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最終章
53.もう一つの夢
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その日、ローレンスとリリアーヌが全ての行事を終え、宮に戻ったのは深夜になってからだった。
これから基本的には王宮の一角に与えられたこの宮と領地で生活することになる。
「疲れただろう」
肘掛け椅子に座っていたリリアーヌをローレンスが後ろからそっと抱き締めた。
「ええ、少し。貴方もお疲れでしょう?お酒も相当召し上がってらしたし」
「酒はあれぐらいでは大したことはないが、やはり気疲れしたな」
「大したことない?あれで?わたくし貴方があんなにお酒に強いなんて思いませんでしたわ」
ローレンスがははは、と小さく笑う。
「そうか?まあ、そうだな。人並みには飲めるほうだな」
あの後、興奮して帰ろうとしない群衆の歓声に応えて数回バルコニーに出、それから息つく暇もなくリリアーヌはイヴニングドレスに着替えて晩餐会に出席した。その後はまた部屋に戻って舞踏会のドレスに着替えるという慌ただしさ。
不意にリリアーヌはクスクス笑い出した。
「どうした?」
「ふふ……何でもないの。ただ貴方が……ふふ、無事に踊りきれて良かったと思って……ふ、うふふ……あはは……」
「もうその話は止めてくれ……死ぬかと思ったよ」
舞踏会が始まると、否応なしに大公夫妻に会場全体の注目が集まった。
最初の一曲はその日の主賓にあたるカップルが踊るのが慣例になっている。
ダンスが下手過ぎてコンスタンティンに匙を投げられたローレンスだったが、愛する妻の願いを叶えてやりたいという執念と気合で三曲とも見事に踊りきったのだ。
「開き直ったのが良かったのかもしれないな」
「コンスタンティン先生にお見せしたかったわ」
「冗談じゃない。死ぬまでネタにされる」
ローレンスは心底もう二度とご免だといった表情で呟いたが、リリアーヌはまだ笑っている。そして抱きしめられたまま後ろを振り向いてそっと囁いた。
「嬉しかったわ、ローレンス。夢が叶って」
「夢?」
「ええ……いつか王宮の舞踏会で愛する人と踊りたいという夢が」
「……そうか」
ローレンスはリリアーヌの額にそっと唇を寄せた。
「ではこれから先も、俺にその夢を叶え続けさせてくれるか?」
「え?」
「今日、貴女と踊っている自分を、幸せだと思った。ステップを間違えないか心配で堪らなかったが、それ以上に貴方が俺と踊ることを本当に楽しみにしていてくれたことが伝わって来た。……だからこれからも、時々はこんな下手くそと踊ってくれるか?」
「ローレンス……本当に?これからもわたくしと踊って下さる?」
リリアーヌの頬が思いがけない喜びに上気した。
「あ、ああ。ただし、時々な。あまり毎回だとそのうち調子に乗って貴女の足を踏みそうだから」
「構わないわ。貴方とまた踊れるなら、足ぐらい」
「そうか。ではまたコンスタンティン大先生に教えを乞おう。癪だがな」
そう言いながらローレンスはリリアーヌの手元にあるものに視線を移した。
「……ところでそれは?」
それは一冊のノートのような書物のような、不思議なものだった。がさっと分厚くて、あちこちから様々な色の糸や布の切れ端が覗いている。
「これですか?これは……わたくしのもう一つの夢、です」
「もう一つの夢?」
怪訝な表情のローレンスにリリアーヌはそのノートを渡した。
「見てもよいのか?」
「もちろん」
リリアーヌからノートを受け取って中身を確認するうちに、ローレンスの表情に明らかな驚きが浮かんできた。
そこにまとめられていたのは様々な刺繍のサンプラーだった。図案とその紋様の意味、刺し方が詳細にまとめられ、絹や麻の地に実際に刺してある。
「これは……大したものだ。誰がこれを?」
「わたくしの実母です」
「貴女の御母上が?」
ローレンスの驚きを隠せない声にリリアーヌが答えた。
「わたくしは五歳で伯爵家に引き取られてから実母とは一度も会っていないのですが、父はわたくしの結婚が決まった時、こっそり知らせに行ったそうです。その際に父に託されたとかで、実家を出る時に渡されました。母は根っからの刺繍職人でしたから、各地の伝統的な刺繍を地道に調査して、ここに入っているサンプラーを全て一人で作り上げたと父から聞いています」
「お一人で……凄いな」
「ええ」
リリアーヌは頷くと、俯いて表紙をそっと撫でた。
「でもまだまだ未完成なのです。いつか……わたくしの手でこの資料を完成させることができたら、と思っているのですが……」
「やればいいじゃないか」
ローレンスの力強い声にリリアーヌが顔を上げた。
「やりたいのならやればいい。遠慮は要らない。それにこれはとても価値のあるものだ。このまま埋もれてしまうには惜しい、貴重な資料だ」
「……良いのですか?本当にやる価値があると思って下さる?」
「勿論だ。元々ゴーディエ地方は手工芸が盛んな地域だと貴女が以前言っていたな。こういう学術的な資料があればこれも一つの産業の振興の起爆剤になるだろう。是非やってくれ。協力は惜しまない。向こうに行ったらすぐに手工芸ギルドの関係者と面会できるよう予定を組もう」
「嬉しいわ。ありがとう、殿下」
リリアーヌは嬉しそうに言うと、背伸びをしてローレンスの頬にそっと口づけた。
「どういたしまして、大公妃」
ローレンスもいつものように微かに微笑んで、口づけを返した。
ねえローレンス、お互いに『殿下』なんて呼ばれるようになったけれど、二人の間にあるものは何も変わらなかったわね。
大丈夫、わたくしはここで生きていける。
これから基本的には王宮の一角に与えられたこの宮と領地で生活することになる。
「疲れただろう」
肘掛け椅子に座っていたリリアーヌをローレンスが後ろからそっと抱き締めた。
「ええ、少し。貴方もお疲れでしょう?お酒も相当召し上がってらしたし」
「酒はあれぐらいでは大したことはないが、やはり気疲れしたな」
「大したことない?あれで?わたくし貴方があんなにお酒に強いなんて思いませんでしたわ」
ローレンスがははは、と小さく笑う。
「そうか?まあ、そうだな。人並みには飲めるほうだな」
あの後、興奮して帰ろうとしない群衆の歓声に応えて数回バルコニーに出、それから息つく暇もなくリリアーヌはイヴニングドレスに着替えて晩餐会に出席した。その後はまた部屋に戻って舞踏会のドレスに着替えるという慌ただしさ。
不意にリリアーヌはクスクス笑い出した。
「どうした?」
「ふふ……何でもないの。ただ貴方が……ふふ、無事に踊りきれて良かったと思って……ふ、うふふ……あはは……」
「もうその話は止めてくれ……死ぬかと思ったよ」
舞踏会が始まると、否応なしに大公夫妻に会場全体の注目が集まった。
最初の一曲はその日の主賓にあたるカップルが踊るのが慣例になっている。
ダンスが下手過ぎてコンスタンティンに匙を投げられたローレンスだったが、愛する妻の願いを叶えてやりたいという執念と気合で三曲とも見事に踊りきったのだ。
「開き直ったのが良かったのかもしれないな」
「コンスタンティン先生にお見せしたかったわ」
「冗談じゃない。死ぬまでネタにされる」
ローレンスは心底もう二度とご免だといった表情で呟いたが、リリアーヌはまだ笑っている。そして抱きしめられたまま後ろを振り向いてそっと囁いた。
「嬉しかったわ、ローレンス。夢が叶って」
「夢?」
「ええ……いつか王宮の舞踏会で愛する人と踊りたいという夢が」
「……そうか」
ローレンスはリリアーヌの額にそっと唇を寄せた。
「ではこれから先も、俺にその夢を叶え続けさせてくれるか?」
「え?」
「今日、貴女と踊っている自分を、幸せだと思った。ステップを間違えないか心配で堪らなかったが、それ以上に貴方が俺と踊ることを本当に楽しみにしていてくれたことが伝わって来た。……だからこれからも、時々はこんな下手くそと踊ってくれるか?」
「ローレンス……本当に?これからもわたくしと踊って下さる?」
リリアーヌの頬が思いがけない喜びに上気した。
「あ、ああ。ただし、時々な。あまり毎回だとそのうち調子に乗って貴女の足を踏みそうだから」
「構わないわ。貴方とまた踊れるなら、足ぐらい」
「そうか。ではまたコンスタンティン大先生に教えを乞おう。癪だがな」
そう言いながらローレンスはリリアーヌの手元にあるものに視線を移した。
「……ところでそれは?」
それは一冊のノートのような書物のような、不思議なものだった。がさっと分厚くて、あちこちから様々な色の糸や布の切れ端が覗いている。
「これですか?これは……わたくしのもう一つの夢、です」
「もう一つの夢?」
怪訝な表情のローレンスにリリアーヌはそのノートを渡した。
「見てもよいのか?」
「もちろん」
リリアーヌからノートを受け取って中身を確認するうちに、ローレンスの表情に明らかな驚きが浮かんできた。
そこにまとめられていたのは様々な刺繍のサンプラーだった。図案とその紋様の意味、刺し方が詳細にまとめられ、絹や麻の地に実際に刺してある。
「これは……大したものだ。誰がこれを?」
「わたくしの実母です」
「貴女の御母上が?」
ローレンスの驚きを隠せない声にリリアーヌが答えた。
「わたくしは五歳で伯爵家に引き取られてから実母とは一度も会っていないのですが、父はわたくしの結婚が決まった時、こっそり知らせに行ったそうです。その際に父に託されたとかで、実家を出る時に渡されました。母は根っからの刺繍職人でしたから、各地の伝統的な刺繍を地道に調査して、ここに入っているサンプラーを全て一人で作り上げたと父から聞いています」
「お一人で……凄いな」
「ええ」
リリアーヌは頷くと、俯いて表紙をそっと撫でた。
「でもまだまだ未完成なのです。いつか……わたくしの手でこの資料を完成させることができたら、と思っているのですが……」
「やればいいじゃないか」
ローレンスの力強い声にリリアーヌが顔を上げた。
「やりたいのならやればいい。遠慮は要らない。それにこれはとても価値のあるものだ。このまま埋もれてしまうには惜しい、貴重な資料だ」
「……良いのですか?本当にやる価値があると思って下さる?」
「勿論だ。元々ゴーディエ地方は手工芸が盛んな地域だと貴女が以前言っていたな。こういう学術的な資料があればこれも一つの産業の振興の起爆剤になるだろう。是非やってくれ。協力は惜しまない。向こうに行ったらすぐに手工芸ギルドの関係者と面会できるよう予定を組もう」
「嬉しいわ。ありがとう、殿下」
リリアーヌは嬉しそうに言うと、背伸びをしてローレンスの頬にそっと口づけた。
「どういたしまして、大公妃」
ローレンスもいつものように微かに微笑んで、口づけを返した。
ねえローレンス、お互いに『殿下』なんて呼ばれるようになったけれど、二人の間にあるものは何も変わらなかったわね。
大丈夫、わたくしはここで生きていける。
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