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エピソード2
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残暑が厳しい秋の入り、朝一番に店の呼び鈴を鳴らしたのは招かれざる客のヤエだった。
前回の来店からまだひと月しかたっていないというのに珍しい。まさか、一か月前のカットが気にくわないからやり直せなどと言い出すのではないかとマリコは身構えた。ヤエなら十分にあり得る。
『相変わらずここは客がいないね。生活成り立ってんの?』
大きなお世話である。せっかくお客が来ても、ヤエの姿を見て出直す人だっているのだ。まったく、貧乏神というか疫病神というか。
『それにしても暑いね。マリコ、なんか冷たい物でも出してちょうだいよ。喉が渇いちゃって死にそう』
いっそ死んでくれればいいのにと心で悪態をつきながら、マリコは氷をたっぷり入れた麦茶を差し出す。ヤエはぐっと一息に飲み干すと、大きくげっぷした。
『今日はどうなさいました?』
『どうもこうもないわよ、あんた。知ってる?』
何が?
藪から棒に聞かれマリコは「さぁ」と答えると、帳簿を取り出してつけるふりをした。どうやら通りがかりにふらりと寄っただけのようだ。まともに相手をしてはいけない。こうして、客がいないのを見計らって、暇つぶしに寄る客がいるのも田舎ではよくあること。忙しくはないが、忙しいふりでもしなければ居座られる可能性がある。
『ミッチャン、出てったの』
さも、大変なことが起きたとばかりに、ヤエが声を潜めた。
『へぇ…って、え?ミッチャンって?ミサコさんのこと?』
『そうよぉ。あんた他に誰がいるの?』
マリコが食いついてきたことで調子が出たのか、ヤエは飲み物のおかわりを要求した。
『アイスコーヒーがいいわね。うんと甘くしてミルクもたっぷりでお願い』
『へいへい…』
好奇心に負けてしまった自分に後悔しながら、マリコが立ち上がると、
『あ、氷は少な目でね。ストローも』
ヤエがさらなる注文を付ける。
本当、クソババア。それにしても、ミサコさんは一体どこへ行ってしまったのだろう。
一か月前、姑の昼食を用意するためにいそいそと帰って行ったミサコの濡れた背中を思い出すと、マリコは不安に駆られた。
ご所望のアイスコーヒーを今度はゆっくりと啜りながら、ヤエは「見て、これ」と自らの目元を指さした。
『見て、これ?ひどいでしょう?』
ひどいでしょうと言われても、そこにあるのは、いつも通りの皺だらけの窪んだ目である。今さらなんだというのだ。そんなに気になるのなら、美容院ではなく美容外科にでも行ってヒアルロン酸でも打って来いと、マリコは声に出さずに毒づく。
『眠れないのよ』
『ミサコさんが心配で?』
『違う。そんなことはどうでもいい。っていうか、そもそも私はミッチャンがどこにいるか知ってるもの。ミッチャンはようやく人並みの幸せを手に入れたんだ。なんにも心配することはない』
『どういうことですか?』
『つまりねぇ…』
と、ヤエが語り始めたことはこうだ。
1か月前、とうとう堪忍袋の緒が切れたミサコは、亡き夫の一周忌が終わると嫁ぎ先を出て行ったらしい。年老いた姑を残し、雀の涙程度の遺産を持って。残された義理の母はどうするのか。墓は誰が見るのかと、ミサコの義理の妹たちは血眼になってミサコを探しているというのだ。
『ヒュー!ミサコさん、やるぅ』
常日頃からミサコに同情していたマリコはスカッとした。それは、ヤエも同じらしく「でしょう!」と自分の快挙のごとく誇らしそうにしている。
『何がすごいって、ミッチャンたら、死んだ旦那に離婚届つきつけたらしいの』
『え?どうやって?』
『死後離婚ってやつ。ちょっと、説明するの面倒だから、あんたのそれで、ちゃちゃっと調べてみなさいよ』
ヤエがマリコのスマホを指さす。さっそくマリコが死後離婚について調べると、こんなことが書かれている。
死後離婚とは配偶者が亡くなった後に、親族との関係を終わらせる手続きで以下のようなメリットがある。
・配偶者の両親や兄弟の面倒を見る必要がなくなる。
・亡くなった配偶者の墓の管理や法事に出席する必要がなくなる。
・死後離婚しても、相続権や遺族年金を受給する権利は亡くならない。
『最高じゃん』
子供のいないミサコにとって、これほど都合の良いことはないだろう。ミサコはようやく夫の家族という呪縛から逃れ自由になったのだ。
『そう、最高なの。よくやったって、私はミッチャンを褒めたよ。私とミッチャンは同じ村の出で親友だからね。嫁に来てからずっと互いを支え合ってきたんだから』
ミサコとヤエが親友だなんて初めて聞いた。それに、あんたの場合はすぐに離婚したうえに、夫を追い出したのではなかったか?そう思ったが、勿論、マリコは口には出さない。
『で、ミサコさんのお姑さんは今どうしてるんですか?』
『妹たちが交代でお世話してるようだけど、そのうち施設に入るでしょうね。孫だって言う隠し子とやらも、遺産相続が終わった途端連絡がつかないみたいだし。ざまあみろだわよ』
『ざまぁ見ろですね』
マリコも同意した。
『一件落着じゃないですか。でも、ミサコさんが遠くに行っちゃったのは寂しいなぁ』
良いお客さんがまた一人減ってしまったことにマリコは落胆する。
『遠くになんか行ってないわよ。ミッチャンは生まれた村に帰っただけなんだから、ここから車で20分もかからないとこにいるのよ』
『そうなんですか?ご実家に?』
『実家なんかとっくの昔に代変わりしてないようなもんよ。ミッチャンはね、初恋の人のとこに行ったの。本当はその人と結婚したかったんだけど、私たちの時代はさ、親が決めた相手がいればそれに従ったもんよ?ミッチャンの家も貧しかったから、農家の倅より、親は勤め人に嫁がせたかったのね。それが、そもそもの不幸の始まりだったんだけど』
確かミサコの死んだ旦那は県庁勤めのお役人だったはず。当時では珍しく大学も出ており、優秀な息子に出来の悪い嫁が嫁いだというのが、姑の嫁いびりの文句だったと聞いたことがある。
『それなら、落ち着いたらまたここへ来てくださいってヤエさんから伝えてくださいよ』
『それはいいんだけど、それより、まず、私を助けてくれない?』
『どういうことですか?』
『立つのよ、毎晩』
『何が?』
『ミッチャンの死んだ旦那が、私の枕元に』
くわばらくわばらと、ヤエが両手をこすり合わせる。
『まさか!』
ミサコの枕元に立つというのならわかるが、なぜヤエの元に現れるのか。マリコには理解できない。
『そんなこと、私が聞きたいわよ。ミッチャン、初恋の彼と毎晩乳繰り合ってるんじゃないの?死んだ旦那に気付かないくらい激しくさぁ』
『乳繰り合うって…』
『とにかく、そのせいで私は寝不足だよ。このクマ見りゃわかるだろう?このままじゃ、頭がおかしくなりそう。どうにかしてちょうだいよ』
『どうにかって言われても…』
『あんた、私がなんにも知らないと思ってるの?あんたの死んだばあさんは拝み屋だったでしょう?あんただってその血を引いてるんだ。なんとかなるだろう』
『なんとかって言われても…』
歯切れの悪い返答を繰り返すマリコに、ヤエが地団太を踏んで叫ぶ。
『とににかく死んだミッチャンの旦那はミッチャンと話がしたいらしんだ。その仲を取り持ってくれよ。じゃなきゃ、私がとり憑かれて殺されちまうよ。それでもいいのかい?』
別にいいと思ったが、ヤエが是が非でもミサコを説得するというので、渋々その依頼を引き受けることにした。
前回の来店からまだひと月しかたっていないというのに珍しい。まさか、一か月前のカットが気にくわないからやり直せなどと言い出すのではないかとマリコは身構えた。ヤエなら十分にあり得る。
『相変わらずここは客がいないね。生活成り立ってんの?』
大きなお世話である。せっかくお客が来ても、ヤエの姿を見て出直す人だっているのだ。まったく、貧乏神というか疫病神というか。
『それにしても暑いね。マリコ、なんか冷たい物でも出してちょうだいよ。喉が渇いちゃって死にそう』
いっそ死んでくれればいいのにと心で悪態をつきながら、マリコは氷をたっぷり入れた麦茶を差し出す。ヤエはぐっと一息に飲み干すと、大きくげっぷした。
『今日はどうなさいました?』
『どうもこうもないわよ、あんた。知ってる?』
何が?
藪から棒に聞かれマリコは「さぁ」と答えると、帳簿を取り出してつけるふりをした。どうやら通りがかりにふらりと寄っただけのようだ。まともに相手をしてはいけない。こうして、客がいないのを見計らって、暇つぶしに寄る客がいるのも田舎ではよくあること。忙しくはないが、忙しいふりでもしなければ居座られる可能性がある。
『ミッチャン、出てったの』
さも、大変なことが起きたとばかりに、ヤエが声を潜めた。
『へぇ…って、え?ミッチャンって?ミサコさんのこと?』
『そうよぉ。あんた他に誰がいるの?』
マリコが食いついてきたことで調子が出たのか、ヤエは飲み物のおかわりを要求した。
『アイスコーヒーがいいわね。うんと甘くしてミルクもたっぷりでお願い』
『へいへい…』
好奇心に負けてしまった自分に後悔しながら、マリコが立ち上がると、
『あ、氷は少な目でね。ストローも』
ヤエがさらなる注文を付ける。
本当、クソババア。それにしても、ミサコさんは一体どこへ行ってしまったのだろう。
一か月前、姑の昼食を用意するためにいそいそと帰って行ったミサコの濡れた背中を思い出すと、マリコは不安に駆られた。
ご所望のアイスコーヒーを今度はゆっくりと啜りながら、ヤエは「見て、これ」と自らの目元を指さした。
『見て、これ?ひどいでしょう?』
ひどいでしょうと言われても、そこにあるのは、いつも通りの皺だらけの窪んだ目である。今さらなんだというのだ。そんなに気になるのなら、美容院ではなく美容外科にでも行ってヒアルロン酸でも打って来いと、マリコは声に出さずに毒づく。
『眠れないのよ』
『ミサコさんが心配で?』
『違う。そんなことはどうでもいい。っていうか、そもそも私はミッチャンがどこにいるか知ってるもの。ミッチャンはようやく人並みの幸せを手に入れたんだ。なんにも心配することはない』
『どういうことですか?』
『つまりねぇ…』
と、ヤエが語り始めたことはこうだ。
1か月前、とうとう堪忍袋の緒が切れたミサコは、亡き夫の一周忌が終わると嫁ぎ先を出て行ったらしい。年老いた姑を残し、雀の涙程度の遺産を持って。残された義理の母はどうするのか。墓は誰が見るのかと、ミサコの義理の妹たちは血眼になってミサコを探しているというのだ。
『ヒュー!ミサコさん、やるぅ』
常日頃からミサコに同情していたマリコはスカッとした。それは、ヤエも同じらしく「でしょう!」と自分の快挙のごとく誇らしそうにしている。
『何がすごいって、ミッチャンたら、死んだ旦那に離婚届つきつけたらしいの』
『え?どうやって?』
『死後離婚ってやつ。ちょっと、説明するの面倒だから、あんたのそれで、ちゃちゃっと調べてみなさいよ』
ヤエがマリコのスマホを指さす。さっそくマリコが死後離婚について調べると、こんなことが書かれている。
死後離婚とは配偶者が亡くなった後に、親族との関係を終わらせる手続きで以下のようなメリットがある。
・配偶者の両親や兄弟の面倒を見る必要がなくなる。
・亡くなった配偶者の墓の管理や法事に出席する必要がなくなる。
・死後離婚しても、相続権や遺族年金を受給する権利は亡くならない。
『最高じゃん』
子供のいないミサコにとって、これほど都合の良いことはないだろう。ミサコはようやく夫の家族という呪縛から逃れ自由になったのだ。
『そう、最高なの。よくやったって、私はミッチャンを褒めたよ。私とミッチャンは同じ村の出で親友だからね。嫁に来てからずっと互いを支え合ってきたんだから』
ミサコとヤエが親友だなんて初めて聞いた。それに、あんたの場合はすぐに離婚したうえに、夫を追い出したのではなかったか?そう思ったが、勿論、マリコは口には出さない。
『で、ミサコさんのお姑さんは今どうしてるんですか?』
『妹たちが交代でお世話してるようだけど、そのうち施設に入るでしょうね。孫だって言う隠し子とやらも、遺産相続が終わった途端連絡がつかないみたいだし。ざまあみろだわよ』
『ざまぁ見ろですね』
マリコも同意した。
『一件落着じゃないですか。でも、ミサコさんが遠くに行っちゃったのは寂しいなぁ』
良いお客さんがまた一人減ってしまったことにマリコは落胆する。
『遠くになんか行ってないわよ。ミッチャンは生まれた村に帰っただけなんだから、ここから車で20分もかからないとこにいるのよ』
『そうなんですか?ご実家に?』
『実家なんかとっくの昔に代変わりしてないようなもんよ。ミッチャンはね、初恋の人のとこに行ったの。本当はその人と結婚したかったんだけど、私たちの時代はさ、親が決めた相手がいればそれに従ったもんよ?ミッチャンの家も貧しかったから、農家の倅より、親は勤め人に嫁がせたかったのね。それが、そもそもの不幸の始まりだったんだけど』
確かミサコの死んだ旦那は県庁勤めのお役人だったはず。当時では珍しく大学も出ており、優秀な息子に出来の悪い嫁が嫁いだというのが、姑の嫁いびりの文句だったと聞いたことがある。
『それなら、落ち着いたらまたここへ来てくださいってヤエさんから伝えてくださいよ』
『それはいいんだけど、それより、まず、私を助けてくれない?』
『どういうことですか?』
『立つのよ、毎晩』
『何が?』
『ミッチャンの死んだ旦那が、私の枕元に』
くわばらくわばらと、ヤエが両手をこすり合わせる。
『まさか!』
ミサコの枕元に立つというのならわかるが、なぜヤエの元に現れるのか。マリコには理解できない。
『そんなこと、私が聞きたいわよ。ミッチャン、初恋の彼と毎晩乳繰り合ってるんじゃないの?死んだ旦那に気付かないくらい激しくさぁ』
『乳繰り合うって…』
『とにかく、そのせいで私は寝不足だよ。このクマ見りゃわかるだろう?このままじゃ、頭がおかしくなりそう。どうにかしてちょうだいよ』
『どうにかって言われても…』
『あんた、私がなんにも知らないと思ってるの?あんたの死んだばあさんは拝み屋だったでしょう?あんただってその血を引いてるんだ。なんとかなるだろう』
『なんとかって言われても…』
歯切れの悪い返答を繰り返すマリコに、ヤエが地団太を踏んで叫ぶ。
『とににかく死んだミッチャンの旦那はミッチャンと話がしたいらしんだ。その仲を取り持ってくれよ。じゃなきゃ、私がとり憑かれて殺されちまうよ。それでもいいのかい?』
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