美容師マリコのスピリチュアルな日常

三島永子

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エピソード1

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『暑い…』

 曇った窓から見える外の世界は、目が痛いほど明るく水面のように揺れている。連日の猛暑に、マリコはすっかり参っていた。いくら夏とはいえ、この北東北で連日の真夏日越えはあんまりだ。昔は、真夏日なんて1日あるか、ないかだったのに。

 テレビでは、ヨーロッパのどこかの国では気温が40℃を越え、熱中症で命を落とす人が続出していると伝えている。その上山火事まで発生して追い討ちをかけているらしい。

『年々地球温暖化が進んでるよね。なのにさ、なんで冬は寒くて雪がたくさん降るんだろうねー。矛盾してるよねー?』

『てゆうかさ、暑い暑い言うわりにはクーラーもつけないママの行動のほうが、めっちゃ矛盾してるんだけど』

 マリコの1人娘であるリイコが恨めしそうにマリコを睨んだ。

 築30年の母屋と同じ敷地内に建つ『美容室マリコ』はセット面が2つあるだけの小さな店だ。流行りの洒落た隠れ家的サロンなどではなく、よくあるタイプの家に隣接した個人経営の店で、サロンと言うより、パーマ屋さんと呼んだほうがしっくりくる。目印は、外人風の女の人が微笑む古い看板だ。

 アメリカの大女優をパクって描いたような看板で、マリコとリイコは、看板に描かれた彼女をモンローさんと呼んでいた。数十年も雨風に晒されたモンローさんは、薄汚れてみすぼらしいく、古くさい店構えに拍車をかけている。

 いい加減、その看板外したらいいのに、と、リイコは常日頃から口にする。

 実際、マリコだって、モンローさんの看板を死ぬほどダサいと思っている。それなのに撤去しないのは、愛着なんかじゃなく、マリコが単にものぐさだからだ。

 しっかりと壁にくっついている看板は、撤去するには業者を呼ばなければいけないし、業者を呼べばお金がかかる。いっそ、台風かなんで飛んでいってしまえばいいと思うのだが、残念ながらダサ看板は、風が吹こうが、槍が降ろうが、店と一体化し、離れないのだ。

 こんな店でも前は繁盛していた。マリコの亡き母、セツコは腕の良い美容師で、だからこそ、夫(マリコの父親だ)を早くに病気で亡くしても、マリコとマリコの弟を育ててこれたし、家だって手放さずにすんだのだ。

『この家でさ、クーラーがあるのは店だけなんだよ。だから、私はここで宿題をしているんです。それなのに、クーラーつけてくれないなら、ここにいる意味ないじゃん?』

『だったら、家の中に戻ればいいじゃん?』

『家が暑すぎてはかどらないから店にきたの。ほら、見て、プリントが汗でぶよぶよだよ』

 リイコがふにふにゃになった数学のプリントをマリコの鼻先へつき出すと、マリコはぷいっと子供のように顔をそらした。

『だいたいさ、美容室なんてキンキンに冷えてるくらいでちょうどいいんだよ?ケープは蒸し暑いし、ドライヤーからは温風が出るんだよ。外から入ってきたお客さんは、はぁ、涼しい~!ってのを期待してるのに、こんなサウナ状態じゃ、お客さんだって逃げてくよ』

『だって、今月赤字だもん。節約しなくちゃだめじゃん?』

『今月じゃなくて、今月もでしょ!あのね、ママ。節約は大事だけど、節約するところ、間違ったらだめだよ。客商売なんだから、お客さんのこと第一に考えなきゃ』

『なら、お客が来たらつけるよ』

『それじゃダメなんだよ。お客さんが店に入ってきた時には、すでに心地よい環境じゃなきゃ。おばあちゃんも言ってたよね?お客さんがこない日でも、店は明るく、きれいに、温度は心地よく。どんなに電気代がかかっても、灯油代が高くても惜しまない』

 早口で正論をまくしたてるリイコはセツコにそっくりで、マリコはうんざりした。

『とゆうことで、えい』

『あ、あぁ~』

 リイコが禁断のスイッチを押すと、エアコンはぱかりと口を開け、冷たい風を吐き出した。

『せっかく我慢してたのにぃ。ふぁ~』

 文句を言いかけたものの、火照った体に冷たい風は気持ちよい。負けた、と思いながら、もうスイッチをOFFにすることはできない。どうせ抗えないのならばと、マリコは思う存分、冷気を浴びることに決めた。かりかりと、リイコのペンの進み具合もいい。

 つられて、なんだかマリコまでやる気が出てきて、鼻歌を歌いながら、レジ回りの拭き掃除、生理整頓を始めた。やはり、快適な環境は大事だなぁと思いながら、レジボタンの間に溜まった綿ぼこりを楊枝で掻き出しているとき、レジに浮かぶ青白いゼロの文字が目に飛び込んできて、はっとした。

 せっかく店を冷やしたのだから、お客よ来い!

 マリ子は強く念じる。実は昨日、一昨日と来客はゼロだった。このままでは材料費を支払えない。いや、材料費どころか、日常生活もままならないかもしれない。冷蔵庫の食材はほぼ食べきった。3日連続無収入なら、今夜の夕飯はソーメンだけになりそうで、それだけは避けたい。

 自分だけなら我慢できるが、リイコは中学二年生で育ちざかり。リイコが痩せっぽっちで、小さくて、いまだに生理がこないのは、もしかしたら、我が家の食生活が貧しすぎるせいだからではないかとマリコは気に病む。かりかりと、一定のリズムで問題を解き続けるリイコの頭頂部を見つめていると、マリコの胸はきゅっと締め付けられる。

 リイコのクラスメイトたちは、夏休み中、塾に通ったり、習い事をしたり、ディズニーランドへ行ったり、中には海外旅行へ出掛けている子もいるだろう。それ以外の子だって、きっとクーラーの効いた涼しい部屋の中で宿題をしているに違いない。クーラーもない部屋で、額から流れる汗でプリントを汚しているのなんで、リイコくらいのものだ。

 リイコは私立の中学に通っている。クラスメイトはお金に余裕のある家庭の子が多い。リイコを私立の中学に通わせているのが、もともと厳しい家計をさらに圧迫させている原因なのだが、例え草を食ってでも、今の学校へ通わせる価値があると、マリコは思っている。

 小学校時代、リイコはいじめを受け、不登校だった。いじめといっても、大げさなものではない。よくある、ちょっとしたからかい、仲間外れ、その程度だったのだろうが、神経質で気の弱いリイコは、たちまち学校へいけなくなってしまった。

 田舎では、大抵、皆、町の中学へ進学する。小さな町には、小学校も中学校も一つしかないから、メンバーは変わらない。そこで、孫を心配したセツコが県庁所在地にあるカトリック系の私立中学への進学を打算したのだ。

 そして、その選択は正解だった。

 少人数制で、ボランティア活動に力を入れているその学校は、元々は女子校で、ゆったりと優しい雰囲気に包まれており、リイコには合っていた。格差はあるがクラスメイトともうまくやっており、片道一時間以上かかる通学も苦ではないらしい。

 学費に交通費と出費はかさむが、リイコが喜んで学校へ行く姿を見ると、マリコは胸が熱くなった。その喜びを共有するはずだったセツコが、もうこの世にいないことが、たまらなく悲しいけれど。
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