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カウンターから向かって左奥の指定席
1.
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ぐっと背中を伸ばす。ぱきぽきと関節が悲鳴を上げるが、筋肉が伸びる快感に任せて数秒間そのままの態勢を維持した。はあと息をつきながら両手を下ろせば、胸に溜まっていた疲れもどこかへ飛んでいった。
「おし、頑張るぞ」
意気込んで店内へ戻る。手洗いに行くついでに、店の裏口から外へ出て伸びをするのが俺の日課だった。ばたばたと走り回る仕事ではないにせよ、常に姿勢を保ち、かつ丁寧な接客を求められると疲れるものだろう。バイトとして入った後輩たちも慣れるまでは毎日泣き言を溢していたぐらいだから相当だろう。今は自分のように程よく息抜きする方法を見つけたようで、終日元気に働いている。日々仕事を覚え成長していった後輩たちを誇らしく思いながら店内へ戻る。
「戻りましたー」
「あ、樹先輩!おかえりなさーい」
カウンター裏で食器を洗っていた後輩の弓田萌が顔を上げた。ショートボブに丸顔、人好きする顔が特徴的な萌はにこりと笑う。なるべく音を立てないようにひとつひとつ丁寧に洗いながら萌は言った。
「もうすぐ15時ですよ。先輩の常連さんを迎える準備しとかないと」
「俺の常連じゃなくて、店の常連だろ」
「先輩の常連さんですよ~。あのお客様、先輩の時は特に嬉しそうだから」
お見通しなんですよ、と勝ち誇る萌に苦笑いして時計を見る。長針はまもなく12を、短針は3の方向を差していた。もう来るかなあと思ったのと同時に、からんからんとドアベルの音が店内に穏やかに響いた。カウンターを出てそちらへ向かう。開いたドアから入ってきたのは、自分より10センチほど背の低い、目元に少ししわが寄った初老の男性。ワックスで毛先をふんわりと仕上げたのだろう黒髪は白髪が所々交じっている。羽織っているベージュのカーディガンから覗く手首は心配なぐらい細い。目線は合わないが、こちらを見上げてにこりと微笑んだ。
「いらっしゃいませ! 真哉さんそろそろかなって考えてたところです」
「いつも同じ時間ですまない。今日もお邪魔していいかい?」
「もちろん!」
足取り軽く、店の一番奥にある個席へ案内する。その後ろを俺が真哉と呼んだ彼がついてくる。テーブルの横に立ち、どうぞと椅子を示せば礼を言って真哉さんが腰掛けた。
「急に冷えましたよね」
俺の言葉に、真哉さんはそうだねえと苦笑し目を細める。仲睦まじくじゃれつく猫を眺めているかのようなへらりとした表情に、叫びたくなるのを堪えて注文を確認する。聞かなくても分かるが。
「ブラックコーヒーのホットをMサイズで」
「かしこまりました」
メモさえ取らずに、一礼してカウンターへ戻る。注文されたメニューを準備する他の店員たちと共に協力しながらひとつずつ用意し、俺もブラックコーヒーを作った。
他の客にも注文されたものを運んだ後に真哉さんの元へ向かう。鞄から取りだしたのだろう本を、既に真哉さんは読み始めていた。周りがスイーツに歓声をあげたり話が盛り上がって騒ぐのを余所に、自分の世界へ浸っている。それを一瞬でも遮ってしまうのは申し訳ないが、コーヒーが冷めては彼もがっかりするだろうからとそっと声を掛けた。
「お待たせしました。ブラックコーヒーです」
ふっと真哉さんの目に光が宿った。テーブルに置かれたカップを見て微笑し、俺の目を見ずに小さく頭を下げた。小さな声でありがとうと言ったのが聞こえたので、内心でにやにやしながらごゆっくりどうぞと表面上の紳士を取り繕った。
裏手に戻ると、萌が人の悪い笑顔で迎えてくれた。ふーん、へえ、と言いながら。
「先輩たちって、やっぱりそういう?」
「何のことだ?」
「もう、言わせないでくださいよ。先輩の常連さんと良い関係なんでしょう?」
萌はきゃあと飛び上がった。自分のことではないのに、耳まで真っ赤にしていた。何の勘違いをしているんだとため息をついて彼女の言葉を否定する。
「別に何でもないよ。客と店員ってだけ」
「えー、絶対嘘! あのお客さん、私たちの顔見ることないのに樹先輩のことはちゃんと見るじゃないですか」
「見てねーよ。目合ってないし」
「目は合わなくても、顔を上げてくれてますよね。私の時はずっと俯いてましたよ」
萌の言う通りだった。真哉さんは、少し恥ずかしがりな性格のようで人の顔を見ようとしない。彼が来るようになったばかりの頃は、萌の言うように俯いたまま注文していた。性別に関係なく、誰とも顔を合わせようとしない。俺だけにはできるだけ表情を見せてくれているが、それでも目が合うことはない。多分、首元ぐらいを見ているはずだ。でも、そうなってくれたのは並々ならぬ俺の努力あってだ。毎回、注文する時は気まずそうに身体を縮ませていたため、同じ店員が接客するよう配慮してみた。後輩に負担を強いるのは悪いからと年上の自分が買ってでて半年。先月になってやっと笑顔を見せてくれるようになったのだ。ここまで頑張って良かったとガッツポーズしたものだ。
その様子を見ていた萌にも、真哉さんが心を少しずつ開いているのが分かるらしい。萌は、男性同士の恋愛が主題の漫画やドラマをよく見るようで、俺たちを見ては「身近でBLが見られるなんて」と鼻息を荒くしている。今日も例外なく興奮しており、耳を赤くしているのはそういう意味だ。別の後輩に、どっちがネコでタチでなどと熱く語っていたのは流石に止めたが基本的に好きにさせている。
「真哉さんが帰られる時は先輩が精算をお願いしますね。私が他のお客さまを対応するので」
太陽のように眩しい笑顔で言う萌に、何度目か分からない苦笑いで分かったと返す。彼女の気遣いは嬉しいが、少し気まずい部分もあるとは言えずにいる。真哉さんに好感を持っているのは確かだが、そんな目で見ているわけがないのだ。
「おし、頑張るぞ」
意気込んで店内へ戻る。手洗いに行くついでに、店の裏口から外へ出て伸びをするのが俺の日課だった。ばたばたと走り回る仕事ではないにせよ、常に姿勢を保ち、かつ丁寧な接客を求められると疲れるものだろう。バイトとして入った後輩たちも慣れるまでは毎日泣き言を溢していたぐらいだから相当だろう。今は自分のように程よく息抜きする方法を見つけたようで、終日元気に働いている。日々仕事を覚え成長していった後輩たちを誇らしく思いながら店内へ戻る。
「戻りましたー」
「あ、樹先輩!おかえりなさーい」
カウンター裏で食器を洗っていた後輩の弓田萌が顔を上げた。ショートボブに丸顔、人好きする顔が特徴的な萌はにこりと笑う。なるべく音を立てないようにひとつひとつ丁寧に洗いながら萌は言った。
「もうすぐ15時ですよ。先輩の常連さんを迎える準備しとかないと」
「俺の常連じゃなくて、店の常連だろ」
「先輩の常連さんですよ~。あのお客様、先輩の時は特に嬉しそうだから」
お見通しなんですよ、と勝ち誇る萌に苦笑いして時計を見る。長針はまもなく12を、短針は3の方向を差していた。もう来るかなあと思ったのと同時に、からんからんとドアベルの音が店内に穏やかに響いた。カウンターを出てそちらへ向かう。開いたドアから入ってきたのは、自分より10センチほど背の低い、目元に少ししわが寄った初老の男性。ワックスで毛先をふんわりと仕上げたのだろう黒髪は白髪が所々交じっている。羽織っているベージュのカーディガンから覗く手首は心配なぐらい細い。目線は合わないが、こちらを見上げてにこりと微笑んだ。
「いらっしゃいませ! 真哉さんそろそろかなって考えてたところです」
「いつも同じ時間ですまない。今日もお邪魔していいかい?」
「もちろん!」
足取り軽く、店の一番奥にある個席へ案内する。その後ろを俺が真哉と呼んだ彼がついてくる。テーブルの横に立ち、どうぞと椅子を示せば礼を言って真哉さんが腰掛けた。
「急に冷えましたよね」
俺の言葉に、真哉さんはそうだねえと苦笑し目を細める。仲睦まじくじゃれつく猫を眺めているかのようなへらりとした表情に、叫びたくなるのを堪えて注文を確認する。聞かなくても分かるが。
「ブラックコーヒーのホットをMサイズで」
「かしこまりました」
メモさえ取らずに、一礼してカウンターへ戻る。注文されたメニューを準備する他の店員たちと共に協力しながらひとつずつ用意し、俺もブラックコーヒーを作った。
他の客にも注文されたものを運んだ後に真哉さんの元へ向かう。鞄から取りだしたのだろう本を、既に真哉さんは読み始めていた。周りがスイーツに歓声をあげたり話が盛り上がって騒ぐのを余所に、自分の世界へ浸っている。それを一瞬でも遮ってしまうのは申し訳ないが、コーヒーが冷めては彼もがっかりするだろうからとそっと声を掛けた。
「お待たせしました。ブラックコーヒーです」
ふっと真哉さんの目に光が宿った。テーブルに置かれたカップを見て微笑し、俺の目を見ずに小さく頭を下げた。小さな声でありがとうと言ったのが聞こえたので、内心でにやにやしながらごゆっくりどうぞと表面上の紳士を取り繕った。
裏手に戻ると、萌が人の悪い笑顔で迎えてくれた。ふーん、へえ、と言いながら。
「先輩たちって、やっぱりそういう?」
「何のことだ?」
「もう、言わせないでくださいよ。先輩の常連さんと良い関係なんでしょう?」
萌はきゃあと飛び上がった。自分のことではないのに、耳まで真っ赤にしていた。何の勘違いをしているんだとため息をついて彼女の言葉を否定する。
「別に何でもないよ。客と店員ってだけ」
「えー、絶対嘘! あのお客さん、私たちの顔見ることないのに樹先輩のことはちゃんと見るじゃないですか」
「見てねーよ。目合ってないし」
「目は合わなくても、顔を上げてくれてますよね。私の時はずっと俯いてましたよ」
萌の言う通りだった。真哉さんは、少し恥ずかしがりな性格のようで人の顔を見ようとしない。彼が来るようになったばかりの頃は、萌の言うように俯いたまま注文していた。性別に関係なく、誰とも顔を合わせようとしない。俺だけにはできるだけ表情を見せてくれているが、それでも目が合うことはない。多分、首元ぐらいを見ているはずだ。でも、そうなってくれたのは並々ならぬ俺の努力あってだ。毎回、注文する時は気まずそうに身体を縮ませていたため、同じ店員が接客するよう配慮してみた。後輩に負担を強いるのは悪いからと年上の自分が買ってでて半年。先月になってやっと笑顔を見せてくれるようになったのだ。ここまで頑張って良かったとガッツポーズしたものだ。
その様子を見ていた萌にも、真哉さんが心を少しずつ開いているのが分かるらしい。萌は、男性同士の恋愛が主題の漫画やドラマをよく見るようで、俺たちを見ては「身近でBLが見られるなんて」と鼻息を荒くしている。今日も例外なく興奮しており、耳を赤くしているのはそういう意味だ。別の後輩に、どっちがネコでタチでなどと熱く語っていたのは流石に止めたが基本的に好きにさせている。
「真哉さんが帰られる時は先輩が精算をお願いしますね。私が他のお客さまを対応するので」
太陽のように眩しい笑顔で言う萌に、何度目か分からない苦笑いで分かったと返す。彼女の気遣いは嬉しいが、少し気まずい部分もあるとは言えずにいる。真哉さんに好感を持っているのは確かだが、そんな目で見ているわけがないのだ。
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