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序章
1.文無しの伯爵夫人
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王都の外れ、十二番街。
黒と金の豪華な門扉の前に、これもまた非常に豪華な二頭建ての馬車が止まり、一人の男が降りてきた。
男の名はローレンス・フィッツジェラルド。王都で知らない者はいない大商人だ。
海運業と造船業と銀行で莫大な財を成し、平民ながら王宮への出入りも許されている、当代きっての成功者。
だがその表の顔とは裏腹に、彼の富は高利貸しや地上げで築かれたものだという暗い噂が常に付きまとっていた。
「ここか」
ローレンスは屋敷を見上げて呟いた。
伯爵という爵位に相応しい、豪華で広大な屋敷。
だがその屋敷は気味が悪いほど静まり返っており、女中や使用人が行き来する姿は全くない。
なぜこのような屋敷に住む伯爵夫人が……。
ローレンスが首を傾げながら玄関のノッカーをコツコツと叩くと、ほどなくして執事らしき初老の男がドアを細く開けた。
「どちら様でしょうか」
「ローレンス・フィッツジェラルドという者だ。夫人に用がある」
「奥様に、ですか?どのようなご用件でしょうか?」
「この名刺を渡してくれ。夫人にはお分りの筈だ」
「かしこまりました。少々、お待ちを」
執事は慇懃に頭を下げると奥へ消えたが、すぐに速足で戻ってくるとローレンスを玄関に招き入れた。
「し、失礼いたしました。奥様はすぐお会いになるそうです。どうぞこちらへ」
ローレンスは玄関ホールを見回した。大理石のモザイクの床、樫の木の階段、アーチ型の高い天井。どれをとっても金と手間暇をかけて贅をこらした造りだということが分かる。
だが、そこには何もない。豪華なホールに彩りを添える絹張りの椅子も、猫足のテーブルも、異国趣味の花瓶も、絨毯さえも、何も。
やはり何かがおかしい……よほど金に困っているのだな。
「奥様。お連れしました」
「入って頂いて」
執事の声に我に返ったローレンスは応接間に足を踏み入れたが、その光景にぎょっとした。
窓辺に陽の光を背にして一人の若い女性が立っている。その手前にあるソファには彼女とあまり年が変わらないぐらいの男がふんぞり反って座っており、そのすぐ横にかなり年かさのメイドの服装をした女が座って、男の両手を愛しそうに擦っているのだ。
あの若い女性が伯爵夫人だろう。ということは、この男が夫。だが、このメイドは?
修羅場は慣れているとはいえ、あまり経験したことのない異様な光景に考えを巡らせていたローレンスに、窓際の女性が近づくと腰を屈めてお辞儀をした。
「初めまして。リリアーヌ・オルフェウスと申します。こちらは夫のマテオ・オルフェウス伯爵です。わざわざご足労頂き申し訳ございません、フィッツジェラルド様。どうぞおかけ下さい」
「失礼」
ローレンスが応接椅子に腰かけると、リリアーヌという夫人もソファの近くまで来たが、そのまま立っている。
その姿を横目で見てソファの男がチッ!とあからさまな舌打ちをしたのをローレンスは見逃さなかった。
「フィッツジェラルド殿、と言われるか、それで今日はどのようなご用件で?」
妻に向ける忌々しそうな視線から一変、おどおどとマテオという男がローレンスに尋ねた。顔が赤く、呂律が回らない。どうやらまだ昼過ぎだというのに酔っぱらっているようだ。
ローレンスはこの状況を整理する時間を稼ごうと、咳払いを一つして切り出した。
「その前に、申し訳ないがお茶を一杯所望しても?今日は暑いので喉が渇いて」
口調は丁寧だが、投げられた視線はその場の全員が凍り付くような鋭さだ。するとマテオがリリアーヌを怒鳴りつけた。
「は、早く茶を用意しろ!全く役立たずだなお前は!お客様に不自由をさせるなと何度言ったらわかる!」
「も、申し訳ありません。今すぐ」
消え入りそうな声で答えるとリリアーヌがそそくさと部屋の端の茶器へ向かった。
(伯爵夫人が茶を淹れるのか?ここにいるのはどう見てもメイドだろう?)
だがマテオは怯えたような甘えたような目でメイドを見上げ、子供のように縋りついたままだ。
「なあ、イヴォンヌ。あいつをどう思う?どうしていつまでもウスノロの役立たずなんだろうな?」
イヴォンヌと呼ばれたメイドは口の端にねちっこい笑みを浮かべると、マテオの両手を握りしめながら答えた。
「まあまあ、坊ちゃま。お客様の前でそのようなこと口にするものではございませんよ。奥様がああなのは、もうずっと以前からじゃございませんの」
ローレンスの背中がざわざわと波立った。
ふとティーテーブルに目線をやると、夫人は茶の支度をしながら俯き、ドレスのスカートをぎゅっと両手で握りしめて自分を落ち着かせようとしていた。
「どうぞ……」
まもなくリリアーヌがかすかに手を震わせてカタカタと音をさせながらカップをローレンスの前に置いた。
花柄と金の模様が施された美しいカップに紅色の茶が注がれ、スプーンの上には一切れのオレンジ。芳しい香りが立ち上ってくる。
静かにローレンスはカップに口をつけて内心驚いた。
(美味い)
だがその味を堪能する間もなく、やけに耳に障る甲高いマテオの声が響いた。
「で、よ、用件は何だ?平民の商人がなぜ伯爵家へ?」
もうすっかり慣れてはいるが、失礼な物言いがローレンスの神経を逆撫でした。懐から数枚の書類を取り出してテーブルに広げる。
「夫人。これは貴女がうちから金を借りた証文で間違いないですな?」
そして深く被っていた帽子をゆっくりと脱いだ。
その瞬間、リリアーヌとマテオとイヴォンヌの顔が青くなり、口から抑えきれない悲鳴が漏れた。
黒と金の豪華な門扉の前に、これもまた非常に豪華な二頭建ての馬車が止まり、一人の男が降りてきた。
男の名はローレンス・フィッツジェラルド。王都で知らない者はいない大商人だ。
海運業と造船業と銀行で莫大な財を成し、平民ながら王宮への出入りも許されている、当代きっての成功者。
だがその表の顔とは裏腹に、彼の富は高利貸しや地上げで築かれたものだという暗い噂が常に付きまとっていた。
「ここか」
ローレンスは屋敷を見上げて呟いた。
伯爵という爵位に相応しい、豪華で広大な屋敷。
だがその屋敷は気味が悪いほど静まり返っており、女中や使用人が行き来する姿は全くない。
なぜこのような屋敷に住む伯爵夫人が……。
ローレンスが首を傾げながら玄関のノッカーをコツコツと叩くと、ほどなくして執事らしき初老の男がドアを細く開けた。
「どちら様でしょうか」
「ローレンス・フィッツジェラルドという者だ。夫人に用がある」
「奥様に、ですか?どのようなご用件でしょうか?」
「この名刺を渡してくれ。夫人にはお分りの筈だ」
「かしこまりました。少々、お待ちを」
執事は慇懃に頭を下げると奥へ消えたが、すぐに速足で戻ってくるとローレンスを玄関に招き入れた。
「し、失礼いたしました。奥様はすぐお会いになるそうです。どうぞこちらへ」
ローレンスは玄関ホールを見回した。大理石のモザイクの床、樫の木の階段、アーチ型の高い天井。どれをとっても金と手間暇をかけて贅をこらした造りだということが分かる。
だが、そこには何もない。豪華なホールに彩りを添える絹張りの椅子も、猫足のテーブルも、異国趣味の花瓶も、絨毯さえも、何も。
やはり何かがおかしい……よほど金に困っているのだな。
「奥様。お連れしました」
「入って頂いて」
執事の声に我に返ったローレンスは応接間に足を踏み入れたが、その光景にぎょっとした。
窓辺に陽の光を背にして一人の若い女性が立っている。その手前にあるソファには彼女とあまり年が変わらないぐらいの男がふんぞり反って座っており、そのすぐ横にかなり年かさのメイドの服装をした女が座って、男の両手を愛しそうに擦っているのだ。
あの若い女性が伯爵夫人だろう。ということは、この男が夫。だが、このメイドは?
修羅場は慣れているとはいえ、あまり経験したことのない異様な光景に考えを巡らせていたローレンスに、窓際の女性が近づくと腰を屈めてお辞儀をした。
「初めまして。リリアーヌ・オルフェウスと申します。こちらは夫のマテオ・オルフェウス伯爵です。わざわざご足労頂き申し訳ございません、フィッツジェラルド様。どうぞおかけ下さい」
「失礼」
ローレンスが応接椅子に腰かけると、リリアーヌという夫人もソファの近くまで来たが、そのまま立っている。
その姿を横目で見てソファの男がチッ!とあからさまな舌打ちをしたのをローレンスは見逃さなかった。
「フィッツジェラルド殿、と言われるか、それで今日はどのようなご用件で?」
妻に向ける忌々しそうな視線から一変、おどおどとマテオという男がローレンスに尋ねた。顔が赤く、呂律が回らない。どうやらまだ昼過ぎだというのに酔っぱらっているようだ。
ローレンスはこの状況を整理する時間を稼ごうと、咳払いを一つして切り出した。
「その前に、申し訳ないがお茶を一杯所望しても?今日は暑いので喉が渇いて」
口調は丁寧だが、投げられた視線はその場の全員が凍り付くような鋭さだ。するとマテオがリリアーヌを怒鳴りつけた。
「は、早く茶を用意しろ!全く役立たずだなお前は!お客様に不自由をさせるなと何度言ったらわかる!」
「も、申し訳ありません。今すぐ」
消え入りそうな声で答えるとリリアーヌがそそくさと部屋の端の茶器へ向かった。
(伯爵夫人が茶を淹れるのか?ここにいるのはどう見てもメイドだろう?)
だがマテオは怯えたような甘えたような目でメイドを見上げ、子供のように縋りついたままだ。
「なあ、イヴォンヌ。あいつをどう思う?どうしていつまでもウスノロの役立たずなんだろうな?」
イヴォンヌと呼ばれたメイドは口の端にねちっこい笑みを浮かべると、マテオの両手を握りしめながら答えた。
「まあまあ、坊ちゃま。お客様の前でそのようなこと口にするものではございませんよ。奥様がああなのは、もうずっと以前からじゃございませんの」
ローレンスの背中がざわざわと波立った。
ふとティーテーブルに目線をやると、夫人は茶の支度をしながら俯き、ドレスのスカートをぎゅっと両手で握りしめて自分を落ち着かせようとしていた。
「どうぞ……」
まもなくリリアーヌがかすかに手を震わせてカタカタと音をさせながらカップをローレンスの前に置いた。
花柄と金の模様が施された美しいカップに紅色の茶が注がれ、スプーンの上には一切れのオレンジ。芳しい香りが立ち上ってくる。
静かにローレンスはカップに口をつけて内心驚いた。
(美味い)
だがその味を堪能する間もなく、やけに耳に障る甲高いマテオの声が響いた。
「で、よ、用件は何だ?平民の商人がなぜ伯爵家へ?」
もうすっかり慣れてはいるが、失礼な物言いがローレンスの神経を逆撫でした。懐から数枚の書類を取り出してテーブルに広げる。
「夫人。これは貴女がうちから金を借りた証文で間違いないですな?」
そして深く被っていた帽子をゆっくりと脱いだ。
その瞬間、リリアーヌとマテオとイヴォンヌの顔が青くなり、口から抑えきれない悲鳴が漏れた。
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