま、シウのために死んで、終わりたい」
二度と目が覚めませんように。
強く祈りながら、ゼンは目を閉じた。
周りの観客席には、下卑た笑い声をあげる人間たち。
涎を垂らし、牙を向いて猛り狂う獣を前に、腕を後ろ手に縛られた状態で、為すすべもなく立ちすくむ。
助けもなく、声援もなく、憐れみすらもない。
それは戦いではなく、実質、処刑。
それが、最も古いゼンの記憶だった。
シルクスタのコロッセオは、三層から成る。
最上層である第一層は、燦々と陽の光を浴び、鎧と剣を身に纏った剣闘士たちが、命をかけて彼らの技を競う娯楽場。芸術と謳われ、吟遊詩人が歌すらつくり、羨望な眼差しを送られることすらある。絶望もあるが、栄光もある。勝ち残り、観客の支持が得られれば、意外と悪くない暮らしが待っている。観客席には貴族も多い。気に入られれば、金で引き抜かれ、護衛や愛妾として雇われる可能性もある。
しかしその一つ下の層からは、雰囲気が一変する。
中層である二層は、公には晒すことのできない、練度の低い剣闘士たちが、無様に命を削り合う。練度を合わせて一対一で戦う最上層とは違い、武器があったりなかったり、複数人を一人で相手にしなければならなかったりと、対戦者間でも差が大きい。客層も、最上層はチケット代が高くて行けないゴロツキみたいなやつらばかりだ。
そして、最下層である三層。ここはすでに、闘技場ではなく、処刑場という方が相応しい。罪人を獣と戦わせたり、剣闘士に嬲り殺させたりするのがメインだ。それを見て、観客は手を叩いて喜ぶ。
そのコロッセオ三層のゴミ捨て場で目を覚ますのが、幼いゼンの日課だった。起き上がり、身体をぶるぶるっと震わせると小指ほどもありそうな蛆虫が散る。死体遺棄場と兼用のゴミ捨て場に満ちるのは、濃い屍臭と腐敗臭。子供の拳もある大きなクマバエが何匹も、羽を震わせご馳走の合間を飛びまわっている。
起きるたびに、ゼンは自分の身体を確認する。猛獣の牙に引きちぎられた腕も、食い破られた腹も、噛みちぎられた喉笛も、全て癒えている。夢ではない。腹にも腕にも傷跡が残っている。喉を触れば、指先に感じるざらつき。これも傷跡だろう。
そうして、ゴミ捨て場から這い出たところを、清掃係が見つけて悲鳴をあげるのだ。
確かに死んだはずだった。なのに、いつの間にかすべての傷が塞がり、むくりと起き上がる。第三層の管理人はそんなゼンを気味悪がった。ゼンが起き上がるたびに、縛りあげて猛獣のいる闘技場に放り込んだ。
どんなにゼンが、嫌だと泣いても喚いても、聞いてもらえなかった。
しばらくすると、不死の化物として、ゼンは注目されるようになった。管理人は見世物として、ゼンを扱うようになった。縄で縛られることはなく、棒きれ程度を与えられ、猛獣のいる闘技場に放り込む。
どんなにゼンが、嫌だと泣いても喚いても、聞いてもらえなかった。
毎日、猛獣に食い殺される痛みに耐えかねて、ゼンは反撃を試みた。猛獣の動きを読み、どうにかして猛獣を殺そうとした。何回も食い殺されながら、少しずつ猛獣に傷をつけていく。
今日は、顎を一度叩けた。
今日は、腹を一度棒で突けた。
今日は、片目を潰すことができた。
何十回か繰り返した頃、ようやく猛獣を殺すことができた。初めてゼンは、闘技場で勝ったのだ。
倒れふす猛獣の横で、肩で息をつくゼンを見て、観客は大ブーイングだった。不死の化物が殺される痛快なショーを見に来たのに、とんだ期待はずれだ。新たな猛獣が引っ張りだされて、ゼンはその日も食い殺された。
どんなにゼンが、嫌だと泣いても喚いても、聞いてもらえなかった。
次の日、ゴミ捨て場で目覚めたゼンは、やはり新たな猛獣と闘わされ、食い殺された。その猛獣も、何度めかの後に、殺すことができた。少しずつ、ゼンは猛獣を殺すのがうまくなった。彼自身の成長もあるだろう。一度で殺せる時が増えてきた。
管理人は、今度はゼンを人間と戦わせた。剣と粗末な防具を身に着けた対戦相手は、棒きれしか持っていないゼンを容赦なく嬲り殺した。猛獣より、人間の方が痛いということを、ゼンは学んだ。
毎日、人間に殺されるために闘技場に放り込まれた。
どんなにゼンが、嫌だと泣いても喚いても、聞いてもらえなかった。
この頃から、ゼンは泣くことも話すこともやめた。
どうせ誰も、ゼンの言うことなど聞いてくれない。
自分の感情や思いを、顔や口に出すことは無意味だとゼンは知った。
一度だけ、逃げ出そうとしたことがある。
それは、初めて闘技場で対戦相手の人間を殺すことに成功した時だった。血まみれになりながら相手の武器を奪い、首を掻ききった。
そのときは、ブーイングは起きず、拍手が起きた。その日、ゼンは自分の足で闘技場を後にした。退場ゲートをくぐり抜ける時、ふと、すぐ横の扉が開けっ放しであることに気づいた。いつもは固く施錠されているのに、その時だけは開いていた。
気づけばそこに飛び込んでいた。観客席からは驚愕と怒号があがったが、そんなものなどゼンの耳に入らない。
もう、嫌だった。
猛獣と戦うのも。
人間と戦うのも。
なにより、痛い思いをして殺されるのは、もう嫌だった。
太陽が見たかった。
夢中で人をおしのけ、階段を駆けあがる。後ろから追いかけてくる気配がした。必死で逃げた。
明るい出口から外に出れば、雨が降っていた。真昼なのか夕方なのかはわからなかった。数年ぶりの外だった。雨がゼンの身体の血を流していく。
そこは、コロッセオの裏側、人気の少ない大通りに面した場所だった。
逃げなきゃ。
もっと遠くに逃げなきゃ。
気は焦るものの、出血が多すぎて、足に力が入らない。ふらふら歩くうちに、バタリと倒れてしまった。固い石畳は痛く、頬に当たる雨は冷たかった。
「おい、あぶねぇじゃねえか!」
叱咤の声とともに、間近で大きな何かが止まる。
意識が朦朧としたまま、ゼンの頬に何か温かいものが触れた。いつの間にか、顔を打つ雨は止んでいた。
「あなた、だいじょうぶ? 元気ないの?」
小さな、女の子の声だった。彼女は、心配そうに声をかけてゼンを撫でてくれたあと、口の中に何か入れてくれた。
甘くて美味しい。
染み入る甘さに、意識が明瞭になる。
女の子の腕の中は柔らかくて良い匂いがした。気づけば彼女の服の端を握りしめていた。
お礼を言いたいのに、うまく声が出せなかった。
「いきなり飛び出しちゃだめじゃないか、シウ」
静かに女の子をたしなめる声に重ねて、聞き覚えのある男たちの粗野な声が響く。あっさりとゼンは女の子から引き剥がされた。
彼女の悲しそうな琥珀色の瞳と、金の混じった栗色の髪。彼女の菫色の服にベッタリとついた血と泥。乱暴にひきずられながら、遠ざかる女の子の姿をゼンは目に焼きつけた。
その後は、二度と脱走しないよう、”しつけ”がゼンに施された。
ゼンはそこで様々なことを学んだ。
痛みで飛びかけた意識もすぐにもどせる、ということ。
四肢欠損しても上手に止血すればすぐには死なない、ということ。
死ぬ寸前まで首を締めると、体の中がよく締まる、ということ。
うまく拷問すれば殺さずに痛みを与え続けることができる、ということ。
やみくもに傷つけるよりは感覚器を残したほうが恐怖が強い、ということ。
そのすべてを、ゼンは無言で耐えた。
身をもっていろいろ学びながら、痛みが少ないときには、あの女の子のことを思い出した。それから、彼女がくれた甘い味のことも。
”しつけ”が済んだ後、またゼンは闘技場に放り込まれた。相手は複数人だった。ゼンが負けるように不利な条件で対戦が行われた。そしてまた、ゼンは何度も殺された。
経験を重ねるうちに、ゼンは不利な条件でも勝てるようになってきた。複数人を相手にしても、うまく武器を奪い、人間を盾にし、全員殺してのけるようになった。
最初は傷だらけで勝ちを拾っていたが、徐々に無傷で勝てるようになった。
少年ながら、どんな相手でも怯えもせず吠えもせず、ただ無言で淡々と対戦相手を殺していく。
その戦い方に、魅せられる客は意外と多かった。
つまり、人気が出てきたのだ。
ある時から、第二層の闘技場へゼンは放り込まれた。第二層の支配人が、ゼンを気に入ったらしい。
初戦のおり、でっぷりとした三重顎を揺らしながら、第二層の支配人は言った。
「千回勝てば、ここから出られるぞ」
ここから出られる。
外へ行ける。
真っ先に浮かんだのは、あの女の子のことだった。
もし、ここから出たら、あの子にまた会えるだろうか。
なぜ会いたいのか、ゼンにもよくわからなかった。ただ、あのとき、甘いものをくれたお礼くらいは言いたかった。
そこからは、がむしゃらに戦った。戦いながら、勝った回数を数えた。大きな数はよくわからなかったので、対戦相手に聞いた。対戦相手をある程度苦しませた後、「前のやつは、九十九。おまえはいくつだ?」みたいに聞くと、みんな快く教えてくれた。その後は感謝の気持ちをこめて、すぐに殺した。千は思ったより大きい数だと、すぐに気づいた。
第二層は、第三層より、相手が強かった。しかも、面倒なルールがあった。例えば相手の装備を奪ってはいけない、といった具合に。
最初は負けが続いた。負けると、居室代わりの牢で目を覚ます。勝てば、鎖と首輪をつけられて、牢まで連れて行かれる。ずいぶんと第三層より待遇が改善していた。食べ物も、残飯ではなかった。
しばらくすると、第二層のどんな相手でもゼンは勝てるようになった。食べ物も良くなったせいか、体もめきめき大きくなり、筋肉もついた。傷だらけではあるものの、剣闘士としての見栄えは随分と良い。我流の剣術や体術も、観客からすれば面白いのだろう。
第二層でも、ゼンは人気が出てきた。
ある時、ゼンは魔術を使う相手と対戦した。基本、魔術無しのコロッセオだが、たまに余興として魔術を使う者が出てくる。大抵、魔術が有利だ。
その時、ゼンは初めて魔術を見た。丸い火の玉がいくつも浮かび、それがゼンを追尾して間近で爆発する。剣で斬られるのとは、また違った痛さだった。
たまらずゼンが飛んでくる火の玉に手をかざした途端、火の玉が軌道を変えた。まるでブーメランのように術者の元へかえり、吹き飛ばした。その場にいた殆どは、術者の愚かな操作ミスだと思った。
ただ一人、ゼンに興味を示した者がいた。彼は、中央医療研究所の研究員だった。
ある日、ゼンは闘技場のかわりに、手枷足枷をつけられて、研究所へ連れて行かれた。そこでは様々な実験が、ゼンに対して行われた。もちろん所属はコロッセオの剣闘士のままなので、第二層で戦いながら、たまに研究所に連れて行かれるのだった。
最初は魔力操作の実験だった。ゼンが他者の魔力を操れることを、様々な実験で証明していった。それを通して、ゼンも魔力の操作方法を身体で覚えていった。
そのうち彼らは、ゼンの身体の治癒力に気づいた。徐々に、魔力操作よりもそちらの実験が主に行われるようになった。
”虹の翼プロジェクト”と呼ばれる、不老不死研究の要として、ゼンに様々な実験が施された。”しつけ”に似ていたが、それよりもしつこく、期間が長かった。
身体の様々な部位や神経に対して欠損させ、それがどのように戻るかについて、彼らはじっくり調べた。欠損させ方も、ただの切断ではなく、引きちぎるようなやり方や、切断したあと傷跡を炎や薬品で焼いて塞ぐやり方、末端をすり潰すなど、多くのバリエーションを試した。欠損させたあと、何ヶ月で戻らなくなるかといったことも細かく試された。ゼンの”死”との関係も、彼らは入念に調べた。
それ以外にも、ゼンの毒耐性、炎耐性、電気耐性などに様々なことについて実験が行われた。
全ては、痛覚を残したままで実施された。投薬の影響を排除したいからということだった。
奴隷以下の身分であるゼンには何をしても良いということと、どんな苦痛を与えてもゼンが無言で耐えることから、彼らの実験は容赦なく行われた。
ちなみに、どれだけ何をしてもゼンの身体は戻るのだった。ある程度の傷を残しながら。彼らは、奇跡だと喜んでいた。
研究所の白を基調とした清潔な部屋に鎖で繋がれ、何度も苦痛で意識を飛ばす合間に。
闘技場で血に塗れる対戦相手が憎々しげにゼンを睨むたびに。
観客が、激しく床を踏みならしながらブーイングを浴びせかけてくるたびに。
ゼンは、あの雨の日に一度だけ会った女の子のことを思い出すのだった。
ほんの一瞬の邂逅。
あの子だけが、ゼンに苦しみを与えなかった。
あの子だけが、ゼンの死を望まなかった。
あの子だけはきっと、ゼンが存在することを許してくれるだろう。
千回勝って、外へ出て、またあの子に会いたい。
それが、ゼンの闘う原動力になっていった。
可能な限り、毎日、闘技場へ赴いた。なんなら、日に二、三回戦うことすらあった。
第二層でも常勝をおさめるようになった頃。ゼンはついに、第一層の闘技場で戦うことになった。第二層には、もうゼンの相手ができる人間がいないからだ。
第一層で、ゼンは久しぶりにまともに太陽の光を浴びた。明るい陽射しが、ゼンの目に眩しかった。闘技場の二層以下はじめじめした地下だったし、研究所への移動は夜行われた。実験室は地下だった。
観客席を見て、ゼンは驚いた。大人だけでなく、子供もいる。家族連れがそこそこいるのだ。そしてみんな身綺麗だった。
(あの子も、来たりするのかな)
最初にゼンが思ったのはそれだった。
もし、彼女に見られてもかっこ悪くない戦いをしよう。そう、心に決めた。
やはり、第一層の猛者たちは、格段に強かった。武器の種類もいろいろで、ゼンは何度も殺された。それでも持ち前の筋力と戦闘センスで、少しずつ勝てるようになっていった。勝ってもブーイングを受けない魅力的な戦い方についても意識するようになった。
一度負けた剣闘士がまた出場していることについては、特に観客は気にしていないようだった。よくあることなのだろう。
第一層の剣闘士は、下層とは格段に扱いが違った。まず、牢ではない。まともな部屋だった。ベッドもあり、風呂もある。世話人らしきものも一人ついた。食べ物も、希望を出せば食べたい物を与えられた。ゼンは、甘い物をしばしば所望した。
世話人が気を回したのか、頼んでもいないのに、女もあてがわれるようになった。最初は気持ち悪くて勘弁してほしいばかりだったが、しばらくすると、悪くないことに気づいた。戦ったあとは、女を抱いて気持ちを鎮めるのが習慣になった。
そうしてまた、がむしゃらに戦った。
「前のやつで九百九十九。おまえはいくつだ?」
その回答を聞いたとき、ゼンは嬉しさのあまり拳を握った。すぐに、その対戦相手を殺した。
結論から言えば。
千回勝てば出られる、というのは嘘だった。
当たり前のように、千一人目の対戦者があてがわれた。仕方なく殺したが、観客からは大ブーイングだった。
支配人にかけあってみたが、鼻で笑われるばかりだった。悔しかったが、”しつけ”が行き届いているゼンは、それ以上逆らうことはしなかった。
ただ、完全に自暴自棄になった。
対戦相手を残虐に殺すようになった。
時間をかけてじっくりと。
死なせずに苦痛を与える方法を、ゼンはよく知っていた。
無言で表情も変えず淡々と、生きたまま人間を綺麗に捌く。ここまでしても、人間は死なないのか、と、観客は目を剥いた。倒れる者や嘔吐する者が後を絶たなかった。全ては、ゼンのただの八つ当たりだった。
といっても、毎回やるわけではない。夜の、大人しかいない時間帯のみにそういう殺し方をするのだった。昼間の子供が来る時間帯には、刺激の少ない殺し方をした。
驚いたことに、ゼンのその戦い方は、非常にウケた。
もともとコロッセオ自体が野蛮な娯楽だ。刺激を求めて来ていた人たちには、たまらなかったらしい。くわえて、昼の時間帯はちゃんと配慮してくれる。妙に気配りするあたりも評価された。
ゼンの人気はさらに高まり、コロッセオの中でも、断トツの人気を誇る剣闘士となっていった。国民的人気レベルといってもいい。
さらに無為に対戦を重ね続けた結果、ある観客が気づいた。
「もう、千回以上勝っているんじゃないか」
その声は次第に大きくなった。幸いにも、ゼンの第二層からのファンの何名かが、対戦記録を残していた。おかげで、ゼンの勝利回数の証明は容易だった。負けてることはあるものの、それは奇跡的に生き残ったとして好意的に受け止められた。
そのことを、コロッセオの利権を保有する貴族の耳に吹き込んだ者がいた。本格的にゼンの勝利回数について調査が行われた結果、世論に押される形でゼンの剣闘士からの解放が認められた。
コロッセオ側としても、花形剣闘士の解放をタダでするわけにはいかない。やるならば、徹底的に、派手に、そして可能な限り利を貪りたい。なんなら、最近下火になってるコロッセオブームを再燃させたい。
そこで”奴隷たちの希望の光”といったストーリー仕立てで、ゼンを前代未聞の奇跡を成し遂げた剣闘士としてまつりあげた。
これまた国民にウケた。
大ウケだった。
コロッセオ最下層から、腕一本での逆転劇の仕立ては、貴族の圧政に苦しむ国民達には痛快だったようだ。
新聞に毎日とりあげられた。すでに千回とっくの昔に達成しているのだが、あと十回みたいなカウントダウンめいたものまでやった。観覧チケットは売り切れ、転売が続出し、高騰した。コロッセオは毎日満員以上に人が詰めかけた。奇跡の瞬間を少しでも見ようと、外まで人が押し寄せた。
千回達成を祝うパレードが華々しく行われた。
ゼンに関する歌や劇、本、グッズなど、様々な物が販売され、どれもよく売れた。
国民だけでなく、貴族たち上流階級にもウケた。
大ウケだった。
娯楽として純粋に面白く、感動したらしい。その結果、ゼンには奴隷からの解放及び市民権の付与のみならず、勲章と称号が与えられた。
ゼンに与えられた称号は「シルクスタの英雄」。シルクスタ内で唯一、ゼンのみが保持する高ランクの称号である。
これにより、ゼンの生活は一変した。慰労金として多額の金銭が、国から支払われた。もう、なんの義務を負うこともない。自由の身であり、どこへいってもいい。何をしても良い。闘技場へも、研究所へも行く必要が無い。
「君がいなくなるのは寂しいが、カイラスの口車に乗ったのは正解だったな」
コロッセオの支配人たちがへこつくなか、そんなことを呟く貴族に見送られ、ゼンはコロッセオを後にした。
そうして自由になったゼンは、ふと気づいた。しばらく、何かを殺していないとそわそわして落ち着かないということに。
今まで毎日、人間を殺していた。
殺すことがゼンの生きる意味だった。
人間を殺すことで、ゼンは生きることを許されていた。
いきなり、もうやらなくていいと言われて放り出されたゼンは戸惑った。
悩んだ末に、ゼンは国境へと向かった。国境付近には魔獣がいた。とりあえず、丸腰でいったら、おもいっきり殺された。武器を用意し向かってみたものの、やはり殺された。魔獣は強かった。
それからというもの、武器や戦い方を工夫して魔獣を倒すことを試みた。何回か工夫しながら殺されているうちに、魔獣を倒せるようになった。
気持ちが落ち着いている間は、街に出て、あの女の子の面影を探した。しかし、見つけることはできなかった。
そうこうしているうちに、魔獣を一人で倒すゼンの周りに人が集まってきた。
ある者は言った、英雄とともに戦いたい。
ある者は言った、魔獣の組織片が欲しい。
ある者は言った、魔獣に殺された親の仇をうちたい。
理由は様々だったが、気づけば一大組織になっていた。黙々と魔獣を狩るゼンの傍らで、いつの間にか魔獣ハンターという職業が生まれ、オルクスが作られた。称号と実力の双方を持つゼンは、表向き、その利権を管轄する立場となった。
ゼンの魔獣狩りは、他貴族の利権を脅かしたものの、少なからず国防に寄与した。シルクスタの守護神といった称号にくわえ、爵位までゼンに与えられた。
それらの称号や身分は、黒いバッジに彫り込まれた。シルクスタ共和国が公に発行したバッジには、最高ランクの魔獣ハンターであることを示す黒色の紋章と、彼の持つ二つの称号が刻まれた。これを見せれば、どんな公的機関へも出入りできるし、誰とでも会うことができた。
今までのゼンは、ある意味名声しかなかった。特になんの利権にも政治にも絡むことはなく、称号はあるものの、彼個人の戦闘能力以外の力はなかった。
しかし、オルクスのトップとなることで、実質的にゼンの地位は確立した。新たな称号と爵位とともに、世間は彼を支配される側から、支配する側とみなすようになった。
しかし、そんなことは、ゼンにとってはどうでもよかった。
ただ、魔獣を狩り、そしてあの女の子を探す。
ひたすら、それを繰り返した。
甘い菓子の近くに彼女がいる気がして、甘い匂いがする菓子屋があればちょこちょこ見に行った。
そんな生活を続けて三年と少し。
ゼンはコロッセオの近くのアステリズムという店に気づく。その店からは良い匂いがするし、ショーケースに並べられた菓子はどれも可愛くて、あの女の子が好きそうだと思った。
とりあえず、行ってみたら盛大に追い返された。
諦めきれずに、時折見に行くこと一ヶ月。
⸺あの、それ、とっても甘くて美味しいんですよ
振り向いた先に、彼女がいた。
見紛うはずがない。
つぶらな琥珀色の瞳に、金の混じった栗色の髪。
随分と大人びていたが、一度だけ会ったあの子に間違いなかった。
成長した彼女はひどく魅力的で、女性として意識するのにそう時間はかからなかった。正確には、会って初日で心奪われた。
だからといって、彼女とどうこうなりたいというものもなく、店員と常連客という関係で十分だった。十分すぎるほどの奇跡だとすら、思っていた。
ただ、彼女自身は平和に幸せに、いつも笑顔であれば良いと、心の底からゼンは思っていたのだった。
◇
荒く肩で息をしながら、膝をつく。肩や、腹に
何本も刺さった矢や剣を引き抜いた。呼吸のたびに、血が身体からあふれる。肺の奥もゴロゴロとして気持ち悪い。
追手は、尽く殺した。
飛竜から落ち、地上で虫の息の者も探し出して、トドメをさした。
これでシウ達は、無事にアクムリアへ亡命できるだろう。
まだ空は、白みもしない。
小高い丘と林に囲まれ、ゼンの周りは静かだった。
鳥も虫も鳴いていない。
もちろん、シウを乗せた黒樫は、点ほどにもみえない。
ばったりと仰向けに倒れ、空を見上げる。木々の向こうに、ぽっかりと丸い月が浮かんでいる。満月だ。
耳の奥がどくどくする。
少しずつ、頭の中が霞がかかったようにぼんやりする。
一週間ぶりの、死の気配。
意識を飛ばす前に、シウのことを考える。
一緒に過ごした、あの数日。
本来ならありえない、幸せな日々。
それをかき消すように、記憶が蘇る。
彼女の白い服にベッタリとついた血と泥。
仮面舞踏会場の固くとざした扉の前で見た、シウの暗い瞳。
ゼンがシウのために人を殺すたびに、シウが変わってしまう気がした。
ゼンがシウのそばにいるだけで、シウが汚れてしまう気がした。
シウはきっと、アクムリアでゼンよりもっと相応しい男と幸せになるだろう。
それが、シウの幸せなのだ。
胸の奥が掻きむしりたくなるほど熱いのは、きっと傷のせいだ。
「もう嫌だ。このまま、シウのために死んで、終わりたい」
二度と目が覚めませんように。
強く祈りながら、ゼンは目を閉じた。
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