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第二章
11.不在
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翌日、リリアーヌは太陽が高く上がっていることに気づいて飛び起きた。
いつもより随分寝過ごしてしまったようだ。
(いけない、もうこんな時間……!)
あれからなんとか新しい夜着に着替え、這うように汚れたシーツを取り替えるとそのまま寝台に倒れこみ、眠り込んでしまったのだった。
まだあちこちが痛む体に鞭打って着替えを済ませ、あたふたと部屋から出るとちょうどアランと出くわした。
「ア、アランさん、申し訳ありません、つい寝過ごしてしまって……あの、ローレンス様は……?」
焦るリリアーヌに向かってアランはいつも通りの調子で答えた。
「旦那様は今朝早くにお出かけになりましたよ。リリアーヌ殿に朝食の支度をお願いしようとしたのですが、早いから起こさなくても良いと仰いましてね」
「そう……ですか……それでローレンス様はどちらに?」
「港にある商船を見に行くと言っておられましたな」
「港……ではお帰りは」
「ああ、たぶん明後日の夜になるのではないでしょうか。王都から港までは少し距離がありますので」
「明後日の夜……それにしても、急ですわね」
「良くあることです。以前の旦那様はほとんど屋敷におられませんでした。ここ数ヶ月のほうが珍しいことで、私は驚いておったのですよ」
それからアランはリリアーヌに向き直ると続けた。
「……リリアーヌ殿は、旦那様のことをどうお思いですか?」
「えっ?」
「世間で言われているような冷酷な高利貸し、低俗な成り上がり、そうお思いになりますか?」
突然、ずっと心に引っかかっていたことをはっきりと訊かれてリリアーヌは言葉を失った。
「……厳しい方だとは思います。……でも、冷酷でお金のことしか頭にない高利貸しだとは、わたくしには……どうしても……思えません……」
アランが大きな溜息をついた。
「どうなさいましたか?」
「いや、良かった、安心しました。今日と明日はそれほど仕事もないでしょうから、久しぶりにゆっくりなさって下さい。では私はこれで」
「あ、あの」
リリアーヌはアランを呼び止めたが、彼は振り返らず去って行ってしまった。
ローレンスが商船を見に行くと言って逃げるように早朝から出かけたのは、リリアーヌとどういう顔をして対峙すれば良いか分からなかったからだった。
(不甲斐ない男だな俺は。こんなことをして時間を稼いでも何の解決にもならないというのに……だが……)
昨晩の出来事は、ローレンスにとってあまりにも衝撃的だった。
リリアーヌのあの怯えた表情、口から洩れる悲鳴、目に滲んだ涙と強張った身体、そして、シーツについた真っ赤な血痕……それはどれを取っても、まだ男の身体を知らない無垢な娘そのものだった。
(何故だ?彼女は人妻だろう?あのマテオという男は夫ではないのか?結婚して何年か知らんが、夫婦生活がないのか?ただの一度も?そんなことが現実にあるのか?それにあの借金は?何のために?)
考えれば考えるほど分からない。
港に着いて商船の様子を確かめ、船長とあれこれ言葉を交わしても全てが上の空で、頭の中ではずっと同じ疑問がぐるぐると廻り続けていた。
宿に入っても答えを見つけられないまま、その夜のローレンスはほとんど眠ることができなかった。
だが、自分がしなければならないたった一つのことは、はっきりと分かっていた。
(彼女に謝罪しなければならない、心から。そして訊かなければ。どんな人生を送ってきたのか、何をそんなに恐れているのか、なぜあんなに美しいのにいつも悲しげに目を伏せているのか、知らなければ)
到底許してはくれないだろう。だがとにかく、自分の行いを恥じていることだけは伝えさせてほしい……
どう顔を合わせれば良いのか分からないのは、リリアーヌも同じだった。
思いがけず自由な時間ができてしまったのでとりあえず本でも読もうと思って温室へやって来たのだが、ずっと同じページを開いたまま、ぼんやりと考え事をしている。
昨晩のローレンスの様子が脳裏に蘇って、暖かい温室にいるはずなのに恐怖に体がぶるっと震えた。
(恐ろしかった、ローレンス様……どんなに抵抗しても、何の役にも立たなかったわ……それに、知られてしまった……)
肉体的な痛みよりも、ずっとひた隠しにしてきた秘密を知られてしまった衝撃と恥ずかしさ、惨めさのほうが強かった。
(わたくしは暇を出されるのでしょうね……この先どうすれば良いのかしら?それに……もうローレンス様のお側にはいられなくなるのね……)
その時リリアーヌは不意に雷に打たれたように、自分の中にある感情に気づいたのだった。
(……このお屋敷から出ていかなければならないのが、こんなにも悲しいのはなぜなの?ここでの生活が心静かで穏やかだから?誰からも罵声を浴びせられることもなく、誰かに怯える必要もないこの生活が、いつの間にかこんなにも愛おしいものになっていたの?……でも、それだけ……?)
違う。それだけではない。
(ここにはローレンス様がいらっしゃる……あの方の……ああ……わたくしは……)
だがアランが言っていた日を過ぎても、ローレンスは屋敷に帰って来なかった。そして、その次の日も。
リリアーヌは主の不在への不安と、なぜか落ち着かず居ても立っても居られない自分の心に驚き、混乱し、そんな自分が恥ずかしいような、帰りを待ちわびるような帰って来てほしくないような、何ともいえないじりじりした二日間を過ごした。
(ローレンス様、なぜお帰りにならないのですか?何か良くないことでもあったのですか?……それともわたくしを避けてらっしゃるのですか?……わたくしはこのままお帰りを待つことしかできないのですか?)
思い余って一度アランに尋ねてみたが、アランの回答はいずれお戻りになりますから心配ございませんという素っ気ないもので、そう言い切られてしまうとそれ以上は深く追求することもできなかった。
ローレンスが屋敷を不在にしてから4日後。
悶々としながらいつの間にか自室でうたた寝をしてしまっていたリリアーヌの耳にノックの音が響いた。
「リリアーヌ殿、旦那様がお帰りです。食事の支度をお願いできますか」
「……は、はい!すぐに!」
慌てて身支度を整え、厨房に向かうと、ローレンスが外套と帽子をアランに預けながら話している声が聞こえてきた。
「向こうに行ってみたらこの前の嵐ではしけの一部が壊れていて、状況確認と修復工事の段取りで少し手間取った。連絡しなくて悪かったなアラン」
「それは大変でございました。お疲れでございましょう」
(そうだったの……良かったわ……)
パントリーの棚の前で素早く考えを巡らせる。
(お疲れでしょうから、胃に負担になりそうなものは避けて、あまりお待たせせずに出せるものを)
少し考えた末、リリアーヌは野菜スープを温め、作り置きのコールドミートをいくつか切り、今朝焼いたばかりのパンを添えた。
だが食堂の前まで来た時、不意に足がすくんだ。
ローレンスと顔を合わせるのが、怖い。この前の夜の出来事が、嫌でも蘇ってくる。あの時のローレンスの目と、全身から漂う狂気のような怒りのようなエネルギーが。
(駄目よ、仕事なのだからきちんとしなければ。大丈夫、アランさんもいるし、もう4日もたっているのよ。ローレンス様からしたら、あんなの大したことじゃないわ、きっと。しっかりしなさいリリアーヌ)
リリアーヌは扉の前で呼吸を整え、少し震える声で主に告げた。
「お食事をお持ちしました」
「入りなさい」
ローレンスの声が普段通りなのに少し拍子抜けしながらも、ほっとして食堂に入るが、やはりどうしても目線を上げられない。
そのまま黙ってキャセロールからスープを皿に移し、準備を整えると、リリアーヌは黙ってお辞儀をしてその場を去ろうとした。
「……食事が済んだら、執務室に茶を頼む」
「かしこまりました」
静かに食堂のドアを閉めて廊下に出ると、リリアーヌは全身の力が抜け落ちていくように感じて思わず壁にもたれかかった。
(良かった、いつも通り振舞えた……わね?)
この先どうなるかは分からない。でもとにかく今は、あの方の前で崩れ落ちなかった自分を褒めてあげよう、リリアーヌはそう思っていた。
いつもより随分寝過ごしてしまったようだ。
(いけない、もうこんな時間……!)
あれからなんとか新しい夜着に着替え、這うように汚れたシーツを取り替えるとそのまま寝台に倒れこみ、眠り込んでしまったのだった。
まだあちこちが痛む体に鞭打って着替えを済ませ、あたふたと部屋から出るとちょうどアランと出くわした。
「ア、アランさん、申し訳ありません、つい寝過ごしてしまって……あの、ローレンス様は……?」
焦るリリアーヌに向かってアランはいつも通りの調子で答えた。
「旦那様は今朝早くにお出かけになりましたよ。リリアーヌ殿に朝食の支度をお願いしようとしたのですが、早いから起こさなくても良いと仰いましてね」
「そう……ですか……それでローレンス様はどちらに?」
「港にある商船を見に行くと言っておられましたな」
「港……ではお帰りは」
「ああ、たぶん明後日の夜になるのではないでしょうか。王都から港までは少し距離がありますので」
「明後日の夜……それにしても、急ですわね」
「良くあることです。以前の旦那様はほとんど屋敷におられませんでした。ここ数ヶ月のほうが珍しいことで、私は驚いておったのですよ」
それからアランはリリアーヌに向き直ると続けた。
「……リリアーヌ殿は、旦那様のことをどうお思いですか?」
「えっ?」
「世間で言われているような冷酷な高利貸し、低俗な成り上がり、そうお思いになりますか?」
突然、ずっと心に引っかかっていたことをはっきりと訊かれてリリアーヌは言葉を失った。
「……厳しい方だとは思います。……でも、冷酷でお金のことしか頭にない高利貸しだとは、わたくしには……どうしても……思えません……」
アランが大きな溜息をついた。
「どうなさいましたか?」
「いや、良かった、安心しました。今日と明日はそれほど仕事もないでしょうから、久しぶりにゆっくりなさって下さい。では私はこれで」
「あ、あの」
リリアーヌはアランを呼び止めたが、彼は振り返らず去って行ってしまった。
ローレンスが商船を見に行くと言って逃げるように早朝から出かけたのは、リリアーヌとどういう顔をして対峙すれば良いか分からなかったからだった。
(不甲斐ない男だな俺は。こんなことをして時間を稼いでも何の解決にもならないというのに……だが……)
昨晩の出来事は、ローレンスにとってあまりにも衝撃的だった。
リリアーヌのあの怯えた表情、口から洩れる悲鳴、目に滲んだ涙と強張った身体、そして、シーツについた真っ赤な血痕……それはどれを取っても、まだ男の身体を知らない無垢な娘そのものだった。
(何故だ?彼女は人妻だろう?あのマテオという男は夫ではないのか?結婚して何年か知らんが、夫婦生活がないのか?ただの一度も?そんなことが現実にあるのか?それにあの借金は?何のために?)
考えれば考えるほど分からない。
港に着いて商船の様子を確かめ、船長とあれこれ言葉を交わしても全てが上の空で、頭の中ではずっと同じ疑問がぐるぐると廻り続けていた。
宿に入っても答えを見つけられないまま、その夜のローレンスはほとんど眠ることができなかった。
だが、自分がしなければならないたった一つのことは、はっきりと分かっていた。
(彼女に謝罪しなければならない、心から。そして訊かなければ。どんな人生を送ってきたのか、何をそんなに恐れているのか、なぜあんなに美しいのにいつも悲しげに目を伏せているのか、知らなければ)
到底許してはくれないだろう。だがとにかく、自分の行いを恥じていることだけは伝えさせてほしい……
どう顔を合わせれば良いのか分からないのは、リリアーヌも同じだった。
思いがけず自由な時間ができてしまったのでとりあえず本でも読もうと思って温室へやって来たのだが、ずっと同じページを開いたまま、ぼんやりと考え事をしている。
昨晩のローレンスの様子が脳裏に蘇って、暖かい温室にいるはずなのに恐怖に体がぶるっと震えた。
(恐ろしかった、ローレンス様……どんなに抵抗しても、何の役にも立たなかったわ……それに、知られてしまった……)
肉体的な痛みよりも、ずっとひた隠しにしてきた秘密を知られてしまった衝撃と恥ずかしさ、惨めさのほうが強かった。
(わたくしは暇を出されるのでしょうね……この先どうすれば良いのかしら?それに……もうローレンス様のお側にはいられなくなるのね……)
その時リリアーヌは不意に雷に打たれたように、自分の中にある感情に気づいたのだった。
(……このお屋敷から出ていかなければならないのが、こんなにも悲しいのはなぜなの?ここでの生活が心静かで穏やかだから?誰からも罵声を浴びせられることもなく、誰かに怯える必要もないこの生活が、いつの間にかこんなにも愛おしいものになっていたの?……でも、それだけ……?)
違う。それだけではない。
(ここにはローレンス様がいらっしゃる……あの方の……ああ……わたくしは……)
だがアランが言っていた日を過ぎても、ローレンスは屋敷に帰って来なかった。そして、その次の日も。
リリアーヌは主の不在への不安と、なぜか落ち着かず居ても立っても居られない自分の心に驚き、混乱し、そんな自分が恥ずかしいような、帰りを待ちわびるような帰って来てほしくないような、何ともいえないじりじりした二日間を過ごした。
(ローレンス様、なぜお帰りにならないのですか?何か良くないことでもあったのですか?……それともわたくしを避けてらっしゃるのですか?……わたくしはこのままお帰りを待つことしかできないのですか?)
思い余って一度アランに尋ねてみたが、アランの回答はいずれお戻りになりますから心配ございませんという素っ気ないもので、そう言い切られてしまうとそれ以上は深く追求することもできなかった。
ローレンスが屋敷を不在にしてから4日後。
悶々としながらいつの間にか自室でうたた寝をしてしまっていたリリアーヌの耳にノックの音が響いた。
「リリアーヌ殿、旦那様がお帰りです。食事の支度をお願いできますか」
「……は、はい!すぐに!」
慌てて身支度を整え、厨房に向かうと、ローレンスが外套と帽子をアランに預けながら話している声が聞こえてきた。
「向こうに行ってみたらこの前の嵐ではしけの一部が壊れていて、状況確認と修復工事の段取りで少し手間取った。連絡しなくて悪かったなアラン」
「それは大変でございました。お疲れでございましょう」
(そうだったの……良かったわ……)
パントリーの棚の前で素早く考えを巡らせる。
(お疲れでしょうから、胃に負担になりそうなものは避けて、あまりお待たせせずに出せるものを)
少し考えた末、リリアーヌは野菜スープを温め、作り置きのコールドミートをいくつか切り、今朝焼いたばかりのパンを添えた。
だが食堂の前まで来た時、不意に足がすくんだ。
ローレンスと顔を合わせるのが、怖い。この前の夜の出来事が、嫌でも蘇ってくる。あの時のローレンスの目と、全身から漂う狂気のような怒りのようなエネルギーが。
(駄目よ、仕事なのだからきちんとしなければ。大丈夫、アランさんもいるし、もう4日もたっているのよ。ローレンス様からしたら、あんなの大したことじゃないわ、きっと。しっかりしなさいリリアーヌ)
リリアーヌは扉の前で呼吸を整え、少し震える声で主に告げた。
「お食事をお持ちしました」
「入りなさい」
ローレンスの声が普段通りなのに少し拍子抜けしながらも、ほっとして食堂に入るが、やはりどうしても目線を上げられない。
そのまま黙ってキャセロールからスープを皿に移し、準備を整えると、リリアーヌは黙ってお辞儀をしてその場を去ろうとした。
「……食事が済んだら、執務室に茶を頼む」
「かしこまりました」
静かに食堂のドアを閉めて廊下に出ると、リリアーヌは全身の力が抜け落ちていくように感じて思わず壁にもたれかかった。
(良かった、いつも通り振舞えた……わね?)
この先どうなるかは分からない。でもとにかく今は、あの方の前で崩れ落ちなかった自分を褒めてあげよう、リリアーヌはそう思っていた。
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