美容師マリコのスピリチュアルな日常

三島永子

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エピソード1

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『…マ?ママ…?』

『ん…』

『ちょっとママ、起きて!お客さんだよ!』

『え?』

 クーラーのよく効いた部屋は魔空間だ。マリコはうっかりうたた寝をしていた。気付けば2時間近くも売り上げゼロを示すレジに突っ伏していたようだ。おかげで首と背中が痛く、額にはボタンの跡がくっきり残っている。

『あのぉ…』

『あ、いらっしゃいませぇ』

 額を押さえながら、マリコはその小さなお客さんとやらに愛想笑いを浮かべた。

 リイコの隣には、リュックを背負った女の子が汗だくで立っている。店の前には、この子が乗ってきたであろう桃色の自転車が止められており、大人が引率してきた気配はない。

 1人で来る子もいるにはいるが、それは大抵何度か親と来て慣れてからで、事前に保護者から電話で予約が入る。

『お姉ちゃん、トイレでも借りに来たのかなぁ?それともお水が欲しい?』

 だから、こんな風に突然店にやってくる子は、トイレを借りたいか、お水が飲みたいか、はたまた、変質者を見かけて飛び込んできた場合がほとんど。

 田舎あるあるだ。

 そういう時、マリコは気持ちよくトイレを貸してやるし、水には氷を入れてやる。帰り際には飴と、店の電話番号が入ったポケットティッシュをプレゼントするのだ。おうちの人によろしくねと言い聞かせて。

 変質者が出た場合も(大抵、子供たちの大変失礼な勘違いが多いのだが)騒ぎたてる子供たちを落ち着かせ、学校へ連絡して、先生達が迎えに来るまで待機させてやる。セツコもそうしていた。

 だから、今回もまさかこの子がお客様だとは思わず、マリコはそう尋ねたのだ。実際、女の子はまずトイレに飛び込んだ。相当我慢していたのか、勢いの良いおしっこの音がドアの向こうから聞こえてくる。

 その間に、リイコがコップにオレンジジュースを注いでいた。水でいいのに、わざわざ、自分の分のジュースを分けてやるところがいじらしい。

 リイコは自分より小さな子に、とりわけ優しい。それは、兄弟への強い憧れがあるからだ。もしも、妹か弟がいたら、きっと良いお姉ちゃんになったことだろう。実際、兄弟をねだられたこともある。しかし、シングルマザーのマリコには難しい注文だった。

『ありがとうございます…』

 トイレから出てきた女の子のTシャツの首回りは、汗でシミができていた。髪の毛もプールのあとみたいに濡れている。

『はい、これ飲んで』

『いいんですか?』

 リイコが差し出したオレンジジュースを女の子は喉をならして一気に飲んだ。面倒見の良いリイコが、女の子の濡れた髪の毛をタオルで拭いてやっている。

 女の子は真っ黒に日焼けしていた。眉毛が太く、目が大きいくて、肉付きもよい。まるで南国の子供のようだ。対するリイコは、真っ白で、顔のパーツ全てがちんまりとしていて、雛人形のようである。ひょろりと伸びた手足は枝のように細く、頼りない。

 それでも、こうしてみると、やはり、リイコはやはりお姉さんだ。もしもリイコに妹がいたら、きっとこうして世話をやいてあげるのだろう。小さなママとして。そんな妄想をすると、マリコの顔には、笑みが浮かぶ。

『何、にやにやしてんの?気持ち悪いなぁ』

 にやけるマリコに、リイコが顔をしかめる。

 中学生になってから、一気に扱いが難しくなったリイコに、たまに、マリコは本気で腹が立った。小さい頃は可愛かったよな、と思う。この女の子と同じ年頃の頃は、ママが好き、だぁい好きと、聞かなくても言ってくれていたのにさぁ。それが今じゃ…。

『ママ、何、ぶつぶつ言ってんの?ん、ん!』

 女の子の髪の毛を拭きながら、リイコが、顎をしゃくった。この子をどうにかしろと言っているのだ。マリコは目をパチパチさせて、わかってるよと、合図を送ると、不自然な笑顔を張り付けて、女の子と向き合った。

『お姉ちゃん、どこから来たの?』

 マリコの問いに、女の子は隣町の名前をあげた。

『え?そんな遠くから?1人で?』

 女の子は罰の悪そうな顔で頷く。

『熱中症になっちゃうよ』

『大丈夫です。水筒にお水をたくさん入れて、休みながら来たから』

 女の子は背中に背負っているリュックをちらりと見せてから、『途中で、全部なくなっちゃったけど…』と、苦笑いした。

 誘導尋問の末聞き出したところ、女の子の家は、大人でも自転車で30分はかかる場所にある。子供なら、その倍はかかったかもしれない距離を、炎天下のなか、リュックサックを背負って1人やって来るなんてよほどのことに違いなかった。

『お姉ちゃん名前は?』

『カエデ。メープルシロップのカエデだよ』

 カエデはしっかりとした口調で答えた。

『素敵な名前だね』

 マリコが褒めると、カエデは顔をくしゃっとさせて、『ママとパパはね、新婚旅行でカナダに行ったの。それで、ママはカナダが大好きになったんだって。だから、カエデの名前はカナダの旗に描いてある、あの葉っぱからもらったんだ』と、誇らしげ気に胸を張った。

『そうなの。かっこいいね。ところでカエデちゃんは何年生かな?とってもしっかりしてるね』

『三年生!』

 褒められて嬉しかったのか、カエデは鼻の穴を膨らませた。

『じゃあ、三年生のカエデちゃんはなんでこんなところまで来たのかな?おうちの人は、遠くまで1人で自転車でお出掛けするの、許してくれたの?』

 とたんに、無口になってカエデは唇を噛んだ。

 まさか、家出少女か。だとしたら、警察に連絡をするべきか。いや、まず先に、カエデから家の電話番号を聞き出すべきだろう。そして、家族に引き取りに来てもらう。警察なんかに連絡したら事が大げさになってしまうから。

 マリコが考えあぐねいていると、

『秘密のシュジュツを受けに来ました!!』

 意を決したように、カエデは叫んだ。

 マリコとリイコがはっとしたように顔を見合せる。

『手術って…。ねぇ、私、医者じゃないんだよ。それに、ここ、病院じゃなくて美容院だしぃ』

 マリコの意地の悪い返事に、カエデは顔を青くした。今にも泣き出しそうな顔で、リイコを見上げている。そんなカエデに、マリコは口を尖らせ、知らん顔を決め込んだ。

『ちょっとママ、子供相手にそんな言い方はやめて!』

 リイコは目を赤くするカエデを椅子に座らせると、コップにジュースのおかわりを注いでやった。自分のぶんは、ほとんど残っていない。

『どんな施術を受けに来たか、お姉ちゃんに教えてくれる?』

 リイコの柔らかな態度にほっとしたのか、カエデは、舐めるように大切に2杯目のジュースをすすりながら、ここへ来た経緯をゆっくりと語り始めた。
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