【完結】導く者に祝福を、照らす者には口づけを 〜見捨てられた伯爵夫人は高利貸しの愛で再び輝く〜

碓氷シモン

文字の大きさ
上 下
7 / 60
第二章

7.新しい日常

しおりを挟む
「終わりました、ローレンス様」
 リリアーヌに声を掛けられて、ローレンスは書類から目を上げた。
「どうだったか?」
「確かに、間違いがいくつかありましたのでメモを挟んでおきました」
 ローレンスは書類を受け取るとざっと目を通した。
「助かった。ありがとう」
 そう言ったローレンスがリリアーヌを見る眼差しには今まで感じたことのない感謝と尊敬が溢れていて、リリアーヌをまた困惑させる。
「お役に立てたのであれば、良かったです。……あの、ローレンス様」
「?」
「昼食の時間をかなり過ぎてしまいましたが、お腹が空いてはいらっしゃいませんか?」
 そう言われてローレンスが時計に目をやると、もう午後2時を過ぎていた。

「確かに腹が減ったな」
 リリアーヌはふふっ、と小さく笑うと答え、立ち上がった。
「厨房に行って何かつまめるものがないか、見て参りますね」

 暫くするとノックの音が聞こえて、リリアーヌが戻ってきた。トレイに布巾のかかった皿が載っている。
「鹿肉がありましたので、サンドイッチにいたしました。お嫌いでないと良いのですけれど」
「あ、ああ、問題ない。うん、美味い」
「他にお手伝いできることはございますか?」
「今のところ大丈夫だ。本当に助かった。貴女もちゃんと昼を食べなさい。いいね?」
「はい、では御用がございましたらお呼び下さいませ。失礼いたします」

 リリアーヌは静かにドアを閉めて厨房に戻ったが、廊下に響く自分の足音が心なしか弾んでいる気がした。それは久しぶりに頭をフル回転させて気分が高潮していたのか、それともローレンスから贈られた感謝の眼差しに心が震えたせいだったのかは分からない。だがいずれにせよ、この数時間の出来事が彼女のほとんど失われてかけていた誇りと自尊心の灯を再び燃え上がらせたのは間違いなかった。

 ローレンスがリリアーヌとの出会いによって変わって行ったのと同じように、リリアーヌもまたローレンスによって少しづつ変わりつつあったのだ。

 その夜、ローレンスはリリアーヌに驚くべき提案を持ちかけた。
 いつものように執務室に茶を運んで来たリリアーヌに向かってこう言ったのだ。

「屋敷の家事を少し減らして構わないから、商会で俺の仕事を手伝ってくれないだろうか。……そうだな、週に2、3日」
「ええ⁉」

 あまりの驚きにリリアーヌは思わず叫んでしまい、しまったという顔をした。大声で叫ぶなど、淑女の風上にも置けない振る舞いだからだ。
「わたくしが、ローレンス様のお仕事を、ですか?そんな、わたくしなど、とてもお役に立てそうにございません」
「何を言う。貴女の実力は今日で十分証明されてる。帳簿が読めて、仕事が早くて、余計なことを言わない人間はなかなかいない。ぜひ、お願いしたい」
 ローレンスはいつになく熱弁を振るった。
「……」
「頼む。真剣に困っているんだ。俺の事業は各地に支店があって、当然、事務処理が膨大になる。今まで帳簿が読める人間は何人か雇ったが、だいたい仕事が多すぎて根を上げるか、俺の目が届かないのをいいことに金を横領しようとするか、そんな奴しかいなかった。だが貴女なら、安心して任せられる」
「でも……」
「もちろん貴女にも見返りが必要だ。だから商会での仕事に対しては今までの給金とは別に手当を出そう。……貴女は今、俺が払っている給金は全部借金の返済に充ててしまっているから、自由になる金がない。それでは何かと不便じゃないか?」
「それはそうですが……」
「だから、この手当は現金で渡す。何か貴女の楽しみに使うも良し、貯めて借金を早く返すも良し。どうだ、悪い話じゃないと思うんだが、考えてみてはくれないか?」
「……」
「頼む」

 少し考えて、リリアーヌは心を決めた。
「お手伝いさせて頂きます。わたくしでお役に立てますなら」
「よし、決まりだ」
 そう言うとローレンスは一通の封筒を差し出した。
「何でしょうか?」
「今月の分の先渡しだ。明日街に行って、これで少し固めの服装一式と、ちゃんとしたコートを買いなさい。今週いっぱいあれば仕立て上がるだろうから、仕事を始めるのは来週からにしよう」
「そんな、まだお仕事もしていないのに、頂けません」
 だが、ローレンスは遠慮するリリアーヌの手に封筒を押し付けてぴしゃりと言い渡した。
「いいから取っておきなさい。王都の冬を甘く見てはいかん。風邪を引きたくなければ、言う通りにしなさい。いいね?」

 そして週が明けた月曜日の朝、ローレンスとリリアーヌは馬車の中で向かい合って座っていた。
 こうして同じ馬車の中にいると、彼が人並み外れた長身と恵まれた体躯を持っていることが良く分かる。
 リリアーヌは上目遣いにローレンスを盗み見た。腕を組んで目を閉じてはいるが、眠っている訳ではなさそうだ。
「あの、ローレンス様……」
「何だ?」
「本当にわたくしで良いのでしょうか……皆さんにご迷惑をおかけしてしまうのでは……」
「俺がいいと言っている。なんの問題もない。ただ俺の商会にはあまり柄の良くない連中もいるから、逆に貴女がうんざりしないか、それが心配だ」
「わたくしが女であることで皆様不快に思われたりなさいませんか?」

 するとローレンスが片目を開けてリリアーヌを見た。
「貴女が何を気にされてるのか分からないが、能力や知識に男も女も関係ないだろう?まあ、貴族社会ではそういうことに必要以上に神経質になる者もいるかもしれんが、俺は事業に関しては男か女かを気にしたことはないな」
「そんなふうに考えたことございませんでした……」
「貴族だって同じではないかな。遊んでばかりの亭主に代わって本気で領地経営に取り組んでいる細君の武勇伝などそこら中にある。ただ男のつまらん見栄が表に出そうとしないだけさ」
「確かにそうかもしれませんが、わたくし、やはりお給金と別にお金を頂くのは……」
「貴女が遠慮が服を着て歩いているような人だということは流石の俺でも分かってきたが、度を越した謙遜はあまり感心できん考え方だな。労働には対価が発生する。その成果として報酬を受け取ることは人間の当然の権利だ。堂々としていなさい。自分の能力を安売りしても良いことはないぞ」

 そこまで言い切られてしまうともうリリアーヌは何も言えなかった。だが同時に心の中に、この人の期待を裏切らない働きをしようという強い意思が生まれてきてもいた。
 その時、あ、と思い出したようにローレンスがリリアーヌに向き直った。
「貴女の素性は従業員には伝えていない。俺の遠縁で行儀見習いを兼ねて屋敷で預かっていることにしている。うちの従業員は余計なことは訊かない人間ばかりだから面倒なことはないと思うが、一応伝えておく」
「承知しました。お気遣いありがとうございます」
 リリアーヌは頭を下げた。確かにこんな男社会で仮にも伯爵夫人が働いて給料をもらうなど普通ではあり得ない。余計な波風を立てぬよう、ローレンスの言うことに従っていたほうが良いだろう。

「着いたぞ」

 ローレンスの声にリリアーヌは立ち上がり、馬車を降りて石造りの大きな建物の中に入った。室内に一歩足を踏み入れたリリアーヌは、ここは本当に同じ王都なのだろうかと目を疑った。
 何という活気と熱量だろう。沢山の男たちが足早に行き交い、まさに空を飛ぶような勢いで書類や荷物が行き交っている。
「旦那様」
「社長」
「ローレンス様」
 あちこちから掛けられる声に引き留められながら、ローレンスとリリアーヌはやっとのことで事務室に辿り着いた。
「皆、ちょっと集まってくれ」
 ローレンスの声に、部屋にいた全員が仕事の手を止める。
「紹介しておこう。今日から週に2、3日、俺の仕事を補佐してもらう……オルフェウス嬢だ。皆、失礼のないように」
 そう紹介されて、リリアーヌは慌ててお辞儀をした。
「皆様はじめまして。オルフェウスでございます。至らぬ点も多いと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」

 自己紹介して頭を上げると、ぽかんとした表情が並んでいた。皆、リリアーヌのように膝を屈めるお辞儀など、見たこともないのだから無理もなかった。
 気まずい沈黙が流れかけた時、助け船を出したのはローレンスだった。
「オルフェウス嬢は簿記の知識に明るい。今まで見落としてきた帳簿の間違いも、この人には通用しない。皆、か弱い女性だからと舐めてかかると痛い目に遭うからな」
 男たちが皆、声を揃えて答えた。
「はいっ」
 満足そうに頷いたローレンスはリリアーヌを手招きした。
「こちらへ」
「は、はい」
「貴女の席はここだ。帳簿や伝票などは全部この書類棚に入っている。今日はまず肩慣らしも兼ねて、どこに何が入っているのか調べて、正しくまとまっているか確認してくれ。ある程度は整理してあるつもりだが、いかんせん間に合ってなくてな」
「承知しました」

 リリアーヌはこっそりとほっと息を吐いた。緊張しているという訳ではなかったが、まずは一人で没頭できる仕事を割り振られたのは正直有り難かった。
 こうして新しい一日が幕を開けた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

〈完結〉遅効性の毒

ごろごろみかん。
ファンタジー
「結婚されても、私は傍にいます。彼が、望むなら」 悲恋に酔う彼女に私は笑った。 そんなに私の立場が欲しいなら譲ってあげる。

私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない

文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。 使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。 優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。 婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。 「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。 優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。 父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。 嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの? 優月は父親をも信頼できなくなる。 婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

魅了が解けた貴男から私へ

砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。 彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。 そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。 しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。 男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。 元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。 しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。 三話完結です。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

子育てが落ち着いた20年目の結婚記念日……「離縁よ!離縁!」私は屋敷を飛び出しました。

さくしゃ
恋愛
アーリントン王国の片隅にあるバーンズ男爵領では、6人の子育てが落ち着いた領主夫人のエミリアと領主のヴァーンズは20回目の結婚記念日を迎えていた。 忙しい子育てと政務にすれ違いの生活を送っていた二人は、久しぶりに二人だけで食事をすることに。 「はぁ……盛り上がりすぎて7人目なんて言われたらどうしよう……いいえ!いっそのことあと5人くらい!」 気合いを入れるエミリアは侍女の案内でヴァーンズが待つ食堂へ。しかし、 「信じられない!離縁よ!離縁!」 深夜2時、エミリアは怒りを露わに屋敷を飛び出していった。自室に「実家へ帰らせていただきます!」という書き置きを残して。 結婚20年目にして離婚の危機……果たしてその結末は!?

記憶喪失になった嫌われ悪女は心を入れ替える事にした 

結城芙由奈@コミカライズ発売中
ファンタジー
池で溺れて死にかけた私は意識を取り戻した時、全ての記憶を失っていた。それと同時に自分が周囲の人々から陰で悪女と呼ばれ、嫌われている事を知る。どうせ記憶喪失になったなら今から心を入れ替えて生きていこう。そして私はさらに衝撃の事実を知る事になる―。

【完結】お飾りの妻からの挑戦状

おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。 「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」 しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ…… ◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています ◇全18話で完結予定

処理中です...