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第零章 プロローグ 人生で初めての推しアイドル(3次元)
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学生の頃、当たり前のようにクラスメイトの女子たちが男性アイドルの話をしてハシャいでいた。そういうタイプの彼らのことを今で言うなら、陽キャというのだろう。それで言うなら私は誰が見ても陰キャの生徒だった。仲の良い子はそれほど多くない。休み時間は読書。偏食気味だったので給食の時間も苦手だった。皆が揚げパンやドライカレーなどといった給食にしては珍しい、味も美味しくておかわりする子供達が続出し、教室内は当時、毎回ちょっとしたバトルが起こっていた。そんな時でさえ私は興味を示さず、自分の席でひたすら本を読んでいた。活字はもちろん好きだったが、漫画も大好きだった。漫画の世界に浸っている時は教室の騒がしさも、良好な対人関係を築くのが苦手な自分自身のことも忘れられた。全部忘れて、ヒーローとヒロインを応援し、その恋愛模様に心を熱くし、涙した。
そんな私なので、大人になった今でも今流行りのアーティストの音楽やアイドルについては言うまでもなくまったく明るくなかった。正直、男性アイドルは特に若ければ若いほど魅力を感じないし、全部同じ顔に見えてしまう。パーツは明らかに違うのだが、なんというか個性がなく、工場でベルトコンベアの上を流れながら大量生産されるようなロボットのような感じ。かといって、それらはガラクタではなく、それはそれは美しい崇高な容姿の王子様達。だが、ちっとも格好良いと思えなかった。実際、もう三十三歳なんてめでたくないゾロ目の年齢を迎えた女が、十代後半、たとえ年齢を重ねていたとしても精々二十歳なりたてくらいの男の子に惹かれることなどあるわけない、そう思っていた。――そう、あの日までは。
「おーい、希美ちゃん。おかえり。また今日も残業だったのかい? また随分遅かったね。女の子だってのに、いつも夜道ひとりで危ないんでないかい? 送ってくれる子とかいないの?」
私の職場は某IT企業で、パソコンの接続や設定など分からない点について丁寧に説明し、必要であれば遠隔やお客の自宅に訪問し、操作してトラブル(ウイルス駆除など)を修正する。家電量販店のような所謂、電気屋さんではなく、パソコンについての疑問点を教えるいわば個人向けのパソコン家庭教師のような企業である。私はそのカスタマーサポートを担当している。職場の中でももっとも忙しい部署と言われるそこで、ほぼ毎日のようにサービス残業をし、深夜二十二時にようやく帰宅する。それが当たり前だと身体が慣れてしまった。ブラック企業によって身体を壊す人って多分、こんな感じなのだろう。そう、私は家と職場を往復するだけ。そんな≪社畜≫に成り下がってしまった。大人になるとは、社会に染まるとは、なんと悲しいことだろうか。
今日も今日とて、くたくたになりながら自宅アパートに帰り着き、自分の部屋がある二階までの階段を昇っていた時、ふいに名前を呼ばれて、私は声のするほう――下の階を手すりに掴まりながら覗き込む。このアパートの大家さんがにっこりと笑っていた。「ちょっとおいで」と手招きされ、私は来た道を戻る。戻りながら考えていた。
……そういえば、このアパート、築何十年だったっけ。確か相当だったはず。私の住んでいるそのボロアパートは、風呂付ではないのだ。今どき、なかなかない。トイレはウォシュレットの洋式で共用でなかったことだけは救いだ。とにかく家賃が格安だった。都内のそれも二十三区内だというのに、1Kの部屋がたったの三万ポッキリ。これでも物価が上昇している今だから家賃は上がったほうで、私は大学進学と共にこのアパートに越してきたが、大学時代は一万五千円というあり得ない家賃設定だった。とにかく安い。安すぎて事故物件では? と本気で疑ったほどである。けれど、大家さんである三上のじいちゃん――学生時代から何かある度にお世話なっているので親しみを込めて私はそう呼んでいる――はとても穏やかで、気配り上手の老人だった。確か御年七十五になると言っていたような。だがまだまだ若々しく、物忘れなんかもまったくないようで、そんなじいちゃんが大家さんだからかこのアパートは住民同士のトラブルもない。ほぼ全員が顔見知りで、時間が合えばどこかの部屋に集まってお酒を飲むこともある。もちろんそういう飲み会では三上のじいちゃんが音頭を取る。このアパートに住んでいる人たちは当時の私のように学生で初めて一人暮らしをするためにここを選んだ人もいれば、最近子供が生まれたばかりだというご夫婦、それから三上のじいちゃんの旧い友人だという所謂、独居老人と呼ばれる人たちもいたりする。皆、最初にこのアパートを見に来た時は『うげっ。こんな部屋に人が住めるのか?』というような顔をするのだが、気が付くと三上のじいちゃんの人柄に惹かれて『まあ、とりあえず安いし、試しに住んでみるか』と考えを改める。私も例に漏れずそうだった。でも大学を無事卒業しても、就職しても、住まいは変えなかった。たとえ通勤にそこそこ時間が掛かっても、このあたたかい場所が好きなのだ。どんなにボロくても、人のあたたかさを感じられるこのアパートが。私にとってそのくらい大切な場所になっていた。
最初はもう、とことん引いた。私は別にギャルでもお嬢様でもないので、少々ボロいくらいでは動揺しないと思っていたのだが、壁は剥がれていたり床がミシ、と軋むような音を立てたり。それこそ漫画やドラマでしか見たことのないアパートだったので、タイムスリップでもしてしまったかのような錯覚を起こしかけた。けれど、三上のじいちゃんは私がここへ引っ越してくることを決めたら、すぐに修繕を行ってくれた。穴が開いていた壁も、色が剥げている外壁も、腐りかけてもう頼りなくなっていた手すりも付け替えた。今でも外壁の色が一部違うのは、ペンキの色をうっかり違う色でじいちゃんが塗ったからだ。ちょっとクリーム色のような、薄い茶色――モカっぽい色。その形がちょっといびつなハート型に見えなくもないので『じいちゃんの愛がたくさん感じられる家だね』とある時、そう言ったら『んだべ? 大成功よ』とじいちゃんは、彼が生まれてから高校までは住んでいたという北国の方言でお茶目に笑った。それは私にとっても馴染み深いものだ。地元の漁師さん達の言葉にもよく似ている。
北海道の田舎町で生まれ育った私にとって、東京は憧れの地だった。地元で自慢できるのは観光地として歴史的な建物が多いとか、夜景が綺麗だとかそのくらいしかない。食べ物が美味しくて羨ましいと言われることも多いが、私に言わせれば都会のほうがずっと有名な店は多い。スイーツも美味しいし。遊べるような商業施設なんてあの街にはほとんどなかった。遊びに行くのにも車が要る。学生には不便で不自由さしか感じなかった。だから、とくに将来の夢もなかったけれど上京だけはしたかった。ドラマや漫画、小説の、物語の中に出てくるようなドキドキするような恋も、東京でならできる気がしていた。そんなものは夢でしかなかったと、上京してからの私はすぐに気付くのだけれど。
じいちゃんはお料理も上手で、貧乏学生だった私は何度も夕飯のお裾分けを頂いた。私の両親の親はどちらも残念なことに私が生まれる前に亡くなっていたので、私にとっては三上のじいちゃんが祖父のような感覚だ。祖父でもあり、この冷たい大都会で必死に生きる私を応援してくれる父でもある。東京のお父さん。もう一つの心の実家。それが大家さん――三上敏郎さん。敏郎じいちゃんである。時に『たまにはちゃんと休みな。したら頭も体もすっきりするから』と優しい言葉をかけてくれたり、もう可愛いなんて年齢じゃないのに『希美ちゃんは本当に良い子で可愛いねえ。ウチの孫も希美ちゃんくらい年寄りに優しけりゃなあ』なんて私を褒めてから、ボヤくこともしばしばだった。
お孫さんの話はよく聞く。じいちゃんはそのお孫さんを『凪 』と呼んでいた。名前の響きもそうだが、私と比較するのだから恐らく女の子のお孫さんなのだろう。『生意気でどうもなんない子でねぇ』と嘆くような溜め息をよく吐いていた。
「じいちゃん聞いて……もうヘトヘトで。上司がクレーマー対応の仕事、次々押し付けるもんだから断れなくてさ。でも平気。夜道って言ったって東京は明るいもん。危ないことなんてないよ~」
「そうは言ったってなあ。女の子なんだし」
「じいちゃん、女の子って私もう三十三だよ? もうしっかりおばさんなんだから平気平気!」
「なしてよ? そんなことねえべさ」
「いやいや、そんなことあるんだってば」
じいちゃんは私を自分の部屋に上げて「これ、残りもんだけど嫌じゃなかったら食べな」とタッパーに入った煮物をくれた。それから、風邪引かないようにと喉に効く飴も。いつもじいちゃんはオマケのようにこの飴をくれる。
「いつもありがとう、じいちゃん」
「なんもさ。疲れた顔してるから、じいちゃんは心配なんだよ」
何だっけ、ほら、今の時代で言うパ……パワーなんとかってやつだっけか、とじいちゃんは眉根を寄せた。
「パワハラ?」
「そうそう、それ」
「まあねえ。でもウチの職場はまだまだ前時代的な人が多いし、仕方ないかなって」
「身体壊すまで無理しちゃいけないよ?」
「ありがと、じいちゃん」
じいちゃんはまた、方言で「なんも、なんも」と言って笑った。それから思い出したように部屋の掛け時計を確認して、録画を忘れてた! と言って慌ててテレビをつけた。見たいドラマでもあったのだろうか? 火サス? 土ワイ? いや、今日はどちらも放送日ではない。じいちゃんが一番好きな時代劇は夕方の再放送だったはずだ。
「じいちゃん、この時間に見たいテレビなんかあるの?」
なんとなく気になって聞いてしまった。じいちゃんは柔和な笑みで頷いた。
「ん、まあ、歌番組だな」
「え、それって演歌? ひばり? あ、よしみのほうか」
「普段聴くのはそういうのばっかりだけどもな、今日は違うんだ」
じいちゃんは答えて、視線をテレビに向けた。国営放送だろうか、その歌番組で紹介されていたのは二人組の――デュオの男性アイドルだった。
【今、大注目の人気アイドル、Shangri-La】
大きなテロップのその文字を私は目で追った。……シャングリラ? 初めて知るアーティストだった。
『今夜はShangri-Laのお二人に大ヒットメドレーと、来週発売となります新曲もご披露いただきます!』
『いやあ、相変わらずすごい人気ですよね~お二人どうですか? 圭くん、凪くん』
女性アナウンサーの紹介のあとに、最近ブレイク中の人気芸人コンビの片割れであるツッコミの男性が司会者として二人をスタジオに呼び込み、世間話をするかのように尋ねている。
「どうも、Shangri-Laです~」
言いながら頭を下げて現れたのは、茶髪に片耳にキラリと金に光るピアスをした華奢な男性と、もう一人は茶髪の彼と対照的で明らかに一八〇センチ以上はあるだろう、スラっとした長身で、それに良く似合う真面目そうな印象の黒髪。彼も茶髪の子と同じように片耳だけピアスをしている。漆黒にも見えるが、角度によっては蒼く光るゴツめの石の印象のピアスだった。よく手入れされているのが分かるくらいその黒髪は艶があり、はっきりと天使の輪が見える。その髪が映えると感じたのはきっと、彼の肌が透き通るように美しかったから。そして、大きな瞳も、綺麗に通った鼻筋も、色も形も良いその唇も、まるで美とはこういうものだと、画家や彫刻家が創り出したかのように計算され尽くされたその顔面が私にとてつもない衝撃を与えた。
『なんスかね~ついに俺らの時代が来たかと』
『こらこら圭くん。言い方考えようね? いえ、まだまだです。僕らデビューが遅くて事務所では遅咲きと言われたチームでしたので。でもファンの皆さんの応援でここまで来られて、昨年はありがたいことに大忙しでしたし。今年はツアーも無事開催して今頑張っているところで。今日もこうして夢だったこの番組にも出られたので本当に嬉しいです。シャングラーのみんな見てる? いつもありがとう』
『今の凪くんの微笑みで、テレビの前の女子たちは大騒ぎですよ!』
凪と呼ばれた黒髪の彼は、見た目通りの優しい、甘い声をしていた。優男って感じだ。でも彼がトークをしている間も、その後でアイドルとしてパフォーマンスをしている時も、その笑顔に、一挙手一投足に目が離せなかった。
――……きれい。
思わず、ぼそりと零してしまった。この瞬間、私は確かに心を奪われた。
Shangri-Laの[[rb:三上 凪――それが彼、私が初めて推すことになる三次元アイドルの名前だった。
まるで一目惚れのようだった。テレビから目を離せずにいたその時の私には周囲の音が一切耳に入っていなかった。だから、じいちゃんが告げていた驚きの事実も私の耳に届いているわけもなかった。
それが、私と推しとの最初の出会いだ。
そんな私なので、大人になった今でも今流行りのアーティストの音楽やアイドルについては言うまでもなくまったく明るくなかった。正直、男性アイドルは特に若ければ若いほど魅力を感じないし、全部同じ顔に見えてしまう。パーツは明らかに違うのだが、なんというか個性がなく、工場でベルトコンベアの上を流れながら大量生産されるようなロボットのような感じ。かといって、それらはガラクタではなく、それはそれは美しい崇高な容姿の王子様達。だが、ちっとも格好良いと思えなかった。実際、もう三十三歳なんてめでたくないゾロ目の年齢を迎えた女が、十代後半、たとえ年齢を重ねていたとしても精々二十歳なりたてくらいの男の子に惹かれることなどあるわけない、そう思っていた。――そう、あの日までは。
「おーい、希美ちゃん。おかえり。また今日も残業だったのかい? また随分遅かったね。女の子だってのに、いつも夜道ひとりで危ないんでないかい? 送ってくれる子とかいないの?」
私の職場は某IT企業で、パソコンの接続や設定など分からない点について丁寧に説明し、必要であれば遠隔やお客の自宅に訪問し、操作してトラブル(ウイルス駆除など)を修正する。家電量販店のような所謂、電気屋さんではなく、パソコンについての疑問点を教えるいわば個人向けのパソコン家庭教師のような企業である。私はそのカスタマーサポートを担当している。職場の中でももっとも忙しい部署と言われるそこで、ほぼ毎日のようにサービス残業をし、深夜二十二時にようやく帰宅する。それが当たり前だと身体が慣れてしまった。ブラック企業によって身体を壊す人って多分、こんな感じなのだろう。そう、私は家と職場を往復するだけ。そんな≪社畜≫に成り下がってしまった。大人になるとは、社会に染まるとは、なんと悲しいことだろうか。
今日も今日とて、くたくたになりながら自宅アパートに帰り着き、自分の部屋がある二階までの階段を昇っていた時、ふいに名前を呼ばれて、私は声のするほう――下の階を手すりに掴まりながら覗き込む。このアパートの大家さんがにっこりと笑っていた。「ちょっとおいで」と手招きされ、私は来た道を戻る。戻りながら考えていた。
……そういえば、このアパート、築何十年だったっけ。確か相当だったはず。私の住んでいるそのボロアパートは、風呂付ではないのだ。今どき、なかなかない。トイレはウォシュレットの洋式で共用でなかったことだけは救いだ。とにかく家賃が格安だった。都内のそれも二十三区内だというのに、1Kの部屋がたったの三万ポッキリ。これでも物価が上昇している今だから家賃は上がったほうで、私は大学進学と共にこのアパートに越してきたが、大学時代は一万五千円というあり得ない家賃設定だった。とにかく安い。安すぎて事故物件では? と本気で疑ったほどである。けれど、大家さんである三上のじいちゃん――学生時代から何かある度にお世話なっているので親しみを込めて私はそう呼んでいる――はとても穏やかで、気配り上手の老人だった。確か御年七十五になると言っていたような。だがまだまだ若々しく、物忘れなんかもまったくないようで、そんなじいちゃんが大家さんだからかこのアパートは住民同士のトラブルもない。ほぼ全員が顔見知りで、時間が合えばどこかの部屋に集まってお酒を飲むこともある。もちろんそういう飲み会では三上のじいちゃんが音頭を取る。このアパートに住んでいる人たちは当時の私のように学生で初めて一人暮らしをするためにここを選んだ人もいれば、最近子供が生まれたばかりだというご夫婦、それから三上のじいちゃんの旧い友人だという所謂、独居老人と呼ばれる人たちもいたりする。皆、最初にこのアパートを見に来た時は『うげっ。こんな部屋に人が住めるのか?』というような顔をするのだが、気が付くと三上のじいちゃんの人柄に惹かれて『まあ、とりあえず安いし、試しに住んでみるか』と考えを改める。私も例に漏れずそうだった。でも大学を無事卒業しても、就職しても、住まいは変えなかった。たとえ通勤にそこそこ時間が掛かっても、このあたたかい場所が好きなのだ。どんなにボロくても、人のあたたかさを感じられるこのアパートが。私にとってそのくらい大切な場所になっていた。
最初はもう、とことん引いた。私は別にギャルでもお嬢様でもないので、少々ボロいくらいでは動揺しないと思っていたのだが、壁は剥がれていたり床がミシ、と軋むような音を立てたり。それこそ漫画やドラマでしか見たことのないアパートだったので、タイムスリップでもしてしまったかのような錯覚を起こしかけた。けれど、三上のじいちゃんは私がここへ引っ越してくることを決めたら、すぐに修繕を行ってくれた。穴が開いていた壁も、色が剥げている外壁も、腐りかけてもう頼りなくなっていた手すりも付け替えた。今でも外壁の色が一部違うのは、ペンキの色をうっかり違う色でじいちゃんが塗ったからだ。ちょっとクリーム色のような、薄い茶色――モカっぽい色。その形がちょっといびつなハート型に見えなくもないので『じいちゃんの愛がたくさん感じられる家だね』とある時、そう言ったら『んだべ? 大成功よ』とじいちゃんは、彼が生まれてから高校までは住んでいたという北国の方言でお茶目に笑った。それは私にとっても馴染み深いものだ。地元の漁師さん達の言葉にもよく似ている。
北海道の田舎町で生まれ育った私にとって、東京は憧れの地だった。地元で自慢できるのは観光地として歴史的な建物が多いとか、夜景が綺麗だとかそのくらいしかない。食べ物が美味しくて羨ましいと言われることも多いが、私に言わせれば都会のほうがずっと有名な店は多い。スイーツも美味しいし。遊べるような商業施設なんてあの街にはほとんどなかった。遊びに行くのにも車が要る。学生には不便で不自由さしか感じなかった。だから、とくに将来の夢もなかったけれど上京だけはしたかった。ドラマや漫画、小説の、物語の中に出てくるようなドキドキするような恋も、東京でならできる気がしていた。そんなものは夢でしかなかったと、上京してからの私はすぐに気付くのだけれど。
じいちゃんはお料理も上手で、貧乏学生だった私は何度も夕飯のお裾分けを頂いた。私の両親の親はどちらも残念なことに私が生まれる前に亡くなっていたので、私にとっては三上のじいちゃんが祖父のような感覚だ。祖父でもあり、この冷たい大都会で必死に生きる私を応援してくれる父でもある。東京のお父さん。もう一つの心の実家。それが大家さん――三上敏郎さん。敏郎じいちゃんである。時に『たまにはちゃんと休みな。したら頭も体もすっきりするから』と優しい言葉をかけてくれたり、もう可愛いなんて年齢じゃないのに『希美ちゃんは本当に良い子で可愛いねえ。ウチの孫も希美ちゃんくらい年寄りに優しけりゃなあ』なんて私を褒めてから、ボヤくこともしばしばだった。
お孫さんの話はよく聞く。じいちゃんはそのお孫さんを『凪 』と呼んでいた。名前の響きもそうだが、私と比較するのだから恐らく女の子のお孫さんなのだろう。『生意気でどうもなんない子でねぇ』と嘆くような溜め息をよく吐いていた。
「じいちゃん聞いて……もうヘトヘトで。上司がクレーマー対応の仕事、次々押し付けるもんだから断れなくてさ。でも平気。夜道って言ったって東京は明るいもん。危ないことなんてないよ~」
「そうは言ったってなあ。女の子なんだし」
「じいちゃん、女の子って私もう三十三だよ? もうしっかりおばさんなんだから平気平気!」
「なしてよ? そんなことねえべさ」
「いやいや、そんなことあるんだってば」
じいちゃんは私を自分の部屋に上げて「これ、残りもんだけど嫌じゃなかったら食べな」とタッパーに入った煮物をくれた。それから、風邪引かないようにと喉に効く飴も。いつもじいちゃんはオマケのようにこの飴をくれる。
「いつもありがとう、じいちゃん」
「なんもさ。疲れた顔してるから、じいちゃんは心配なんだよ」
何だっけ、ほら、今の時代で言うパ……パワーなんとかってやつだっけか、とじいちゃんは眉根を寄せた。
「パワハラ?」
「そうそう、それ」
「まあねえ。でもウチの職場はまだまだ前時代的な人が多いし、仕方ないかなって」
「身体壊すまで無理しちゃいけないよ?」
「ありがと、じいちゃん」
じいちゃんはまた、方言で「なんも、なんも」と言って笑った。それから思い出したように部屋の掛け時計を確認して、録画を忘れてた! と言って慌ててテレビをつけた。見たいドラマでもあったのだろうか? 火サス? 土ワイ? いや、今日はどちらも放送日ではない。じいちゃんが一番好きな時代劇は夕方の再放送だったはずだ。
「じいちゃん、この時間に見たいテレビなんかあるの?」
なんとなく気になって聞いてしまった。じいちゃんは柔和な笑みで頷いた。
「ん、まあ、歌番組だな」
「え、それって演歌? ひばり? あ、よしみのほうか」
「普段聴くのはそういうのばっかりだけどもな、今日は違うんだ」
じいちゃんは答えて、視線をテレビに向けた。国営放送だろうか、その歌番組で紹介されていたのは二人組の――デュオの男性アイドルだった。
【今、大注目の人気アイドル、Shangri-La】
大きなテロップのその文字を私は目で追った。……シャングリラ? 初めて知るアーティストだった。
『今夜はShangri-Laのお二人に大ヒットメドレーと、来週発売となります新曲もご披露いただきます!』
『いやあ、相変わらずすごい人気ですよね~お二人どうですか? 圭くん、凪くん』
女性アナウンサーの紹介のあとに、最近ブレイク中の人気芸人コンビの片割れであるツッコミの男性が司会者として二人をスタジオに呼び込み、世間話をするかのように尋ねている。
「どうも、Shangri-Laです~」
言いながら頭を下げて現れたのは、茶髪に片耳にキラリと金に光るピアスをした華奢な男性と、もう一人は茶髪の彼と対照的で明らかに一八〇センチ以上はあるだろう、スラっとした長身で、それに良く似合う真面目そうな印象の黒髪。彼も茶髪の子と同じように片耳だけピアスをしている。漆黒にも見えるが、角度によっては蒼く光るゴツめの石の印象のピアスだった。よく手入れされているのが分かるくらいその黒髪は艶があり、はっきりと天使の輪が見える。その髪が映えると感じたのはきっと、彼の肌が透き通るように美しかったから。そして、大きな瞳も、綺麗に通った鼻筋も、色も形も良いその唇も、まるで美とはこういうものだと、画家や彫刻家が創り出したかのように計算され尽くされたその顔面が私にとてつもない衝撃を与えた。
『なんスかね~ついに俺らの時代が来たかと』
『こらこら圭くん。言い方考えようね? いえ、まだまだです。僕らデビューが遅くて事務所では遅咲きと言われたチームでしたので。でもファンの皆さんの応援でここまで来られて、昨年はありがたいことに大忙しでしたし。今年はツアーも無事開催して今頑張っているところで。今日もこうして夢だったこの番組にも出られたので本当に嬉しいです。シャングラーのみんな見てる? いつもありがとう』
『今の凪くんの微笑みで、テレビの前の女子たちは大騒ぎですよ!』
凪と呼ばれた黒髪の彼は、見た目通りの優しい、甘い声をしていた。優男って感じだ。でも彼がトークをしている間も、その後でアイドルとしてパフォーマンスをしている時も、その笑顔に、一挙手一投足に目が離せなかった。
――……きれい。
思わず、ぼそりと零してしまった。この瞬間、私は確かに心を奪われた。
Shangri-Laの[[rb:三上 凪――それが彼、私が初めて推すことになる三次元アイドルの名前だった。
まるで一目惚れのようだった。テレビから目を離せずにいたその時の私には周囲の音が一切耳に入っていなかった。だから、じいちゃんが告げていた驚きの事実も私の耳に届いているわけもなかった。
それが、私と推しとの最初の出会いだ。
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