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エピソード2
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これは…、まぁ、驚いた…。
ミサコがたどり着いたのは嫁ぎ先の家の前だ。でも1か月前に飛び出した自宅ではない。建て直す前の古い家の入口にミサコはいた。
なんて、懐かしい…。
藁ぶき屋根で、トイレは外。もちろんぼっとん便所。昔は馬小屋として使われていた小屋には農機具が収められている。
かつては手広く農家をしていたミサコの嫁ぎ先は、田畑が次々に道路や橋にかかり大金を得た、いわば土地成金だった。
そこで、ミサコはぶるりと震えた。どろんとした灰色の空からは白いものがちらほら舞い降りてくる。雪だ。季節は残暑厳しい秋の入りのはずなのに。
『お邪魔します』
誰にともなく呟き、渋い引き戸を引いて中へ入ると土間がある。右手には風呂。土間から小上がりをあがると、すぐに居間だ。はっきりと覚えている。
『入りますよ』
独り言ちてから靴をぬいだ。サンダルで来たので裸足だ。足の裏をくすぐるささくれだった畳の感触がリアルでミサコはぞっとした。
そういえば、自分がこの家へ嫁いできたのも冬だったことをミサコは思い出す。確か初雪が降った11月の初め。
あの頃は舅も生きていて、姑、3人の義理の妹たち、呆けて徘徊する大舅と寝たきりの大姑までいたものだ。嫁に来て一番最初に教えられた仕事が大姑たちの下の世話だった。けれど、それでも新婚当初は、胸に淡い期待を抱いていた。見合いの席で会ったハルオは体躯がよく、知的で、スーツを着こなし、自分にはもったいないくらいの人だと感謝すらしたものだ。
そうだ。卑屈にも私は、あの人に貰っていただけるだけでありがたいと考えていたのだ。そして、それと同じように、この家の家族も、こんな私を貰ってやったのだから、この家に尽くせと思っていたに違いない。私は、ここへ嫁として呼ばれたわけではない。体のいい家政婦として迎えられたのだ。
わかっていたことだが、やはり、みじめさは拭えない。
『誰かおりますか?』
緊張しながら声をかけるが、家はしんとして人の気配がしなかった。それなのに、あの、嫌な臭いが奥の部屋から漂う。寝たきりの大姑の部屋に置かれたおまるからか、たはたまた、大舅が粗相した便で遊んだ匂いか、その両方か。この古い家には、そんな匂いが染みついていた。
二度と思い出したくないのに、全てが懐かしい。
『それにしても寒いわぁ』
薄手の半そでのブラウスを着たミサコの腕には鳥肌がたっていた。奥では薪ストーブが燃えていたが、その火はとても小さく、今にも燃え尽きそうだった。ストーブのわきに転がった薪をデレキを使って入れてやると、火は息を吹き返した。煙が目に染みる。けほけほとむせていると、突然強い力で肩を掴まれ、後ろに引きずり倒された。
『おい!』
仰向けになったミサコをのぞき込むのは死んだハルオだった。
『何するの、痛いじゃないの』
不思議と怖くはなかった。むしろミサコは冷静で、ああ、幽霊にも足があるのね、と、そんなことをまず思った。
『一体、どういうつもりだ?え?』
冷静なミサコとは対照的に、ハルオは興奮していた。顔を赤くし、声を張り上る威圧的な態度は死んでもなお変わらない。この張りのある声で怒鳴られると心臓がぎゅっと痛くなり縮こまったものだ。
『なんですか。久しぶりに会ったのに、怒鳴り散らすなんてひどいじゃないですか』
ミサコは起き上がると、台所へ向かった。のどが渇いていた。確か戸棚の中に茶葉があったはずだ。ミサコは記憶をたどりながら茶の用意をし、水を入れた薬缶をストーブの上に置いた。
『茶なんか飲んでる場合か!時間がないんだ、時間が』
ミサコの後をおいかけ、文句を垂れるハルオ。しかし、みさこはつんと澄ましていた。
『お茶ぐらい飲ませてくださいな。じゃなければ私はこのまま帰りますよ。この家の外へ出れば、もう二度と会うことはありませんよ。それでもいいんですか?』
これはミサコのはったりだったが、ハルオはどうやら信じたようで、唇をへの字に曲げると、どかりと座った。
やがて薬缶がピーと鳴きお湯が沸いたのを知らせる。ミサコがゆっくりとお茶の用意をするので、ハルオは苛立ち、これ見よがしにため息をつく。それでもミサコの淹れた茶が目の前に置かれるとゆっくりと啜った。
『うまい』
『それはよかった』
ミサコが微笑むと、ハルオの強張った顔がふっと緩んだ。
『すまなかった』
ハルオが神妙な面持ちで頭を下げる。
『お前には苦労を掛けた。許してほしい』
ハルオの言葉に、「過ぎたことです」と、ミサコ。その顔にはいつも通り、お地蔵様のような穏やかな笑みがうっかんでいる。
『じゃあ、家に戻ってくれるな?今なら、お前が頭を下げれば、母さんも妹たちもお前の過ちを赦してくれるだろう』
ほっとしたようにハルオが言うと、ミサコは「うふふ」と笑った。
『それはできまぜん』
『な…』
予期せぬ返答に、ハルオが言葉に詰まる。つい今さっき、「過ぎたこと」と許してくれたのではなかったのか。ハルオの顔には困惑の色が見え隠れしていた。
『あなたからの謝罪は受け入れました。けれども、家に戻ることはありません』
ミサコはきっぱりと言い放つ。
『ふ、ふざけるな』
腹が立ったハルオは、思わず飲みかけのお茶をミサコの顔にぶっかけた。幸い、お茶は冷めていたたが、ミサコの髪の毛からは緑色のしずくがぽたぽたと滴っている。こんな状況でもミサコの顔には相変わらずお地蔵様のような笑みが張り付いていた。
『人が下手に出れば調子に乗りやがって。お前のせいでうちは大迷惑してるんだ。母さんに悪いと思わないのか?妹たちがどれだけ大変な目にあっているのか、わからないのか。え?そもそも墓はどうするんだ。誰が管理するんだ?』
これこそがハルオの本音であり目的だった。長男として残してきた母親や家や墓の管理は気になったものの、決してミサコを思いやる気持ちはなかったのだ。それどころか、長男の嫁としての義務を果たさなかったことに怒りすら覚えていた。
『ほほほ。そんなことは知りませんよ。私はもうあの家の人間ではないのですから』
そして、ミサコはそんな夫の気持ちを見抜いていたのだ。初めから期待などしていなかった。そんなものは、とうの昔に捨てている。
『お前、ふざけるな』
今度は湯飲みがミサコに飛んできたが、すんでのところでよけ、湯飲み戸棚に当たりパリンと割れた。
『相変わらずですね。でも、あなたの行動は全てお見通しですよ。ふふふ』
何をされても静かに微笑むミサコにかっとなったハルオは、ついに飛びかかった。
『何が可笑しい?何が不満なんだ?誰のおかげで生活できたと思ってる。俺だろう?ええ?俺のおかげで、外に働きに出ることもなく、一日中家でだらだらしてこれたんだ。子供のできないお前を追い出すこともなく置いてやった俺や俺の家族に恩返しするのが当然だろう。それなのに、この年になってから男のところに転がり込むなんて恥ずかしいと思わないのか?ああ?』
胸ぐらをつかみ、顔をぐっと近づけ、唾を飛ばしながら叫ぶハルオに、
『ちっとも、恥ずかしくなんかありませんよ。私は今、一番幸せ何です』
と、ミサコは宣言した。
『なんだと?』
胸ぐらをつかんだハルオの手をゆっくりと外しながら、ミサコはもう一度言う。
『私、とっても、幸せです』
『はん、老いらくの恋ってやつか?色呆けか?あんな貧乏農家のどこがいい?年金だっていくらももらえない。あいつが欲しいのはお前なんかじゃない。お前がもらう、この俺の遺族年金に目を付けたんだ。そんなこともわからないで、馬鹿な女だ。この世間知らずが』
ハルオが小ばかにしたように笑う。
しかし、何を言われてもミサコは顔色を変えなかった。それどころか、
『色呆けは、あなたのお父さんじゃありませんか?』
と、反撃に出たのだ。
『なんだと?』
ハルオはもう一度ミサコの胸ぐらに手をかけようとして、思わずひるんだ。ミサコの顔から笑みが引き、今まで見たことのないような冷たい顔をしていたからだ。
『私、知ってるんですよ。あなたの最初の奥さんがなぜ出て行ったか。なぜ、あなたのような人の所に、次のお嫁さんがなかなか来なかったのか』
ミサコはハルオにとって二番目の妻だった。最初の妻は半年もせず出て行ったと聞いている。
『そ、それは、前の奴がこらえ性が無かったから…』
顔さえもおぼろげになっている最初の妻の話が今更出たことに、ハルオは動揺していた。確かに、最初の妻は半年で出て行った。あの女は仕事をさぼってばかりいるし、要領が悪いと、母が追い出したのだ。
『いいえ、違います。あなたのお父さんが、前の奥さんにしつこく迫ったからですよ。そして、それに気づいて嫉妬したお母さんが追い出したんです』
『そ、そんなばかなことがあるはずがないだろう。なんて下品な作り話をするんだ、お前は』
まさに寝耳に水であった。そんなバカげた話があるわけがない。
『信じなくても結構です。でも、人の口に戸は建てられませんからね。知らぬ、隠し通したと思っているのは当の本人たちだけで、ここいら一帯じゃ有名な話だったそうですよ。あなたのお父さんは大変な女好きだそうで、見境がなかったとか。私はそのことをヤエちゃんから聞きましたけど』
ミサコは顔色一つ変えず、淡々としてる。
『ヤエちゃんって、あの嫌われ者ばばぁのヤエか。あんな奴の言う事なんか信じてお前は本当に馬鹿だな』
ミサコの口からヤエの名前が出たことで、ハルオが勝ち誇ったように笑った。鼻つまみ者のヤエのたわ言を信じるなんて、どうしようもない女だ。
しかし、次の瞬間、
『いいえ、嘘ではありませんよ。現に、お父さんは私にも手をつけたんですから』
ミサコがとどめの一撃を食らわせた。
『は…?』
さすがに、ハルオの顔から笑みが引く。
『最初の奥さんはお綺麗な人だったそうですね。だから、次は、お父さんが絶対に手を出さないような醜い嫁をもらったのに、て、お母さんに泣かれましたから』
『母さんは、知ってるのか?』
『はい。お父さんは病的な女好きで浮気性だったようですね。あなたもその血をしっかりと引き継いでいますけど。息子の嫁まで手籠めにするなんて、あなた以上ですもんね。おほほ』
ハルオは放心した。本当に知らなかったのだ。最初の妻が出て行った理由も、父が浮気性だったことも。でも、まさか、息子の嫁にまで?そんなことが本当にあるのだろうか。
頭の中の整理がつかないハルオに、「あなた、高校生の頃におたふくかぜに罹ったことがあるそうですね」と、ミサコが問う。
『それが、どうした』
ハルオがぼんやりと答える。
『ずいぶん高熱が出て生死をさまよったとか』
『だから、なんなんだ』
ハルオの声に再び怒りが籠る。
『それで、子種が死んでしまったんじゃありませんか?』
『なんだと…お前は自分の不妊まで人のせいにするのか。この出来損ない…』
『私は不妊症なんかじゃありません!』
突然、ミサコが声を荒げた。
『なぜなら、私はあなたのお父さんの子を堕胎しているからです』
『な…』
『そしてそれは、お母さんも知っていることです!』
もう、ハルオの口からは言葉が出なかった。ただただ酸欠の金魚のように口をぱくぱくさせる。
『私が身ごもった時、お母さんははっきりと言いました。この子はハルオの子なんかじゃない。ハルオに子供が出来るわけがない。あんた、私の亭主と寝ただろう?って。私はそれでも産みたいと言ったのに、お母さんが無理やり…』
そこで、ミサコが声を詰まらせた。例え、望んでできた子供でなくとも、自分の子には違いなかった。子供を殺してしまったという罪に、ミサコはずっと苛まされていたのだ。
『あなただって、本当は気付いているんでしょう?自分に子種がないことくらい』
ミサコに言われ、ハルオは小刻みに首を振った。
『俺が悪いわけがない。悪いのはお前だ。お前は嘘つきで卑しい女だ。だって、お前も見ただろう。俺には、息子がいる。孝雄にという立派な息子が…』
『孝雄さんはあなたの子供じゃありませんよ』
ぴしゃりとミサコ。
『あなたも気付いてるのでしょう?孝雄さんが自分の子供じゃないことも、孝雄さんのお母さんがどんな女性かも。それでも認知したのは、単に自分のプライドを守りたかったからじゃないんですか?自分に子種がないことを認めたくなかったから、だから、孝雄さんのお母さんに言われるがまま、認知したのでしょう』
ハルオ亡き後、孝雄が現れた時、義理母と妹たちがこそこそ話しているのを実はミサコは聞いていた。
―あの子、絶対に兄さんの子じゃないわよ。
ーそうよ。ちっとも似ていないし、そもそも兄さんは子供の作れる体じゃないはず。
ーそれでも認知しちまってるんだ。この事実をひっくり返したら、あの子が恥をかく。
ーじゃあ、どうするの?
ーDNA検査を条件に出したらどう?
ーどういうこと?
ー本当に兄さんの子ならきちんとした金額を払う。でも、違ったら逆に訴えるっていうの。
ーでも、もし、本当に兄さんの子なら?
ーそんなわけないじゃない。だから、検査が嫌なら、いくらかお金を握らせて、金輪際私らの前に現れないでって約束させましょう。なぁに、相手はお金さえもらえたら満足なんだから、きっとこれで引き下がるわ。
―仕方ない。ここは、我慢するしかないだろう。はした金でハルオの名誉を守ってやれるなら安いもんだ。
ー悔しいけど、それしかないよね。こんなことがばれたら、ミサコがどれだけつけあがるかわかりゃしない。
あの瞬間、ミサコの心は決まったのだ。この家を出ていこう。この家族と縁を切ろうと。
『あなたが、私に謝ってそれで消えてくれるのならば、私は一生このことを胸にしまっておくはずでした。それなのに、残念ですね…』
呆然とするハルオにミサコは語りかける。その顔は、いつもの穏やかなお地蔵様のようなミサコに戻っていた。
…ニャー
と、その時、どこからともなくそんな声がした。ふと土間の方を見ると二つの何か光るものが近づいている。いつの間にか夜になっていた。死神の鎌のように鋭利な三日月が空に浮かんでいる。
ニャア…
その光の正体がわかったとき、ミサコは思わず歓喜の声をあげた。
『ミーちゃん!』
それは、ミサコがかつて可愛がっていた野良猫のミーだった。トラ柄の片耳がかけたその猫を、ミサコはこっそり餌付けし、名前までつけていたのだ。
『まさか、お前に再会できるなんて!』
ミサコは放心するハルオを飛び越えミーを抱き上げる。辛い結婚生活の中で、唯一癒してくれた存在。子供のようなミー。そのミーに会えただけで、二度と会いたくなかった夫に会ったことも、すべて帳消しだ。もしかしたら、これは初めからミーに会うための儀式だったのかもしれない。そうだ、きっとそうだ。だって、私にとっての家族は、このミーだけだったのだから。
『ああ、よかった。ミー』
『何がミーだ、この野郎』
突然ハルオがミサコの背後から首を絞める。驚いたミーがミサコの腕から飛び降りて、フーっとハルオを威嚇した。
『許さんぞ。家を出て行くなんて』
ハルオが手に力を籠める。ミサコは苦しさのあまり目を白黒させる。
『お前がその気なら、一緒にあの世へ連れてってやる。』
完全に悪霊と化したハルオにもはや良心の欠片もなかった。目は血走り吊り上がっている。
『死ね、死ぬんだ、ミサコ』
ハルオの腕には欠陥が浮いていた。その手にさらにぐっと力がこもり、ミサコの意識が遠のく。ああ、なんてこと、せっかく幸せになれるとおもったのに…。
遠のく意識の中で、ミサコはトシオのことを思った。短い間だったけど、そばにいれてよかった。
ぎゃぁああ
ふっと、体から力が抜け息ができるようになった。げほげほとむせながら、ミサコが目にした光景は、ハルオにとびかかる大きなトラ。いや、違う。トラのように巨大化した猫のミーだった、
『なんだ、この化け猫が、畜生』
ハルオは必死に抵抗したが、ミーはいとも簡単にハルオの首元に食らいつくとひょいと持ち上げた。
『ぎゃあああ、おい、ミサコ助けてくれぇええ』
ハルオを咥えたまま、ミーは走りだし土間から出て暗闇の中へ溶けて消えた。
『ミーちゃん!』
ミサコの呼びかけにミーは一度も振り返らなかった。
ミサコがたどり着いたのは嫁ぎ先の家の前だ。でも1か月前に飛び出した自宅ではない。建て直す前の古い家の入口にミサコはいた。
なんて、懐かしい…。
藁ぶき屋根で、トイレは外。もちろんぼっとん便所。昔は馬小屋として使われていた小屋には農機具が収められている。
かつては手広く農家をしていたミサコの嫁ぎ先は、田畑が次々に道路や橋にかかり大金を得た、いわば土地成金だった。
そこで、ミサコはぶるりと震えた。どろんとした灰色の空からは白いものがちらほら舞い降りてくる。雪だ。季節は残暑厳しい秋の入りのはずなのに。
『お邪魔します』
誰にともなく呟き、渋い引き戸を引いて中へ入ると土間がある。右手には風呂。土間から小上がりをあがると、すぐに居間だ。はっきりと覚えている。
『入りますよ』
独り言ちてから靴をぬいだ。サンダルで来たので裸足だ。足の裏をくすぐるささくれだった畳の感触がリアルでミサコはぞっとした。
そういえば、自分がこの家へ嫁いできたのも冬だったことをミサコは思い出す。確か初雪が降った11月の初め。
あの頃は舅も生きていて、姑、3人の義理の妹たち、呆けて徘徊する大舅と寝たきりの大姑までいたものだ。嫁に来て一番最初に教えられた仕事が大姑たちの下の世話だった。けれど、それでも新婚当初は、胸に淡い期待を抱いていた。見合いの席で会ったハルオは体躯がよく、知的で、スーツを着こなし、自分にはもったいないくらいの人だと感謝すらしたものだ。
そうだ。卑屈にも私は、あの人に貰っていただけるだけでありがたいと考えていたのだ。そして、それと同じように、この家の家族も、こんな私を貰ってやったのだから、この家に尽くせと思っていたに違いない。私は、ここへ嫁として呼ばれたわけではない。体のいい家政婦として迎えられたのだ。
わかっていたことだが、やはり、みじめさは拭えない。
『誰かおりますか?』
緊張しながら声をかけるが、家はしんとして人の気配がしなかった。それなのに、あの、嫌な臭いが奥の部屋から漂う。寝たきりの大姑の部屋に置かれたおまるからか、たはたまた、大舅が粗相した便で遊んだ匂いか、その両方か。この古い家には、そんな匂いが染みついていた。
二度と思い出したくないのに、全てが懐かしい。
『それにしても寒いわぁ』
薄手の半そでのブラウスを着たミサコの腕には鳥肌がたっていた。奥では薪ストーブが燃えていたが、その火はとても小さく、今にも燃え尽きそうだった。ストーブのわきに転がった薪をデレキを使って入れてやると、火は息を吹き返した。煙が目に染みる。けほけほとむせていると、突然強い力で肩を掴まれ、後ろに引きずり倒された。
『おい!』
仰向けになったミサコをのぞき込むのは死んだハルオだった。
『何するの、痛いじゃないの』
不思議と怖くはなかった。むしろミサコは冷静で、ああ、幽霊にも足があるのね、と、そんなことをまず思った。
『一体、どういうつもりだ?え?』
冷静なミサコとは対照的に、ハルオは興奮していた。顔を赤くし、声を張り上る威圧的な態度は死んでもなお変わらない。この張りのある声で怒鳴られると心臓がぎゅっと痛くなり縮こまったものだ。
『なんですか。久しぶりに会ったのに、怒鳴り散らすなんてひどいじゃないですか』
ミサコは起き上がると、台所へ向かった。のどが渇いていた。確か戸棚の中に茶葉があったはずだ。ミサコは記憶をたどりながら茶の用意をし、水を入れた薬缶をストーブの上に置いた。
『茶なんか飲んでる場合か!時間がないんだ、時間が』
ミサコの後をおいかけ、文句を垂れるハルオ。しかし、みさこはつんと澄ましていた。
『お茶ぐらい飲ませてくださいな。じゃなければ私はこのまま帰りますよ。この家の外へ出れば、もう二度と会うことはありませんよ。それでもいいんですか?』
これはミサコのはったりだったが、ハルオはどうやら信じたようで、唇をへの字に曲げると、どかりと座った。
やがて薬缶がピーと鳴きお湯が沸いたのを知らせる。ミサコがゆっくりとお茶の用意をするので、ハルオは苛立ち、これ見よがしにため息をつく。それでもミサコの淹れた茶が目の前に置かれるとゆっくりと啜った。
『うまい』
『それはよかった』
ミサコが微笑むと、ハルオの強張った顔がふっと緩んだ。
『すまなかった』
ハルオが神妙な面持ちで頭を下げる。
『お前には苦労を掛けた。許してほしい』
ハルオの言葉に、「過ぎたことです」と、ミサコ。その顔にはいつも通り、お地蔵様のような穏やかな笑みがうっかんでいる。
『じゃあ、家に戻ってくれるな?今なら、お前が頭を下げれば、母さんも妹たちもお前の過ちを赦してくれるだろう』
ほっとしたようにハルオが言うと、ミサコは「うふふ」と笑った。
『それはできまぜん』
『な…』
予期せぬ返答に、ハルオが言葉に詰まる。つい今さっき、「過ぎたこと」と許してくれたのではなかったのか。ハルオの顔には困惑の色が見え隠れしていた。
『あなたからの謝罪は受け入れました。けれども、家に戻ることはありません』
ミサコはきっぱりと言い放つ。
『ふ、ふざけるな』
腹が立ったハルオは、思わず飲みかけのお茶をミサコの顔にぶっかけた。幸い、お茶は冷めていたたが、ミサコの髪の毛からは緑色のしずくがぽたぽたと滴っている。こんな状況でもミサコの顔には相変わらずお地蔵様のような笑みが張り付いていた。
『人が下手に出れば調子に乗りやがって。お前のせいでうちは大迷惑してるんだ。母さんに悪いと思わないのか?妹たちがどれだけ大変な目にあっているのか、わからないのか。え?そもそも墓はどうするんだ。誰が管理するんだ?』
これこそがハルオの本音であり目的だった。長男として残してきた母親や家や墓の管理は気になったものの、決してミサコを思いやる気持ちはなかったのだ。それどころか、長男の嫁としての義務を果たさなかったことに怒りすら覚えていた。
『ほほほ。そんなことは知りませんよ。私はもうあの家の人間ではないのですから』
そして、ミサコはそんな夫の気持ちを見抜いていたのだ。初めから期待などしていなかった。そんなものは、とうの昔に捨てている。
『お前、ふざけるな』
今度は湯飲みがミサコに飛んできたが、すんでのところでよけ、湯飲み戸棚に当たりパリンと割れた。
『相変わらずですね。でも、あなたの行動は全てお見通しですよ。ふふふ』
何をされても静かに微笑むミサコにかっとなったハルオは、ついに飛びかかった。
『何が可笑しい?何が不満なんだ?誰のおかげで生活できたと思ってる。俺だろう?ええ?俺のおかげで、外に働きに出ることもなく、一日中家でだらだらしてこれたんだ。子供のできないお前を追い出すこともなく置いてやった俺や俺の家族に恩返しするのが当然だろう。それなのに、この年になってから男のところに転がり込むなんて恥ずかしいと思わないのか?ああ?』
胸ぐらをつかみ、顔をぐっと近づけ、唾を飛ばしながら叫ぶハルオに、
『ちっとも、恥ずかしくなんかありませんよ。私は今、一番幸せ何です』
と、ミサコは宣言した。
『なんだと?』
胸ぐらをつかんだハルオの手をゆっくりと外しながら、ミサコはもう一度言う。
『私、とっても、幸せです』
『はん、老いらくの恋ってやつか?色呆けか?あんな貧乏農家のどこがいい?年金だっていくらももらえない。あいつが欲しいのはお前なんかじゃない。お前がもらう、この俺の遺族年金に目を付けたんだ。そんなこともわからないで、馬鹿な女だ。この世間知らずが』
ハルオが小ばかにしたように笑う。
しかし、何を言われてもミサコは顔色を変えなかった。それどころか、
『色呆けは、あなたのお父さんじゃありませんか?』
と、反撃に出たのだ。
『なんだと?』
ハルオはもう一度ミサコの胸ぐらに手をかけようとして、思わずひるんだ。ミサコの顔から笑みが引き、今まで見たことのないような冷たい顔をしていたからだ。
『私、知ってるんですよ。あなたの最初の奥さんがなぜ出て行ったか。なぜ、あなたのような人の所に、次のお嫁さんがなかなか来なかったのか』
ミサコはハルオにとって二番目の妻だった。最初の妻は半年もせず出て行ったと聞いている。
『そ、それは、前の奴がこらえ性が無かったから…』
顔さえもおぼろげになっている最初の妻の話が今更出たことに、ハルオは動揺していた。確かに、最初の妻は半年で出て行った。あの女は仕事をさぼってばかりいるし、要領が悪いと、母が追い出したのだ。
『いいえ、違います。あなたのお父さんが、前の奥さんにしつこく迫ったからですよ。そして、それに気づいて嫉妬したお母さんが追い出したんです』
『そ、そんなばかなことがあるはずがないだろう。なんて下品な作り話をするんだ、お前は』
まさに寝耳に水であった。そんなバカげた話があるわけがない。
『信じなくても結構です。でも、人の口に戸は建てられませんからね。知らぬ、隠し通したと思っているのは当の本人たちだけで、ここいら一帯じゃ有名な話だったそうですよ。あなたのお父さんは大変な女好きだそうで、見境がなかったとか。私はそのことをヤエちゃんから聞きましたけど』
ミサコは顔色一つ変えず、淡々としてる。
『ヤエちゃんって、あの嫌われ者ばばぁのヤエか。あんな奴の言う事なんか信じてお前は本当に馬鹿だな』
ミサコの口からヤエの名前が出たことで、ハルオが勝ち誇ったように笑った。鼻つまみ者のヤエのたわ言を信じるなんて、どうしようもない女だ。
しかし、次の瞬間、
『いいえ、嘘ではありませんよ。現に、お父さんは私にも手をつけたんですから』
ミサコがとどめの一撃を食らわせた。
『は…?』
さすがに、ハルオの顔から笑みが引く。
『最初の奥さんはお綺麗な人だったそうですね。だから、次は、お父さんが絶対に手を出さないような醜い嫁をもらったのに、て、お母さんに泣かれましたから』
『母さんは、知ってるのか?』
『はい。お父さんは病的な女好きで浮気性だったようですね。あなたもその血をしっかりと引き継いでいますけど。息子の嫁まで手籠めにするなんて、あなた以上ですもんね。おほほ』
ハルオは放心した。本当に知らなかったのだ。最初の妻が出て行った理由も、父が浮気性だったことも。でも、まさか、息子の嫁にまで?そんなことが本当にあるのだろうか。
頭の中の整理がつかないハルオに、「あなた、高校生の頃におたふくかぜに罹ったことがあるそうですね」と、ミサコが問う。
『それが、どうした』
ハルオがぼんやりと答える。
『ずいぶん高熱が出て生死をさまよったとか』
『だから、なんなんだ』
ハルオの声に再び怒りが籠る。
『それで、子種が死んでしまったんじゃありませんか?』
『なんだと…お前は自分の不妊まで人のせいにするのか。この出来損ない…』
『私は不妊症なんかじゃありません!』
突然、ミサコが声を荒げた。
『なぜなら、私はあなたのお父さんの子を堕胎しているからです』
『な…』
『そしてそれは、お母さんも知っていることです!』
もう、ハルオの口からは言葉が出なかった。ただただ酸欠の金魚のように口をぱくぱくさせる。
『私が身ごもった時、お母さんははっきりと言いました。この子はハルオの子なんかじゃない。ハルオに子供が出来るわけがない。あんた、私の亭主と寝ただろう?って。私はそれでも産みたいと言ったのに、お母さんが無理やり…』
そこで、ミサコが声を詰まらせた。例え、望んでできた子供でなくとも、自分の子には違いなかった。子供を殺してしまったという罪に、ミサコはずっと苛まされていたのだ。
『あなただって、本当は気付いているんでしょう?自分に子種がないことくらい』
ミサコに言われ、ハルオは小刻みに首を振った。
『俺が悪いわけがない。悪いのはお前だ。お前は嘘つきで卑しい女だ。だって、お前も見ただろう。俺には、息子がいる。孝雄にという立派な息子が…』
『孝雄さんはあなたの子供じゃありませんよ』
ぴしゃりとミサコ。
『あなたも気付いてるのでしょう?孝雄さんが自分の子供じゃないことも、孝雄さんのお母さんがどんな女性かも。それでも認知したのは、単に自分のプライドを守りたかったからじゃないんですか?自分に子種がないことを認めたくなかったから、だから、孝雄さんのお母さんに言われるがまま、認知したのでしょう』
ハルオ亡き後、孝雄が現れた時、義理母と妹たちがこそこそ話しているのを実はミサコは聞いていた。
―あの子、絶対に兄さんの子じゃないわよ。
ーそうよ。ちっとも似ていないし、そもそも兄さんは子供の作れる体じゃないはず。
ーそれでも認知しちまってるんだ。この事実をひっくり返したら、あの子が恥をかく。
ーじゃあ、どうするの?
ーDNA検査を条件に出したらどう?
ーどういうこと?
ー本当に兄さんの子ならきちんとした金額を払う。でも、違ったら逆に訴えるっていうの。
ーでも、もし、本当に兄さんの子なら?
ーそんなわけないじゃない。だから、検査が嫌なら、いくらかお金を握らせて、金輪際私らの前に現れないでって約束させましょう。なぁに、相手はお金さえもらえたら満足なんだから、きっとこれで引き下がるわ。
―仕方ない。ここは、我慢するしかないだろう。はした金でハルオの名誉を守ってやれるなら安いもんだ。
ー悔しいけど、それしかないよね。こんなことがばれたら、ミサコがどれだけつけあがるかわかりゃしない。
あの瞬間、ミサコの心は決まったのだ。この家を出ていこう。この家族と縁を切ろうと。
『あなたが、私に謝ってそれで消えてくれるのならば、私は一生このことを胸にしまっておくはずでした。それなのに、残念ですね…』
呆然とするハルオにミサコは語りかける。その顔は、いつもの穏やかなお地蔵様のようなミサコに戻っていた。
…ニャー
と、その時、どこからともなくそんな声がした。ふと土間の方を見ると二つの何か光るものが近づいている。いつの間にか夜になっていた。死神の鎌のように鋭利な三日月が空に浮かんでいる。
ニャア…
その光の正体がわかったとき、ミサコは思わず歓喜の声をあげた。
『ミーちゃん!』
それは、ミサコがかつて可愛がっていた野良猫のミーだった。トラ柄の片耳がかけたその猫を、ミサコはこっそり餌付けし、名前までつけていたのだ。
『まさか、お前に再会できるなんて!』
ミサコは放心するハルオを飛び越えミーを抱き上げる。辛い結婚生活の中で、唯一癒してくれた存在。子供のようなミー。そのミーに会えただけで、二度と会いたくなかった夫に会ったことも、すべて帳消しだ。もしかしたら、これは初めからミーに会うための儀式だったのかもしれない。そうだ、きっとそうだ。だって、私にとっての家族は、このミーだけだったのだから。
『ああ、よかった。ミー』
『何がミーだ、この野郎』
突然ハルオがミサコの背後から首を絞める。驚いたミーがミサコの腕から飛び降りて、フーっとハルオを威嚇した。
『許さんぞ。家を出て行くなんて』
ハルオが手に力を籠める。ミサコは苦しさのあまり目を白黒させる。
『お前がその気なら、一緒にあの世へ連れてってやる。』
完全に悪霊と化したハルオにもはや良心の欠片もなかった。目は血走り吊り上がっている。
『死ね、死ぬんだ、ミサコ』
ハルオの腕には欠陥が浮いていた。その手にさらにぐっと力がこもり、ミサコの意識が遠のく。ああ、なんてこと、せっかく幸せになれるとおもったのに…。
遠のく意識の中で、ミサコはトシオのことを思った。短い間だったけど、そばにいれてよかった。
ぎゃぁああ
ふっと、体から力が抜け息ができるようになった。げほげほとむせながら、ミサコが目にした光景は、ハルオにとびかかる大きなトラ。いや、違う。トラのように巨大化した猫のミーだった、
『なんだ、この化け猫が、畜生』
ハルオは必死に抵抗したが、ミーはいとも簡単にハルオの首元に食らいつくとひょいと持ち上げた。
『ぎゃあああ、おい、ミサコ助けてくれぇええ』
ハルオを咥えたまま、ミーは走りだし土間から出て暗闇の中へ溶けて消えた。
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