【完結】導く者に祝福を、照らす者には口づけを 〜見捨てられた伯爵夫人は高利貸しの愛で再び輝く〜

碓氷シモン

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第三章

16.忍び寄る悪意

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 気がつけばあっという間に冬は終わりに近づき、時々は春の陽射しも感じられるようになってきた頃、それは突然起こった。
 その日リリアーヌは商会での仕事を終え、歩いて帰宅の途についていた。
 いつもならローレンスと馬車に乗って帰るのだが、今日はローレンスは商工会の会合に出席していた。
 ローレンスは自分が歩いて帰るからとリリアーヌに馬車を使うよう勧めたが、例のごとく主人にそんなことはさせられないと固辞したのだった。

(流石にまだまだ夕方になると冷えるわね……でも今日は忙しかったから外の冷気が心地よいわ)
 そんな取り留めのないことを考えながら、人通りの少ない道を歩いていた時。

「きゃあっ!」

 誰かが背後からいきなりリリアーヌの口を塞ぎ、羽交い絞めにして路地裏に引きずり込んだのだ。
「ぐ……う……く、くる……し……」
 何が起こったのかわからず苦し気にくぐもった悲鳴を上げるリリアーヌの耳元に聞き覚えのある恐ろしい声が囁いた。

「久しぶりだな、別嬪べっぴんさん」
「‼」

 どうにか身をよじって振り向いたリリアーヌの目の前に、歪んだ笑いを浮かべたマテオの顔があった。
 リリアーヌの全身から血の気が引いていく。
「あ、あなた……一体何を……?」
「あの金貸しと随分よろしくやっているようじゃないか。一体どんな手管を使ったんだ?しおらしい顔で同情を買ったのか?」
「な、何のことですか⁉わたくしとローレンス様との間には、やましいことなど一切ございませんわ!」
「……、だと⁉」
 マテオの腕がギリギリとリリアーヌの首を締めあげた。
「はな……して……く……ださ……」
「お前は俺の妻だってこと、忘れた訳じゃないだろうな?とにかく一緒に来てもらうぞ。お前が仕えるべき人間は誰なのか、思い出させてやる」
「やめ……うっ」
 突然マテオに鳩尾を思い切り蹴られて、痛みのあまりリリアーヌは気を失った。
(ローレンス……様……)
 薄れていく意識の底で、リリアーヌはその人の名を呼んでいた。

「リリアーヌ殿はご一緒ではないのですか?」
 その夜遅く屋敷に戻るなり、ローレンスは青ざめた顔色のアランから詰問された。
「今日は商工会の集まりがあったので別々に帰ったのだが、どうかしたのか?」
「……まだお帰りになっていないのです」
「何だと?」
「旦那様……何かあったのでは……まさか事故にでも遭われて」
「滅多なことを言うもんじゃない!……探しに行く」
「私もご一緒に」
 玄関から飛び出そうとしたアランをローレンスは制した。
「いや、アラン、お前はここにいてくれ。夫人がもし帰って来たら、入れ違いになってしまう」
「でも」
「大丈夫だ。必ず見つける」
「……かしこまりました、旦那様。どうか……」
 ローレンスは黙ってアランの肩を叩くとカンテラを手に急ぎ足で屋敷を出て行った。

(どういうことだ、何があった……)
 逸る心を何とか抑えて、事務所までの道のりをくまなく見て回る。
 途中の広場にたむろしている辻馬車の御者にも声をかけてはみたが、誰一人としてそれらしい女性の姿を見た者はいなかった。
 春が近いとはいえ、まだ日が落ちるとかなり冷えてくる。風も強くなり、ローレンスが持つカンテラの灯りが揺れた。
 その時、後ろからのんびりとした声が聞こえた。

「あれ、社長、こんな時間にどうされたんすか?」

 ローレンスが振り向くと、声の主はエルヴィンだった。
 あの日、エルヴィンがどうなったのかリリアーヌは心配で堪らなかったが、次に商会に出勤した時に見かけた彼は以前と変わらずキビキビと働いていた。
 どうやらローレンス曰く、だけの処分だったらしい。
 それからはリリアーヌに対しても礼儀正しく、かと言って冷淡になり過ぎず同僚として程よい距離感を保ってくれている。
「オルフェウス嬢が屋敷に帰って来ていない」
「何ですって⁉社長、心当たりはないんですか?」
「全く思いつかん」
 エルヴィンは真剣な顔になって答えた。
「俺も探します。このあたりの裏通りなんかは社長より俺のほうが詳しいっすよ。手伝わせて下さい」
「そうだな……頼む。俺は通りのこちら側を探すから、お前は向こう側を見てくれるか」
「任せて下さい!」
 エルヴィンは力強く頷くと、通りの向こう側へ走って行った。
 王都の表通りはここ数年でガス灯が整備されて以前よりはかなり明るくなったが、一本裏へ目を転じるとそこには数十年変わらない暗闇が広がっている。
 ローレンスはその細い裏通りの一つ一つにカンテラを掲げ、目を凝らしてリリアーヌの姿を探した。
 言いようのない不安が頭をもたげてくる。

 その時、エルヴィンが大声でローレンスを呼んだ。
「社長!」
「見つかったか⁉」
 エルヴィンは息を切らしながらローレンスに近寄るとこう言った。
「いえ、でも、こっちへ来て下さい!」
「何だ?」
「いいからこっちへ!」
 湿っぽい裏通りに辿り着いたローレンスは、そこで見たものに目を疑った。
「これは……」
 そこに落ちていたのは一枚のショールだった。泥で汚れていたが、確かに見覚えがある。
(間違いない、この前、散歩の帰りに俺が買ったショールだ。なぜこれがここに……まさか)
 しゃがんでショールを拾い上げた時、突然、一つの考えがローレンスの頭に浮かんだ。数日前、リリアーヌがぽつりと漏らした言葉を思い出したのだ。

 なぜだか分かりませんが、どうも最近、誰かに見られているような気がするのです……

「屋敷に戻る」
「えっ?でも」
「大丈夫だ。お前ももう帰れ。……それからこのことは」
「もちろんです。誰にも言いません」
 エルヴィンはそれ以上何も言わずその場から立ち去ろうとしたが、ローレンスが呼び止めた。
「エルヴィン、礼を言う」
 そして二人はそれぞれの帰路についた。
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