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第二章
7.新しい日常
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「終わりました、ローレンス様」
リリアーヌに声を掛けられて、ローレンスは書類から目を上げた。
「どうだったか?」
「確かに、間違いがいくつかありましたのでメモを挟んでおきました」
ローレンスは書類を受け取るとざっと目を通した。
「助かった。ありがとう」
そう言ったローレンスがリリアーヌを見る眼差しには今まで感じたことのない感謝と尊敬が溢れていて、リリアーヌをまた困惑させる。
「お役に立てたのであれば、良かったです。……あの、ローレンス様」
「?」
「昼食の時間をかなり過ぎてしまいましたが、お腹が空いてはいらっしゃいませんか?」
そう言われてローレンスが時計に目をやると、もう午後2時を過ぎていた。
「確かに腹が減ったな」
リリアーヌはふふっ、と小さく笑うと答え、立ち上がった。
「厨房に行って何かつまめるものがないか、見て参りますね」
暫くするとノックの音が聞こえて、リリアーヌが戻ってきた。トレイに布巾のかかった皿が載っている。
「鹿肉がありましたので、サンドイッチにいたしました。お嫌いでないと良いのですけれど」
「あ、ああ、問題ない。うん、美味い」
「他にお手伝いできることはございますか?」
「今のところ大丈夫だ。本当に助かった。貴女もちゃんと昼を食べなさい。いいね?」
「はい、では御用がございましたらお呼び下さいませ。失礼いたします」
リリアーヌは静かにドアを閉めて厨房に戻ったが、廊下に響く自分の足音が心なしか弾んでいる気がした。それは久しぶりに頭をフル回転させて気分が高潮していたのか、それともローレンスから贈られた感謝の眼差しに心が震えたせいだったのかは分からない。だがいずれにせよ、この数時間の出来事が彼女のほとんど失われてかけていた誇りと自尊心の灯を再び燃え上がらせたのは間違いなかった。
ローレンスがリリアーヌとの出会いによって変わって行ったのと同じように、リリアーヌもまたローレンスによって少しづつ変わりつつあったのだ。
その夜、ローレンスはリリアーヌに驚くべき提案を持ちかけた。
いつものように執務室に茶を運んで来たリリアーヌに向かってこう言ったのだ。
「屋敷の家事を少し減らして構わないから、商会で俺の仕事を手伝ってくれないだろうか。……そうだな、週に2、3日」
「ええ⁉」
あまりの驚きにリリアーヌは思わず叫んでしまい、しまったという顔をした。大声で叫ぶなど、淑女の風上にも置けない振る舞いだからだ。
「わたくしが、ローレンス様のお仕事を、ですか?そんな、わたくしなど、とてもお役に立てそうにございません」
「何を言う。貴女の実力は今日で十分証明されてる。帳簿が読めて、仕事が早くて、余計なことを言わない人間はなかなかいない。ぜひ、お願いしたい」
ローレンスはいつになく熱弁を振るった。
「……」
「頼む。真剣に困っているんだ。俺の事業は各地に支店があって、当然、事務処理が膨大になる。今まで帳簿が読める人間は何人か雇ったが、だいたい仕事が多すぎて根を上げるか、俺の目が届かないのをいいことに金を横領しようとするか、そんな奴しかいなかった。だが貴女なら、安心して任せられる」
「でも……」
「もちろん貴女にも見返りが必要だ。だから商会での仕事に対しては今までの給金とは別に手当を出そう。……貴女は今、俺が払っている給金は全部借金の返済に充ててしまっているから、自由になる金がない。それでは何かと不便じゃないか?」
「それはそうですが……」
「だから、この手当は現金で渡す。何か貴女の楽しみに使うも良し、貯めて借金を早く返すも良し。どうだ、悪い話じゃないと思うんだが、考えてみてはくれないか?」
「……」
「頼む」
少し考えて、リリアーヌは心を決めた。
「お手伝いさせて頂きます。わたくしでお役に立てますなら」
「よし、決まりだ」
そう言うとローレンスは一通の封筒を差し出した。
「何でしょうか?」
「今月の分の先渡しだ。明日街に行って、これで少し固めの服装一式と、ちゃんとしたコートを買いなさい。今週いっぱいあれば仕立て上がるだろうから、仕事を始めるのは来週からにしよう」
「そんな、まだお仕事もしていないのに、頂けません」
だが、ローレンスは遠慮するリリアーヌの手に封筒を押し付けてぴしゃりと言い渡した。
「いいから取っておきなさい。王都の冬を甘く見てはいかん。風邪を引きたくなければ、言う通りにしなさい。いいね?」
そして週が明けた月曜日の朝、ローレンスとリリアーヌは馬車の中で向かい合って座っていた。
こうして同じ馬車の中にいると、彼が人並み外れた長身と恵まれた体躯を持っていることが良く分かる。
リリアーヌは上目遣いにローレンスを盗み見た。腕を組んで目を閉じてはいるが、眠っている訳ではなさそうだ。
「あの、ローレンス様……」
「何だ?」
「本当にわたくしで良いのでしょうか……皆さんにご迷惑をおかけしてしまうのでは……」
「俺がいいと言っている。なんの問題もない。ただ俺の商会にはあまり柄の良くない連中もいるから、逆に貴女がうんざりしないか、それが心配だ」
「わたくしが女であることで皆様不快に思われたりなさいませんか?」
するとローレンスが片目を開けてリリアーヌを見た。
「貴女が何を気にされてるのか分からないが、能力や知識に男も女も関係ないだろう?まあ、貴族社会ではそういうことに必要以上に神経質になる者もいるかもしれんが、俺は事業に関しては男か女かを気にしたことはないな」
「そんなふうに考えたことございませんでした……」
「貴族だって同じではないかな。遊んでばかりの亭主に代わって本気で領地経営に取り組んでいる細君の武勇伝などそこら中にある。ただ男のつまらん見栄が表に出そうとしないだけさ」
「確かにそうかもしれませんが、わたくし、やはりお給金と別にお金を頂くのは……」
「貴女が遠慮が服を着て歩いているような人だということは流石の俺でも分かってきたが、度を越した謙遜はあまり感心できん考え方だな。労働には対価が発生する。その成果として報酬を受け取ることは人間の当然の権利だ。堂々としていなさい。自分の能力を安売りしても良いことはないぞ」
そこまで言い切られてしまうともうリリアーヌは何も言えなかった。だが同時に心の中に、この人の期待を裏切らない働きをしようという強い意思が生まれてきてもいた。
その時、あ、と思い出したようにローレンスがリリアーヌに向き直った。
「貴女の素性は従業員には伝えていない。俺の遠縁で行儀見習いを兼ねて屋敷で預かっていることにしている。うちの従業員は余計なことは訊かない人間ばかりだから面倒なことはないと思うが、一応伝えておく」
「承知しました。お気遣いありがとうございます」
リリアーヌは頭を下げた。確かにこんな男社会で仮にも伯爵夫人が働いて給料をもらうなど普通ではあり得ない。余計な波風を立てぬよう、ローレンスの言うことに従っていたほうが良いだろう。
「着いたぞ」
ローレンスの声にリリアーヌは立ち上がり、馬車を降りて石造りの大きな建物の中に入った。室内に一歩足を踏み入れたリリアーヌは、ここは本当に同じ王都なのだろうかと目を疑った。
何という活気と熱量だろう。沢山の男たちが足早に行き交い、まさに空を飛ぶような勢いで書類や荷物が行き交っている。
「旦那様」
「社長」
「ローレンス様」
あちこちから掛けられる声に引き留められながら、ローレンスとリリアーヌはやっとのことで事務室に辿り着いた。
「皆、ちょっと集まってくれ」
ローレンスの声に、部屋にいた全員が仕事の手を止める。
「紹介しておこう。今日から週に2、3日、俺の仕事を補佐してもらう……オルフェウス嬢だ。皆、失礼のないように」
そう紹介されて、リリアーヌは慌ててお辞儀をした。
「皆様はじめまして。オルフェウスでございます。至らぬ点も多いと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」
自己紹介して頭を上げると、ぽかんとした表情が並んでいた。皆、リリアーヌのように膝を屈めるお辞儀など、見たこともないのだから無理もなかった。
気まずい沈黙が流れかけた時、助け船を出したのはローレンスだった。
「オルフェウス嬢は簿記の知識に明るい。今まで見落としてきた帳簿の間違いも、この人には通用しない。皆、か弱い女性だからと舐めてかかると痛い目に遭うからな」
男たちが皆、声を揃えて答えた。
「はいっ」
満足そうに頷いたローレンスはリリアーヌを手招きした。
「こちらへ」
「は、はい」
「貴女の席はここだ。帳簿や伝票などは全部この書類棚に入っている。今日はまず肩慣らしも兼ねて、どこに何が入っているのか調べて、正しくまとまっているか確認してくれ。ある程度は整理してあるつもりだが、いかんせん間に合ってなくてな」
「承知しました」
リリアーヌはこっそりとほっと息を吐いた。緊張しているという訳ではなかったが、まずは一人で没頭できる仕事を割り振られたのは正直有り難かった。
こうして新しい一日が幕を開けた。
リリアーヌに声を掛けられて、ローレンスは書類から目を上げた。
「どうだったか?」
「確かに、間違いがいくつかありましたのでメモを挟んでおきました」
ローレンスは書類を受け取るとざっと目を通した。
「助かった。ありがとう」
そう言ったローレンスがリリアーヌを見る眼差しには今まで感じたことのない感謝と尊敬が溢れていて、リリアーヌをまた困惑させる。
「お役に立てたのであれば、良かったです。……あの、ローレンス様」
「?」
「昼食の時間をかなり過ぎてしまいましたが、お腹が空いてはいらっしゃいませんか?」
そう言われてローレンスが時計に目をやると、もう午後2時を過ぎていた。
「確かに腹が減ったな」
リリアーヌはふふっ、と小さく笑うと答え、立ち上がった。
「厨房に行って何かつまめるものがないか、見て参りますね」
暫くするとノックの音が聞こえて、リリアーヌが戻ってきた。トレイに布巾のかかった皿が載っている。
「鹿肉がありましたので、サンドイッチにいたしました。お嫌いでないと良いのですけれど」
「あ、ああ、問題ない。うん、美味い」
「他にお手伝いできることはございますか?」
「今のところ大丈夫だ。本当に助かった。貴女もちゃんと昼を食べなさい。いいね?」
「はい、では御用がございましたらお呼び下さいませ。失礼いたします」
リリアーヌは静かにドアを閉めて厨房に戻ったが、廊下に響く自分の足音が心なしか弾んでいる気がした。それは久しぶりに頭をフル回転させて気分が高潮していたのか、それともローレンスから贈られた感謝の眼差しに心が震えたせいだったのかは分からない。だがいずれにせよ、この数時間の出来事が彼女のほとんど失われてかけていた誇りと自尊心の灯を再び燃え上がらせたのは間違いなかった。
ローレンスがリリアーヌとの出会いによって変わって行ったのと同じように、リリアーヌもまたローレンスによって少しづつ変わりつつあったのだ。
その夜、ローレンスはリリアーヌに驚くべき提案を持ちかけた。
いつものように執務室に茶を運んで来たリリアーヌに向かってこう言ったのだ。
「屋敷の家事を少し減らして構わないから、商会で俺の仕事を手伝ってくれないだろうか。……そうだな、週に2、3日」
「ええ⁉」
あまりの驚きにリリアーヌは思わず叫んでしまい、しまったという顔をした。大声で叫ぶなど、淑女の風上にも置けない振る舞いだからだ。
「わたくしが、ローレンス様のお仕事を、ですか?そんな、わたくしなど、とてもお役に立てそうにございません」
「何を言う。貴女の実力は今日で十分証明されてる。帳簿が読めて、仕事が早くて、余計なことを言わない人間はなかなかいない。ぜひ、お願いしたい」
ローレンスはいつになく熱弁を振るった。
「……」
「頼む。真剣に困っているんだ。俺の事業は各地に支店があって、当然、事務処理が膨大になる。今まで帳簿が読める人間は何人か雇ったが、だいたい仕事が多すぎて根を上げるか、俺の目が届かないのをいいことに金を横領しようとするか、そんな奴しかいなかった。だが貴女なら、安心して任せられる」
「でも……」
「もちろん貴女にも見返りが必要だ。だから商会での仕事に対しては今までの給金とは別に手当を出そう。……貴女は今、俺が払っている給金は全部借金の返済に充ててしまっているから、自由になる金がない。それでは何かと不便じゃないか?」
「それはそうですが……」
「だから、この手当は現金で渡す。何か貴女の楽しみに使うも良し、貯めて借金を早く返すも良し。どうだ、悪い話じゃないと思うんだが、考えてみてはくれないか?」
「……」
「頼む」
少し考えて、リリアーヌは心を決めた。
「お手伝いさせて頂きます。わたくしでお役に立てますなら」
「よし、決まりだ」
そう言うとローレンスは一通の封筒を差し出した。
「何でしょうか?」
「今月の分の先渡しだ。明日街に行って、これで少し固めの服装一式と、ちゃんとしたコートを買いなさい。今週いっぱいあれば仕立て上がるだろうから、仕事を始めるのは来週からにしよう」
「そんな、まだお仕事もしていないのに、頂けません」
だが、ローレンスは遠慮するリリアーヌの手に封筒を押し付けてぴしゃりと言い渡した。
「いいから取っておきなさい。王都の冬を甘く見てはいかん。風邪を引きたくなければ、言う通りにしなさい。いいね?」
そして週が明けた月曜日の朝、ローレンスとリリアーヌは馬車の中で向かい合って座っていた。
こうして同じ馬車の中にいると、彼が人並み外れた長身と恵まれた体躯を持っていることが良く分かる。
リリアーヌは上目遣いにローレンスを盗み見た。腕を組んで目を閉じてはいるが、眠っている訳ではなさそうだ。
「あの、ローレンス様……」
「何だ?」
「本当にわたくしで良いのでしょうか……皆さんにご迷惑をおかけしてしまうのでは……」
「俺がいいと言っている。なんの問題もない。ただ俺の商会にはあまり柄の良くない連中もいるから、逆に貴女がうんざりしないか、それが心配だ」
「わたくしが女であることで皆様不快に思われたりなさいませんか?」
するとローレンスが片目を開けてリリアーヌを見た。
「貴女が何を気にされてるのか分からないが、能力や知識に男も女も関係ないだろう?まあ、貴族社会ではそういうことに必要以上に神経質になる者もいるかもしれんが、俺は事業に関しては男か女かを気にしたことはないな」
「そんなふうに考えたことございませんでした……」
「貴族だって同じではないかな。遊んでばかりの亭主に代わって本気で領地経営に取り組んでいる細君の武勇伝などそこら中にある。ただ男のつまらん見栄が表に出そうとしないだけさ」
「確かにそうかもしれませんが、わたくし、やはりお給金と別にお金を頂くのは……」
「貴女が遠慮が服を着て歩いているような人だということは流石の俺でも分かってきたが、度を越した謙遜はあまり感心できん考え方だな。労働には対価が発生する。その成果として報酬を受け取ることは人間の当然の権利だ。堂々としていなさい。自分の能力を安売りしても良いことはないぞ」
そこまで言い切られてしまうともうリリアーヌは何も言えなかった。だが同時に心の中に、この人の期待を裏切らない働きをしようという強い意思が生まれてきてもいた。
その時、あ、と思い出したようにローレンスがリリアーヌに向き直った。
「貴女の素性は従業員には伝えていない。俺の遠縁で行儀見習いを兼ねて屋敷で預かっていることにしている。うちの従業員は余計なことは訊かない人間ばかりだから面倒なことはないと思うが、一応伝えておく」
「承知しました。お気遣いありがとうございます」
リリアーヌは頭を下げた。確かにこんな男社会で仮にも伯爵夫人が働いて給料をもらうなど普通ではあり得ない。余計な波風を立てぬよう、ローレンスの言うことに従っていたほうが良いだろう。
「着いたぞ」
ローレンスの声にリリアーヌは立ち上がり、馬車を降りて石造りの大きな建物の中に入った。室内に一歩足を踏み入れたリリアーヌは、ここは本当に同じ王都なのだろうかと目を疑った。
何という活気と熱量だろう。沢山の男たちが足早に行き交い、まさに空を飛ぶような勢いで書類や荷物が行き交っている。
「旦那様」
「社長」
「ローレンス様」
あちこちから掛けられる声に引き留められながら、ローレンスとリリアーヌはやっとのことで事務室に辿り着いた。
「皆、ちょっと集まってくれ」
ローレンスの声に、部屋にいた全員が仕事の手を止める。
「紹介しておこう。今日から週に2、3日、俺の仕事を補佐してもらう……オルフェウス嬢だ。皆、失礼のないように」
そう紹介されて、リリアーヌは慌ててお辞儀をした。
「皆様はじめまして。オルフェウスでございます。至らぬ点も多いと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」
自己紹介して頭を上げると、ぽかんとした表情が並んでいた。皆、リリアーヌのように膝を屈めるお辞儀など、見たこともないのだから無理もなかった。
気まずい沈黙が流れかけた時、助け船を出したのはローレンスだった。
「オルフェウス嬢は簿記の知識に明るい。今まで見落としてきた帳簿の間違いも、この人には通用しない。皆、か弱い女性だからと舐めてかかると痛い目に遭うからな」
男たちが皆、声を揃えて答えた。
「はいっ」
満足そうに頷いたローレンスはリリアーヌを手招きした。
「こちらへ」
「は、はい」
「貴女の席はここだ。帳簿や伝票などは全部この書類棚に入っている。今日はまず肩慣らしも兼ねて、どこに何が入っているのか調べて、正しくまとまっているか確認してくれ。ある程度は整理してあるつもりだが、いかんせん間に合ってなくてな」
「承知しました」
リリアーヌはこっそりとほっと息を吐いた。緊張しているという訳ではなかったが、まずは一人で没頭できる仕事を割り振られたのは正直有り難かった。
こうして新しい一日が幕を開けた。
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