美容師マリコのスピリチュアルな日常

三島永子

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エピソード1

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 あれ…?

 目を開けると、カエデは家に戻っていた。数時間前に意を決して飛び出してきたリビングには祖母が昼食に用意してくれたおにぎりを乗せたお皿がテーブルに残っている。祖母が握るおにぎりは大きすぎるから、いつもほんの一口か二口残してしまうのだ。でも、今日は長旅に出るのだからと気合いを入れて食べた。だから、お皿は綺麗に空っぽだ。

 全部、夢?まさか!

 そう思って窓の外を見ると、いつも止めてある場所に自転車がない。自転車だけじゃない。小屋につながれているはずのコロ助もいない。よく見れば、見慣れたリビングなのにどこか違う。それに音がしない。蝉の声も、車の音も、世界から音が消えたように静かだった。

 絶対に夢なんかじゃない。確かに、私、あの場所へ行った。あの変な女の人の看板がある、美容室。優しいお姉ちゃんと、ちょっと意地悪で派手なオバサンがいて、シュジュツを受けて…。それから、どうなったの?

 カエデは混乱し、頭を抱えて座り込んだ。このまま誰もいない世界に一人取り残されてしまうかもしれないという恐怖心に支配され、涙がにじむ。

 いやだ、怖い。夢なら冷めて!助けて…。

 そう願って、胸の前で手を合わせた時、静寂は突如として破られた。

『カエデ…、』

 混乱するカエデの背後から懐かしい声がする。会いたくてたまらなかった人の声。カエデの小さなからだが震えた。

『どうして…』

 たまらなくなってカエデが振り返る。

『よ、ヨネさぁああん!』

 振り返ったカエデの目に飛び込んできたのは、会いたくて焦がれ続けた曾祖母のヨネの姿だった。

『ヨ、ヨネさぁぁぁん』

 カエデがヨネのハの字に曲がった足にすがり付き、わんわん泣く。言いたいことはたくさんあるのに、言葉がでてこない。頭に巻いた白いタオル、畑仕事で染み付いた土の匂い、お気に入りだった黄色のポロシャツは洗濯のし過ぎでよれよれ。

 間違いない。間違うわけがない。カエデがこの世で一番好きなヨネだ。

『なんで、なんで、私なんかを呼ぶんだよ。せっかくママに、会えるチャンスだったのに、なんで…』

『だって、だって…』

 しばらく二人は抱き合って泣き続けた。死んだはずのヨネの体温は温かく、涙は舐めるとしょっぱい。2人とも、涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃだった。

『ママに会おうと思った。でも…』
 
 先に口を開いたのはカエデのほうだった。

『でも?なんで?』

『会いたい人の顔を思い浮かべたとき、ヨネさんの顔が浮かんだ。ヨネさんの声が、ヨネさんのしわくちゃの手の感触が浮かんだんだよぉ』

 カエデがしゃくりあげる。

『なんて…なんてバカな子なんだい。なんて…』

 ヨネがカエデの背中を二度殴り、三度目でまた強く抱き締める。

『あんたのママになんて言ったらいいんだ?なんて謝ったらいいんだ?私は、いつもあんたのママに申し訳なくて…』

『やめて!』

 カエデが叫んだ。

『そんな言い方はやめて』

『カエデ…?』

『ママはヨネさんが悪いなんて思ってない。絶対に!』

 カエデの澄んだ目がヨネを射抜く。

『本当はあの夜ヨネさんに言いたかったんだよ。申し訳ないないなんて思わないでって!ずっと、ずっとそれが言いたかったんだよ!』

『あの夜?』

『ヨネさんが、カエデに権利をくれたあの夜だよ。カエデを独占した償いををするって、そう言ったじゃないか』

『あ、あれは…』

 まさかあの夜のことを、カエデがこんなにも気に病んでいたなんて思いもしなかったヨネは衝撃を受ける。なんと説明したらわかってくれるのだろう。

『だって、そうじゃないか。本来なら母親が感じるべき幸せを、このひいばあちゃんが独占しちゃったんだよ。今だって、カエデはここにいる。わたしゃリカちゃんに顔向けできないよ」

『だったら、カエデと過ごした時間はヨネさんにとって悪いことだったの?』

『そんなわけないだろう』

『だって償いって、悪いことをした人がすることでしょう?』

 必死に考え、思いを口にしたものの、カエデがヨネの気持ちを汲み取るには、まだ幼すぎた。 

『そうじゃないんだよ。ヨネさんにとって、カエデと過ごした時間はかけがえのない宝物なんだ。悪いことなんか何一つなかった』

『カエデだって同じだよ。そりゃ、ママが生きていたらって考えたこともあるよ。でも、ヨネさんと一緒の時間はいつも笑ってた。キラキラしてた。ママはいないけど、こんなに素敵なひいばあちゃんがいるのが、カエデの自慢だったんだから!』

 カエデの純粋な気持ちを知って、ヨネがむせび泣く。

 あたしゃ、ばかだね。幸せすぎて申し訳なく思うなんて、罰が当たるとはこのとこだ。ますますリカちゃんには顔向けできないよ。でも、そんなこと、カエデには絶対に言ったらいけないねぇ。

『ヨネさんお願いだからカエデと過ごした時間を悲しい思い出なんかにしないで。償いなんて言わないで。ヨネさんにそれを伝えたかった。だからカエデは今日、ここへ来たんだよぉ』

 カエデが子供のような無防備な姿で泣く。もっと、うんと小さかった頃の泣き顔を、ヨネは鮮明に思い出した。

 いつも、このひいばばの後ろを追いかけてきた。まるで金魚の糞だねぇと笑われたもんだ。おんぶが好きで、背中から降ろした途端、火が付いたように泣くもんだから困ってしまった。パパが代わるといっても嫌だと言う。ヨネさんじゃなくちゃ嫌だと。なんだか申し訳なく思いながらも、優越感を感じていなかったと言えば嘘になる。あの小さかったカエデが、こんなに立派になって会いに来てくれた。大人でも30分はかかる距離を自転車をこいでさぁ。暑かっただろう。疲れただろう。心細かっただろう。それなのに、わたしと過ごした時間はかけがえのないものだったと伝えるためだけにすべて乗り越えてきてくれたんだ。こんな嬉しいことはないじゃないか。

『カエデの言う通りだ。ヨネさんが悪かったよ。ごめんよぉ』

 泣きじゃくるカエデの頭を優しく撫でる。カエデの体からは、優しい花のような香りがした。

『今日はありがとうな。ヨネさんに会いに来てくれてありがとうな』

 うんうんと、カエデが頷く。胸が一杯で言葉が出ないのだ。
 
 ふとヨネが外を見ると、さっきまで太陽が昇っていたのに、日が傾き、空が紫色をしていた。

 ああ、あの時も、そうだった。亡くなった弟と会った時。朝だったのが、いつの間にか夜になって、そして目が覚めた。きっと、今回もそうなのだろう。別れの時間は刻一刻と迫っている。

『なぁ、カエデ思い出話合戦しようか?』

『思い出話合戦?』

 カエデがきょとんとする。

 残された時間は限られている。ならば、カエデと過ごした楽しい時間を、思い出を語り合いたい。美しく尊い過去を辿りながら、こんなにも自分たちは幸福だったと、思う存分感じたいのだ。

『そうだ。カエデとヨネさんが過ごした時間の中で楽しかったことを話すんだ。まずはヨネさんから。ネズミのトンネル』

 ネズミのトンネルと聞いて、泣いていたカエデの顔に笑顔が戻る。散歩中、用水路で偶然ネズミを見かけたことがある。カエデとヨネさんが「あ!」と大きな声を出すと、ねずみはパイプの中へ逃げて行った。以来、そこをネズミのトンネルと名付け、ネズミが来るのを待ったが、再びネズミにお目にかかることはできなかった。

『カボチャ餅パーティー』

 カエデが言うと、

『くぅ…それ、次に言おうと思ってたのに先を越されたね。あぁ、カボチャ餅、食べたくなってきたよ』

 と、ヨネが身をよじった。

 カボチャ餅は、ヨネの大好物で得意料理だった。ホットケーキミックスにカボチャを甘く煮たものと、団子の粉を混ぜて油で焼くと、表面はパリッと、中は甘くてもちもちとしたカボチャ餅が完成する。「昨日のかぼちゃの煮つけが残ってるから、今日はカボチャ餅パーティーだ」と、二人で作っては、たらふく食べた。

『カエデも食べたいな』

 カエデが、ほうっとため息をついた。

『作り方なら教えたろう?』

『うん。でも、ばあちゃんが、火を使うのはまだ早いって。あと、台所が汚れるからダメだって作らせてくれないんだ』

『あれあれ、相変わらずカズコは厳しいんだから」

 ぷっと顔を見合わせ、二人は笑い合う。

 祖母のカズコはカエデの教育係だ。姑のヨネにも物怖じせず意見する。ひいばばと孫二人、雁首がんくび並べて叱られることは日常茶飯事だったが、それも、カズコの愛情の深さゆえだとヨネは理解している。カエデは、たまに厳しすぎるカズコに反発しているようだが、いづれはその愛に気付くだろう。
 
『ヨモギ摘み』

『ビーズでネックレス作り!』

『お姫様とおばばさまごっこ!』

『タンポポで王冠作り』

『流れ星探し名人勝負!』

『早く寝た方負けゲーム!』

『もらったバナナはタヌキのうんこの話!』

 あはははは…

 思い出は、いくら語っても尽きなかった。カエデとヨネには二人にしかわからない遊びも、秘密もたくさんありすぎて、そのどれもが愛おしい。

 こうしていると、カエデは今いる世界こそが本物なのではないかと思えてきた。本当はヨネさんは死んでなんかいなくて、ヨネさんが死んだ夢をカエデが見ていたのではないかと。

 けれど、やっぱり、それは違った。気が付けば、外は真っ暗で、空には白い満月が浮かんでいる。いつの間に夜になったのだろう。驚いてカエデがヨネを見つめると、ヨネの顔からすっと笑みが引いた。

『カエデ、そろそろお別れの時間だ』

『い、やだ。後、もう少しだけ』

 ヨネがゆっくりと首を振る。

『カエデ、ヨネさんはもう死んでるんだ。お化けなんだよ。怖いだろうぉ』

 両手をだらりと下げて、ヨネさんがふざける。最後は笑顔で別れたかった。

『怖くなんかない。ヨネさんは、ヨネさんだ!』

 ひしっと、ヨネに抱きつくカエデをヨネは抱きしめる。ああ、たった一年でこんなに大きくなって。きっと来年には、私の背丈を抜くだろうな。そんなことを考えると、やはり涙がこみ上げる。

 本当は、もっと、ずっと一緒にいたかった。せめて中学校に入るまで。いや、高校生になるまで?ならば、成人式の振り袖姿も見たいし、こうなったら花嫁姿もみたい。
 
 なんて…。

 そしたら、あたしゃ何歳まで生きなくちゃいけないんだい?本物の化け物ばあさんじゃないか。

 欲は果てしなく、死んでも生へ執着する自分自身にうんざりして苦笑いする。そして、やはり、こう考えてしまう。

 こんな長生きばばあでもこんな風に考えるんだ。どれほどリカちゃんは無念だったろうね。ごめんね、ありがとうね。

 勿論カエデのために口には出さない。

『ヨネさんだって、カエデとずっと一緒にいたい。でも、それは無理な事なんだ。わかるだろう?ママも、同じだった。まだ赤ん坊のカエデを抱っこしながら、毎晩泣いていた。もっと、ずっと一緒にいたかったって』

『ママも?』

『ああ、そうだ。でも、人はいつか死ぬ。ずっと同じ時間を生きるのは無理だ。それを、カエデは、赤ん坊の頃に経験している。ママとの別れでね』

『うん。でも、カエデは赤ちゃんだったからママとのことは覚えてないんだ』

 ママのことを覚えていないこと、そして、ママよりもヨネさんを選んでしまったことに、幼いカエデも少なからず心を痛めいていた。でも、それを口にするとヨネさんが償いをしなくてはならなくなるので、カエデは黙っている。

『そうだろうね。でも、あの時カエデは赤ん坊なりに、ママの死を悲しいと感じていたはずだ。そして乗り越えたんだ。小さな体で。だから、今も乗り越えられる。カエデはもう赤ん坊じゃないんだから』

 わかっている。カエデは赤ん坊じゃないし、ヨネさんはかえでよりずっと歳を取っていて、死ぬのは仕方ない。けれど、頭で理解しても、寂しい気持ち、恋しい気持ちは消えない。だから苦しいのだ。

『カエデ、ヨネさんは年寄りだったから、他のママみたいに可愛い弁当を作ってやれなかった』

 ヨネさんにキャラ弁を作って欲しいとお願いしたことがある。でヨネさんが作ったのは、げんこつみたいに大きい、不細工な顔おにぎりだった。

『若いママみたいに運動会では走れなかったねぇ』

 借り物競争のお題が「好きな人」だった時、カエデは迷うことなくヨネさんの元へ走った。結果、びりけっつで、でも、ゴールした時会場にいたみんなから大きな拍手をもらった。

『母の日に書いた絵は、カエデのだけ、皴がたくさんだったよね。だって、カエデ、ヨネさんの顔を書いたから』

『わたしゃあそこまでしわくちゃじゃなかったよ。思い出したら、腹が立ってきたねぇ』

『うふふ』

 ……。

 二人の間に、沈黙が訪れる。どちらもわかっていた。もう、別れは、目の前に迫っている。

『やっぱり、やだぁ…』

 こらえきれなくなって、カエデがヨネに飛びついた。

『離れたくない、カエデ、ここにいる。ここでヨネさんと暮らす』

『ば、バカ言ってるんじゃないよ。あぁあ、カエデは赤ちゃんだね。ほれ、赤ちゃんにはこれだ。おっぱいだ。ヨネさんのおっぱい飲むかい?』

 ヨネは涙をこらえておどけてみせた。ポロシャツから、ぽろりと自らのおっぱいをさらけ出して。こうすると、カエデは、「ヨネさんのエッチ!変態!」と怒ったものだ。

 それなのに…。

 カエデは、その胸にむしゃぶりついた。まるで、赤ん坊のように。出るはずのない、ヨネの垂乳根に、顔を埋め、しっかりと背中に手を回す。決して離れまいと主張するように、シャツをぎっちりと掴んで。

 あたしゃ、本当に幸せ者だねぇ。

 カエデを引き離すのを諦め、ヨネは大きすぎる赤ん坊の背中をぽんぽん背中を叩いてやる。カエデは、うっとりとした顔で、ヨネの乳を吸い続ける。

『カエデ、あたしの大きな赤ちゃん…』

 その瞬間、カエデの瞼の裏側に火花が散った。

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