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〈2 ダイアモンドリリー〉

ep20 黄金に輝る放課後にふたり①

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「っ……」

 帰りのHR《ホームルーム》後。咲乃がカバンを手に取ると、硬い感触と共に、肌に冷たい違和感が走った。
 手のひらを見ると、中指の中節部から赤い線が走っている。そこから滲むように血の球が浮き出てきた。薄く皮膚を切ったようだ。深い傷ではないが、存在を主張するように小さな痛みが脈打っている。

「篠原、また明日なー」

「うん、また明日」

 咲乃は、神谷に気付かれないよう、血の付いた手を握りしめた。

 神谷が教室を出て行ってから、咲乃はカバンの持ち手を確認すると、ちょうど真ん中あたりに、家庭科で使う刺繍針が刺さっていた。

 移動教室中に仕込まれたのか。

 保健室に絆創膏だけもらってこようと、咲乃は机の上にカバンを残して、教室を出て行った。



 教室に誰もいなくなった頃、結子は人目を忍んでそっと教室に戻ってきた。
 なるべく足音が響かないよう静かに歩く。他に人の気配がないかに気を配りつつ近づいたのは、咲乃の机だ。

 どきどきする胸を抑え、そっと机の上に手を当てた。静かに目を瞑る。

 ――退屈そうに頬杖を付きながら、窓の外を見ている篠原くん――静かに読書をして過ごす篠原くん――友達と話しているときの篠原くん――授業に真面目に取り組む篠原くん……。
 結子の席から見た、色んな彼の姿が、色鮮やかに瞼の裏に浮かび上がる。最後に浮かんできたのは、結子に笑いかけた時の彼の顔だった。

 ゆっくりと目を開く。息をするのが苦しいほど、胸の奥がどきどきしている。人差し指で咲乃の机に「好き」と書いた。
 好きな人に告白されるおまじない。おまじないをかけるときは、けして誰にも見られてはいけないという決まりがある。

 ようやく机から手を放すと、やり遂げたことへの達成感で、ほっと息をついた。

「中本さんはまだ帰らないの?」

 心臓が止まるかと思った。勢いよく後ろを振り返ると、にこにこ笑っている咲乃がいた。全身から血の気が引く。

「しっ……篠原くん……!!」

「俺の席に何か用?」

「えっ、えっと、こ、これは……」

 咲乃に尋ねられ、結子は答えられずに後退った。さがった拍子に、咲乃の机が腰に当たる。心臓が飛び出るかと思うほどにびっくりして、結子は体を震わせた。

 見られたかもしれないと思うと、絶望的な気持ちになった。
 もし、軽蔑されたら。勝手に人の机でおまじないなんかして、気味悪がられたら。一方的に好意を向けられて、迷惑に思われたら。篠原くんに、嫌われたら――。

「ご、ごめんなさいっ!」

 咄嗟に逃げようとして、あっけなく咲乃に腕を掴まれてしまう。結子は怯えながら咲乃を見上げた。

「中本さん、少し話をしない?」

 怖いくらい穏やかに微笑む咲乃に、結子は今にも泣き出しそうになった。



 咲乃に促され、結子は椅子に座った。向き合うように、咲乃も近くの席に座る。面と向かった形に居心地の悪さを感じて、うつむいたまま手をもじもじさせていると、くすくすと声がした。
 結子は目に涙をためたまま呆けた顔で見返した。
 咲乃が声を押し殺して笑っている。結子は、なぜ笑われているのか、さっぱり分からなかった。

「中本さんて、不思議なことをするよね」

 咲乃があまりにも可笑しそうに笑うせいで、すっかり気の抜けた結子は目を瞬かせた。

「おっ、怒ってないの?」

「怒ってるわけじゃないんだ。ただ、少し怪しかったよ。でも、すごく辺りを警戒しているわりには、背中が無防備だなって」

 肩を揺らして笑う咲乃に、結子の顔が熱くなった。

「わ……、渡したいものが……あって……」

「ん?」

 結子が出したのは小さなクラフト袋だった。開け口の部分は、お花のシールで閉じられている。

 咲乃に「開けてもいい?」と聞かれ、結子は小さく頷いた。

 透明の包装袋にはクッキーが入っていて、メッセージカードが差し込んである。


“篠原君へ。体育の時のこと、ごめんなさい”

 咲乃がメッセージカードを読むと、結子は机の下でスカートの裾をぎゅっと握りしめた。

「……どう、渡せばいいのかわからなくて。結局、放課後になっちゃって……。まだ、カバンがあったから、そのの中にいれようと……」

 今日は諦めて持って帰るつもりだった。だか、結子がトイレから戻ってくると、まだ咲乃の机の上にカバンが置かれているのを見て、手作りクッキーを中に入れておくつもりだったのだ。

「いきなり話しかけて、迷惑を掛けたく無かった……から」

「迷惑だなんて思わないよ。ありがとう、中本さん」

 結子はうつむいたまま首を横に振った。

「私、クラスで印象薄いし、居ないみたいなものだから。こんな私が声を掛けたら、篠原くんに迷惑を掛けちゃう。だから、どうやって謝ったらいいのか分からなくて……」

 結子の手の甲に水滴が落ちた。

「嬉しかったの。篠原くんに声をかけてもらって。だって篠原くん、物凄く目立つ人だし、遠い人だったから。私の事なんて眼中にないと思ってた。でも、篠原くんはそんな私でもちゃんと声をかけてくれて、話も聞いてくれて。なのに、私、何も返せてなくて……!」

 しゃくりあげてしぼんでいく声を、必死な想いで振り絞った。もっと上手く伝えたいと思うのに、思うようにいかない。

 ふわりと温かい温度が頭の上に乗った。
 男の子にしては繊細で柔らかい手の温もりが、髪ごしから伝わる。思わぬ温もりに息が止まりそうになった。

「中本さんが思っているほど、俺は特別でも何でもないよ。友達だと思って接してくれた方が嬉しいし、気持ちを伝えてくれるのはもっと嬉しい」

 不思議だった。いつもは目さえ合わせられないのに、頭をなでられると、あんなにうるさかった心臓が不思議と落ち着いてくる。ことん、ことんと、小さな小動物のような心音に変わる。心地よい音の響きと、頭に残る温かさに、結子は恐る恐る咲乃の顔を見上げた。

 ようやく彼と目が合うと、咲乃は目を細めて微笑んだ。

「約束守ってくれたこと、嬉しかったよ。だから泣かないで、ね」

 結子の潤んだ瞳の中に熱が灯る。心が幸せに満たされていくように、教室は柔く黄金色に包まれ、結子の身体は日向ぼっこをしてきた様にポカポカした。

 優しく清らかな微笑みを浮かべて結子を見つめるその人は、結子には直視するのは難しいほど眩しく、胸が締めつけられるほどに美しかった。







 その後、図書委員の友達を迎えに行った結子と別れると、咲乃は体育館を訪れた。

 もう既に最終下校間近のチャイムが鳴った後だったため、片付けを終えた部員たちとすれ違いながら、咲乃は目的の人物を探した。

 体育館では、神谷の他にふたりの女子がいた。見たところ1年生のようだ。彼女たちもジャージを着ているため、部活終わりなのだろう。
 神谷が、女子の一人から何かを受け取ると、女子たちは頭を下げてきゃっきゃとはしゃぎながら、咲乃の横を通り過ぎて行った。

「お疲れ様」

「わっ!? なんなんだよ!」

 床に座り足首に何かを結んでいる神谷に、咲乃が声をかけると、勢いよく神谷が振り向いた。

「なんでまだ居んだよ」

「たまには、一緒に帰ろうかと思って」

 咲乃が笑うと、神谷は意外そうに目を見開いた。

「まさか……わざわざ待っててくれてた……とか……」

「帰りが遅くなってしまったから」

「友達もっと大事にしろよ」

 せっかくの感動を、笑顔できっぱり否定する咲乃に、神谷は不満そう吐き捨てた。
 ふと神谷の足首を見ると、青や緑で編みこまれたミサンガが巻かれていた。

「それ、さっきの子たちから?」

 咲乃が尋ねると、神谷はよくぞ聞いてくれたと言いたげに口元をにやつかせた。

「明日、試合があるからってくれたんだよ。俺って年下にはモテちゃう感じだから?」

「良かったね」

 調子にのって鼻を高くする神谷に、咲乃は苦笑いしつつ頷いた。実際、神谷は後輩にモテる。面倒見が良く、誰に対しても気さくに声をかけるため、上下関係による壁を作らない彼の性格が人気らしいのだ。
 悪ふざけばかりしている、神谷のしょうもない一面を知っている同級生の女子たちには信じられないだろうが、バスケの練習風景を見ている後輩にとっては憧れの先輩だ。
 年下の少女たちからすると、年上の先輩というだけで良く見えるのだろう。

「なぁ、篠原。俺、倉庫の鍵持ってんだよな」

 唐突に、神谷がにやにやしながら、ズボンのポケットに入れた鍵の束を見せた。

「せっかくだから、ちょっと遊ぼうぜ」




 神谷は、数回ボールをバウンドさせると、ゴールを背に咲乃と向かい合った。ワンバウンドさせて、咲乃にボールを渡す。

 攻撃側オフェンスは咲乃が、防御側ディフェンスは神谷が行う。咲乃は腰をかがめると、低い位置でボールを右手へ左手へと揺さぶるようにドリブルしながら、神谷の動きを見定めた。瞬発的に前に踏み込む、それを追うように神谷が間合いを詰めてきた。遮るように神谷が左手を伸ばす。
 素早い切り返しで反対側を抜けようとすると、素早く神谷がついてくる。ゴールから身体が平行になるようにステップを踏み、咲乃の前を遮る。常にボールに届く位置に手をやられるため、咲乃は責めにくさを感じた。

 ボールを奪われたら終わりだ。神谷の手を避けようとして、はたき落される。

 咲乃は身体でボールを守りながら、神谷の隙をついて走り出した。神谷の腕の届かない距離を保ちながらドリブルする。ボールを足の下にくぐらせ、キャッチした手を背中の後ろに回し、一瞬、神谷の視界からボールを消す。神谷が咲乃の次の動きを見極めようとしている隙に、咲乃が外すようにダッシュした。
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